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―幽霊からほど遠い場所−長野まゆみ論

 
 久しぶりに、本棚にしまったままの長野まゆみの本を取り出してきて読んでみた。
 日本語の美しい短い物語を得意とする作家さんである。(少なくとも、デビューしてしばらくの間は。)
 ここでは、かなりつまらないボーイズ恋愛もの小説を書くようになってしまった時代の長野まゆみは切り捨てて、文藝文庫で作品を出していた頃の話をしたい。

 その薄っぺらな白い背表紙の本は、てのひらサイズで、とても薄く、表紙には水彩の空想絵が描かれていた。高校生くらいの時は、夢中になって何度も読んだものだ。その、視覚的な美しい世界は、少なくとも当時の自分を虜にした。
 …そんな思い出とともに、本棚に仕舞いこんでから、何年もが経っていた。

 昔は好きだったはずの物語なのに、今は、読んでもあまり楽しいとは思えなかった。
 なぜかって、登場人物の少年たちが、生きているのか死んでいるのか分からないキャラクターばかりで、ちっとも感情移入できなかったからだ。

 長野まゆみは、独特の世界観を描く作家さんである。
 しかし、その世界にあるのは「情景」ばかりで、生命の気配がしない。色と匂いはあっても、風は吹かず時は流れない。止まったままの世界だ。

 みずみずしく、水密のような少年少女も、何時かは必ず大人になり、やがて美しく年老いて死んでいくだろう。
 だが、それを否定するのが、作家・長野まゆみの世界である。

 現に私も大人になった。
 ちょうど作品に登場する少年少女たちにも近い年齢の頃に長野まゆみの本にはじめて出会い、本の中の少年少女たちを置き去りに、自分は未来へと歩き出していた。
 その本が本棚の中に眠っていた間に、私の10代の時は、過ぎ去ってしまった。

 本当の幻想世界は決して色あせない。夢は消えることが無い。
 20代に入って再び、本を取り出して開いてみた時…、それは、長野の描き出す世界がまやかしに過ぎず、看板に書かれてしまった絵に過ぎず、薄っぺらな夢だったと知った瞬間だ。

 長野まゆみが描き出す世界は、あまりに不自然に、少年少女たちの”老い”を止めてしまう。
 美しい少年を泥沼に静めたり、病で殺したり、異形のものに変えたり、行方不明にしたりして、強制的に生ある世界と時の流れから排除しようとする。
 枯れぬ花は造花に過ぎず、傷つきもせず虫もつかない花は密閉された空間に咲く温室花に過ぎず、実をつけぬ花は徒花にしかならぬ。つぼみは花になるから美しく、花は枯れるからこそ美しい。

 止められた時の中で永遠の青い春を歌う、長野世界の不自然さに気が付いてしまった私には、もはや、その世界は「支配されすぎた世界」であり、人生のはばたきを拒否した者たちが閉じこもる、うつろな殻のように思えてしまうのである。


 その世界は、板に描かれた絵のようなものである。
 かつて面白いと思ったのもやはり、小説の中の登場人物たちではなく、言葉の描き出す、美しい世界観だった。その世界に少し遊びにいって、また現実に戻ってくる。つまりは、日帰りのテーマパークのようなものだ。遊園地の真ん中にそびえるお城の裏側に、当然あるはずの”現実”に、なんて、子供の時ならいざしらず、大人になれば気が付くだろう。

 物語の登場人物たちは、たとえばテーマパークにいる、ハリボテのマスコット人形だ。それ自体が生きているわけではない。作者の都合のよいように、ただ美しく踊ることしか出来ない。
 幻想の裏には、必ず現実がある。現実が支えなければ、夢は崩れ去ってしまうのだから。
 沼の泥のような現実にどっぷり浸かった人間の目には、長野世界はあまりに狭すぎ、あまりにも薄すぎる、というわけだ。


 小説は、読み手の変化や成長によって世界を変えていくからこそ、いつまでも手元に置く価値がある。
 ルリルリと啼く水連も、水蜜の冷たさも、透けるような白い肌の美少年も、水面に映る月のような幽霊も、「所詮は閉ざされた世界の空想、つまらん」と言い切ってしまう者の前には、意味が無い。生きている者の放つ強烈な生命力の前に、自分が生きているのかどうかも知らない青白く希薄な登場人物たちは、あまりに脆く掻き消される。

 現実の世界には時が流れ、風が吹き、生きている者たちがいる。水蜜の甘い香りさえ、存在感を主張するための道具に過ぎない。
 幽霊のような、自分では何も生み出せず、未来もなく、生きてもいない存在感の薄いものは、この世界には存在できない。生きている者は常に何かを生み出して、未来を持っていて、現実にしがみつく「命」を持っているからだ。死んだ人間なんかより、よっぽど「濃い」からだ。

 だから本当は、幽霊なんか何処にもいない。
 水辺に儚げにゆれる幽霊が見える人は、実は自分自身も半分死にかけているのだ。10代後半の、自分自身の存在にすら確証をもてなかった不安定な時代だったからこそ、私にも、儚げな小説の中の幽霊たちが見えていたのだろう。
 今の私は、小説の中に棲む硝子のような少年たちより、小麦色に焼けた肌で元気に遊びまわる少年たちのほうがいい。

 月夜に出歩く少年は「夢遊病」、美人な兄貴から離れようとしない少年は「ブラコン」、母親と知らずに床を共にした王子様は「言わなかった母親が悪い」と責任を正当に帰属し、変態の貴人に手篭めにされた美少年は、ヤられたらヤリ返すってことで、金でも不動産でも、とりあえず貰えるモンは貰っときなさい。と言ってしまうに違いない。 それが生きるってことの強さというものだと、ザックリ切り捨ててしまう自分が、ここにいる。
 過去の思い出を、所詮は夢の世界と、隔離してしまえる…
 それは”夢を失った”ことに、なるのだろうか?
 そうじゃない、と私は思う。今度は夢の世界に遊びに行くのではなく、私自身が、次の誰かのために同じような夢の城を築く番なのだと思う。

 大抵のイキモノは、強く、たくましく生きている。そして自分も、泥臭く生きている。
 どこにも、物語の中の”彼ら”は、いない――ここは、幽霊から、ほど遠い場所なのである。
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