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―古代人の死体 |
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古代人の死体が発掘され、その死体が解剖され、すりつぶされていると知ると、大抵の人が眉をしかめる。古代人の死体とはいえ人の死体ではないか、人として扱うべきではないか、という意見も聞く。 だが、古代人… もはや記憶としては伝説と呼ぶしかない時代の人々の死体には、現代人の死体と同じように扱うことが、求められるべきなのだろうか? 死んで直ぐの死体を捨てたら「死体遺棄」だし、死体を損傷すると「死体損壊」の罪に問われるが、古代人の死体を捨てたり壊したりしても、罪に問われるということはない。 そう考えた時、人権には、有効期間がある。 原型を留めていなければ、近年の死体でも人間として考えることは難しいかもしれない。 カンペキに形を残していても、さすがに千五百年以上経っていると、いかに永遠の命を望んだとしても、もういいでしょう?と、思ってしまう。 それは、心霊スポットが心霊スポットであり続けるための有効期限に等しく、死者が個人の名前を失うまでの時間であり、人が恐怖の噂を完全に忘れるまでの時間でもある。 たとえば奈良に、蘇我入鹿の首塚がある。 死んだ当時は恨みつらみもあったろうと思うんですがね。今はその塚、素敵なチューリップ畑の中にあって、ものすごく牧歌的なんスよ。自転車でちゃりちゃり〜っと前を通りかかったときに「あぁ、人間、いくら怨念持って死んでも、こんだけ昔になると流石に何もねぇなぁ」と、しみじみと思ったね。人の恨みにも、"有効期限"はあると思われる。 死者の思い出が、いつまでも生き続けることは無い。 「かつて工事で人が死んだトンネル」も、時間がたてば有り触れた伝説の一つになってしまうだろうし、「部屋で首吊りした人がいた」マンションも、時が立てばマンションそのものが無くなってしまう。何十年か前程度ならいざ知らず、千五百年あれば、どんな著名人・有名人の死であっても、無効化されるに十分だと思う。(実際は、もっと短いと思うが。…) そんなわけで、千百年以上も大昔のミイラを破壊したところで死体を損傷した罪に問われることは無いし、ポイ捨てしても死体遺棄の罪には問われない(衛生上よろしくない、ということで別の罪になりそうだが)。 ミイラ保守派が考えているのは、ミイラを人としてどうこう、ということよりは、古代の貴重な遺産を守りたい、といった内容だと思われる。 ミイラを解体してしまうことには抵抗がある。 でも、発見されたミイラすべてを博物館に保存出来ない、というのは実に正しい意見だし、ただ埋め直すだけであれば、その前に解体したって同じではないか、というのも良く分かる。また、バラして、臓器の状態などを調べることによって古代の疫病や遺伝病、寄生虫がいたかどうかなど、現代医学に役立つ知識が得られるという意見も認めたい。 ミイラを何百と解体してきた男・病理学者アート・アウフダーハイドが言うように、オレも肉体には頓着しないし、「死体は壊れた車とかわらない」という意見にある程度、賛同出来る。 まぁ、死んで直ぐの生暖かい死体や、目の前で死んだばかりの死体を見て、壊れた車とはさすがに思わないが…数日経ってしまうと、なんとなく生きた人間の姿とは離れていく。 だが、単なる壊れた車とは違って、人の死体は「語る」のである。 たとえば死因。古代の栄養状態。その人の生きた文化。あるいは疫病の痕跡。時には治療に使った薬さえ分かることがある。 科学的に聞けば科学的に答える。詳細な検査をすれば、より雄弁に語りだす。語られた真実は、時として、現代に生きる人々の思いもよらない、しかも望みもしなかった内容である。(たとえば、六千年前の中国に生きていたと思われる人間のミイラが、ヨーロッパ系人種のDNAを持っていたように) ミイラを破壊することに抵抗があっても、ミイラとなった死者が語ろうとするのを阻害するのは、おそらく間違った保守論だと思う。 古代人の死体には、より多くのことを語ってもらいたい。それは自分の好奇心を満たすためであると同時に、現代に生きる人のためでもあり、解体されてゆくミイラのためでもある。沈黙したまま、朽ち果てるまでの長い年月を過ごすよりも、雄弁に語って人々の記憶に残りたい、と、死者も望むのではないかと思う。 そのためには、ミイラを「解体」することも、仕方が無いのかもしれない。 "人は何のために生きるのですか"とは、語りつくされた永遠のテーマだが、"人の死体は何のためにあるのですか"というテーマは、まだ、あまり語られていない。 "死んだあと、自らの死体を残し続けることに意味があるのか。" 解剖されるためにある、とは言えないかもしれないが、少なくとも、何かのメッセージを、はるか未来に伝えることは出来るのだ。…我々が、受け取ろうとしさえすれば。 |
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