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心理学による神話考察−ユング的考え方の限界 |
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一般人に心理学について聞くと、臨床心理学やフロイト、ユングなどが出てくることが多い。マスメディアへの露出が高いし、何の予備知識もなくても理解しやすい、哲学的というか、物語的な考え方をしているからだろう。 だが今の心理学において、フロイトは無関係ではないが「古典」として扱うことが多い。 ユングなついては、ほとんど、かすりもしない。おそらく大学で心理学を学んでいる多くの学生が、授業中に一度もユングの名前を聞かずに終わっていると思う。 そんな、「心理学」としてはあまり重要視されていないユングだが、「哲学」としてのユング思想自体は、非常に人気がある。 ユングの思想は「無意識」を中心として扱うものだ。 人には無意識がある。それは本人が意識しないものであるがゆえに、本人にとっては未知で神秘的で、知りたいという興味は持っていても宿命として自分では知ることが出来ない。 そのような性質から、「もっと自分を知りたい」と思う多くの人にとって、ユングはバイブルのような存在になっている気がする。 だがユングの本を学んだからと言って、別に自分の心理に詳しくなるわけではない。他人の心理もしかり。 無意識とは、「自分にとって」の無意識であって、自分には見えなくても他人には見えているのである。 だから、緊張すると無意識に頭をかく癖のある人にとって、自分が頭をかいていることは分かっていなくても、周りの人からすれば不思議でも未知でもない。緊張していることは丸バレなのである。自分のことが知りたければ、本を読むより心理学を勉強するより周囲の人に聞いたほうが確実で手っ取り早い。 まあ、ざっくり言ってしまえば、自分のことを一番良く知っているのが自分とは限らないし、自分のことを自分だけが理解しているとも限らないわけだ。 ところで、神話というと、よくユングが挙げられるが、神話や民俗学を取り上げた心理学者は彼が最初ではない。哲学から心理学という分野を分離することに貢献した、「近代心理学の祖」のひとり、ヴィルヘルム・ヴント(Wundt,W 1832−1920)だ。 もっとも彼はユングほど神話にこだわったわけではない。 現状としてのその民族の社会構成や状況を踏まえた上での個々の文化による心理というものを論じるために、その文化特有の伝承である神話にも注目したというだけだ。 ヴントは、神話を含む文化的な心理を考察し、晩年を「民俗心理学」という大著の完成に費やしている。私は実際に読んだことがないが、要約すると、「人間の心理は個人にとどまるものではなく、その人の属する社会、民族、宗教などにもよるのだ」と、いうものらしい。 これは、それまで欧米中心だった心理学では他の地域には適応できないということを悟ったためと考えられる。 人間の心理というものは、所属する文化によって異なるものである。 少なくとも、反応は違う。喜怒哀楽という表情は同じでも、どの状況でどの感情を表に出すのか、喜びと悲しみの間にどのような違いがあるのか、といったところは、文化によって異なっている。 たとえば、日本人は困ったときについつい笑ってしまうが、嬉しいわけではない。もし生まれたときから外国の文化の中で育っていたら、日本人でも、困ったときに笑わなくなるはずだ。ちなみに外国では困ったときに笑っていると本気で怒られることもある。 このように、文化によって人のとる感情表現は異なる。人の心理とは表に出た行動から推測されるものだから、文化圏が異なる場所では、欧米の心理学が通用しないことになる。 しかし、この考え方は、ともすれば白人優位主義や人種差別につながる危険を孕んでいる。 ヴントやフロイト、ユングらの生きていた時代というのが、世界大戦へとつながっていく時代だったことも原因だろう。「あいつらはオレたちとは違う、だから分かり合えないのが当然だ」という考えのもとに、誤解や偏見が生じた。 ヴントの「民俗心理学」もまた、文化内の個人差を考慮せずに「○○人は××だ」といったステレオタイプな見方にとらわれていたり、異文化に対する理解が不十分だったりと、偏見から完全に脱し切れていない。 この類の研究は、その後、差異心理学、比較心理学など、多くの試みが成されたものの、しっかりとした実を結ばずに現在に至っている。