06/04(改)

―心理学でゲームを語ろう。

達成動機とゲーマー病
 
 人はなぜゲームで遊んでしまうのか? なぜテスト前になると無性にゲームがやりたくなってしまうのか?

 人の持つ欲求には、生理的なものと社会的なものとがある。前者は「ゴハンたべたい」「ねむたい」等の自然の欲求だから、ゲームやりたい欲求は無論、後者にあたる。そして、この欲求にかられている間は、前者の自然的欲求を忘れ、トイレにもいかず飲まず食わずで徹夜してしまうこともしばしばあるのは、ゲーマーの皆様がご存知のとおり(笑)。

 ところで、人がTVゲームをやることには、いくつかの理由があると思う。純粋にゲーム内容が楽しいから、という理由。やんないとクラス等の話題についていけない、という理由など。私などは自分が楽しいからやるタイプの人間なので、深くのめりこみはするが、他にもっと楽しいことがあればそっちに飛びつく。

 しかし、俗にゲーマーと言われる人々の場合はどうも事情が違っているようである。
 「ゲームをする」こと自体が目標となっているように感じられる。その証拠に、彼らは一つのゲームに飽きると「あー、次なんのゲームしようかー」と、常にやるべきゲームを探しているのである。ゲーム以上に楽しいことが見つけられない、と言うべきかもしれない。

 目標には、それを達成しようとする達成動機というものが生まれる。この達成動機は、目指す目標が高すぎても、低すぎても弱まってしまう。つまり、人によって適度な目標の高さというのは、違うのである。
 これを「ヤーキズ・ドットソンの法則」と、いうらしいが、それって多分、思いついた人の名前なんだろうな…。まぁ、どうでもいいか。(流す流す)

 この法則をゲームに当てはめると、ゲームにも、適切な難易度があると言える。ゲームのクリアが目的とすると、クリアするのが難しいほど目標が高くなる、というわけだ。
 好きだからプレイするタイプは、達成動機が高い。ということは、簡単すぎるゲームでは「つまらない」と感じ、
 たとえば、やたらと難易度の高い「絶対できねぇよこんなん!」といわれるようなゲーム(例;ランドストーカーや初代アランドラ)などは、オレのごとき変わり者のコアユーザーしかハマらないだろう。
 逆に、達成動機の低い初心者は、謎解きがカンタンなゲームにハマるはずだ。
 話題のためにプレイするタイプも、達成動機が低い。ゲーム自体を楽しむよりも、クリアした後、そのゲームについて話をする、もしくは「最先端のゲームをやった」という気分になるのが目的だからだ。
 人によって、ゲームをやり遂げようとする要求の強さは異なる。よって、適度な難易度も、人によって異なる。

 つまりゲームは、自分にとって適切な難易度の目標を自由に選べるという点において、「たとえ無理してでもやらなければならない」ことや「やりたくない単純なことまでやらされる」現実とは違い、ヤル気をかきたててくれる世界だと言えるのだ。

 さらに、ゲームにはもう一つ、常に目的が用意されており、進むべき方向が分かっているという特徴がある。
 ゲームの目的は、現実にくらべ、ひどく簡単だ。謎を解く、あるダンジョンをクリアする、ボスを倒すetc。それらの目標に対し、プレイヤーは、真剣に自分の行動理由を考える必要などない。(失敗したら、リセットボタンを押すだけだ。)
 しかも、与えられる小さな目標をひとつずつクリアしていくだけで、ゲームそのもののクリアという大きな目標へとたどり着く。

 プログラムどおり進んでいけば目標を達成できるのだから、これほど簡単に満足の得られるツールはない。常に受身でありながら、あたかも自分の意志で、能動的に成功を得たかのような錯覚を得られるわけである。

 人の持つ「社会的要求」の中でも、最も高次なものに、「自己実現の欲求」というものがある。これは、何らかの目標を打ち立て、それに対し努力しながら突き進んで成功を手にした者だけが満たせる欲求である。

 現実においては、これを満たすために考えたり、悩んだり、時には達成動機の低い事柄でも意を決して行わなければならないかもしれないが、ゲームの世界では、そのようなことは一切必要ない「ゲームをクリアする」という目標は、定められた筋書きを最後まで辿れば、必ず達成される。
 もしかするとプレイヤーは、ゲームをクリアすることによって、自己実現の欲求を満たす疑似体験をしているのではないだろうか。何も得られていない現実から逃避するために、次々とゲームをクリアして、成し遂げた実感(の、幻影)に浸っているのではないだろうか?

 だとすると、過度のゲームプレイは真の自己実現を遠ざけ、開かれた人格形成を妨げる恐れがある。そうでなくとも、TVゲームの普及は対人関係や仲間意識を希薄にするとして危険視されている。

 これを実証するためには、ゲームをプレイすることに取り憑かれた人々が、現実の目標に対しどのような感情をもっているかを調査すればよい。その人が現実に持つ欲求(何かの試験に受かりたい、何かの資格を取りたいetc)と、その欲求を満たそうとする達成動機の関係はどうか。
 もし、欲求を満たしたいと思っているにもかかわらず、目標が極端に高すぎるか低すぎるかによってヤル気が起きないでいたら、その代価としてゲームによる達成感で擬似的な満足を得ている可能性がある。

 また、自分のなすべきこと、目標が見えていない状況(いわゆる「同一性拡散」状態)でも、ゲームの与えてくれる目標に頼り切って、自分から達成目標を生み出すことを忘れてしまっていると言えるだろう。

 やりたいことがあり、それに向かっていく道が見えているなら、ゲームにそれほどうつつを抜かすことはしないだろう。現実をおろそかにしてまで、のめりこむことはしないだろう。
 過剰にゲームにのめりこむ人は、有り余るエネルギーを何処に向けてよいのか分からない、または、何をしていいのか分からないという状況にある人なのではないだろうか。

 心当たりのある人…? もしかして、本当は空虚な生活、送ってませんか…?

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