むしろ、国際化社会を迎えた今から発展すべき分野だといえるだろう。 ユングの心理学は、ヴントのような文化的な差異を扱う心理学ではない。逆に、表面的な差異をとっぱらって、全人類に共通のものを見出そうとする心理学である。そのために、世界各国の神話を取り上げ、その中から共通する部分を抜き出して述べることもある。 ユング的な考え方では、無意識は文化に属さない。 人間の基礎の基礎、最も原始的な反応や思考回路、ユングの言う「アニマ・ムンディ」や「アニマ・アニムス」は、人類みな同じであろう、というのが彼の思想だ。そして、神話は、より原始的な記憶であるから、世界中の神話に共通するモチーフは、人間の原始的な記憶、人類にとっての無意識的な本質につながっている、と、いうのである。 フロイトによる「原父の殺害記憶」や「トーテム崇拝と父権」についての話も、これとほぼ同じことを言っている。神話から、人類共通の(最も原始的で、中心にある)心理を導き出そう、というのだ。 だが、ここに一つの疑問を感じる。 たとえ全人類に共通する根源的なものがあったとしても、結局のところ、それがどう表面化するかについては各文化による個々のバイアス、つまり表現の仕方というものが関係してくるのではないか。表面化した結果から逆算して元にたどり着くことは、本当に可能なのか? 人間は本質的に、母性への憧れ、マザコンとでも言うべきものを持っているという。これをエディプス・コンプレックスという。 しかし、その母性に対する思いがどのような行動や感情によって表現されるかまでは、ユング心理学では語られない。彼は神話を見て、現実の社会を見ていないからだ。 それは、「現在の」生きている人間の状況を分かっていないということであり、「古事記」や「源氏物語」を読んで、日本人の心情推測するようなものである。古典は日本人の性質と無関係ではないが、それだけで現代の日本人を理解したことにはなり得ない。 神話の中の時間は止まっている。今現在、信仰されている宗教の物語だったとしても、そこに現されているものが生身の、現在ここに存在する人間の心理と繋がっているとは、到底思えない。物語の中や神話の中の登場人物について、もっともらしく語ることは出来ても、活動している社会に存在する人間について語るこには相応しくない。 また、ユングは、全人類に共通する人間の本質とでも言うべきものを見つけようとしていたが、仮説としてそういうものがある、と想像することは出来ても、確かなものなのかは証明の仕様が無い。自分の無意識なら他人に見てもらえるが、人類共通の無意識は、人類自身では見つけられないはずだからだ。 そこに、おのずと限界ができる。 ユング心理学が見つけようとしていたもの、語ろうとしていた理論は、前提からして「証明できないもの」「自分では見つけられないもの」ではないだろうか。 また、人類共通の無意識を探すための材料としたものが「神話」や「伝説」であったために、現在生きている人間について語ることは出来ていないのではないか。 ユングの語ることは幻想的で抽象的な内容が多いため、様々に解釈してもっともらしい説明に作り変えることが出来る。 そもそもの前提が「全人類に共通の、全神話に共通する心理」なのだから、多少ひねれば、どんな場合にだって当てはまってしまうのだ。そしてまた、「人間の最も根源的な心理」なのだから、それ以上遡ることは出来ないし、研究のしようがない。その意味では完成されていると同時に、どんづまりの理屈でもある。 結局のところ、神話は人の心から生まれはしても、人の心そのものの投影ではない。また、投影されている心というものが、今ここに生きている人間のものとは限らない。 神話は神話として論じるべきであり、心理学と結びつけるのは間違いだろう。 もし心理学として神話考察を取り入れるのであれば、単独で扱うべきではなく、「文化」の一部として考えるべきだ。 現実なくして空想の世界は在り得ない。神話は人間が語るものであり、心理学は生身の人間を対象とした学問である。ユングの理論は、神話の中の人物は語れても、現実の人間について語ることにおいて、不得手である。 つまりユング思想は、神話や物語の中の登場人物について解釈するため、それらに添えられる最もらしく面白い理屈としては優秀だが、現実に生きている人々について論じる有効な心理学としては、前提からして不適切であるという次第である。 |
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