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―原作vsジブリ映画 −"ハウルの動く城" |
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「ハウルの動く城」がジブリ映画として公開されてから、はや幾年。私は原作から読んで入った人である。 当時、原作ファンの間からは原作との違いを指摘する声がやや非難気味に上がり、原作を知らない人からもストーリの破綻を指摘する声が上がって、既に様々議論は交わされ尽くした後のように思える。 それを何でまた今になって…と思われるかもしれないが、残念ながら、ここはアクセス数狙いの広告収入サイトでも、トラックバックをたくさん欲しいがために時事ネタしか扱わないウケ狙いのBlogでもない。 中の人が、書きたいときに書く。ブームが過ぎ去って久しくなってから、場合によっては何百年も前に終わってしまったような話を蒸し返すこともある。ご了承いただきたい。 なお、断っておけば、私は熱心なジブリファンではない。 ナウシカ、ラピュタ、トトロあたりを見て「面白いなあ」と思いはしたが、面白いものを面白いと感じただけであって、その映画を作った会社や監督の名前など意識するようになったのはごく最近のことである。 ** 「原作と映画で、どこがどう違うのか?」―― 細かい相違をいちいちあげつらうつもりはない。そもそも、ほとんど別物と言っていいものを比較しても、違う点ばかりで全部書くのが大変だ。 だから大雑把に、一番違っている点について書きたい。何と言っても違っているのは「テーマ」だ。 アニメ版「ハウルの動く城」のキャッチコピーは、「ふたりが暮らした」であり、「戦火の恋」である。 監督は、「ふたりが暮らす」ことにどんな意味を込めたかったのであろうか。あの巨大な「動く城」には、恋人たちがいて、子供(マルクル)がいて、老人(荒地の魔女)がいる。してみると恋人たちの、というよりは家族の城、すなわち戦争から大切な人々、家族を守る、というテーマにしたかったのかもしれない。 ただしこれは、原作のテーマとは異なる。 原作は、若者たちが、自分を肯定することを知り、自分の生き方を見つけていく物語である。原作と映画が違うのは当然のことで、メインテーマが異なれば描かれ方も変わるし、ストーリーの重点や、エンディングも違ってしかるべきだろう。 原作のソフィーは三人姉妹の長女。自分は妹たちのように美人でもなければ明るくもない、と思い込み、しがない帽子屋を継ぐことが宿命だと思い込んでいる。 一方ハウルは本気で恋をすることが出来ず、強がって格好をつけてばかりで自分の弱さを肯定することが出来ない。 二人がはじめて出会った時、ソフィーは一日じゅう工房で帽子を作り続ける生活を自分の運命と諦め、地味な灰色の服を着て、お祭りの人ごみにさえ怯えている。ハウルは女性に目が無く、若い娘の心臓を食らう恐ろしい魔法使い、という「役割」を演じている。二人とも、本来の自分とは裏腹に。その彼らが、演じていた役割から解き放たれていく中で心を通わせはじめるのが物語の主要な流れで、だからこそ原作では、エンディングがハウルとソフィーの恋愛成就なのである。 宮崎駿監督の最大の失敗は、上記のような、青臭い、未熟な、しかし誰しも経験があるようなむず痒い思春期の感情を避けてしまったところにある。ソフィーは何故、自分に自信がないのか? それは彼女が、三人姉妹の長女だからである。美人で快活な二人の妹がいて、自分はとりたてたところのない長女。彼女は原作の序盤で、「どんな物語だって三人兄弟がいたら、成功するのは最後の一人」という、強烈な皮肉を口にしている。(”三匹のこぶた”などの童話を思い出すと、その意味がわかるだろう) 自分が成功することはない、特別な力を持つことも、たとえば御伽噺のように王子様と結婚するなんて、まず無いだろうと、自分で自分の運命を諦めているのである。根拠も無く、努力することもなく。 思うにソフィーは本当は、御伽噺の主人公に憧れて、色んな童話や空想物語を読みふけっていた夢見がちな少女だったのではないだろうか。 だが御伽噺の主人公はみな、美人だったり頭が良かったりするのに、自分にはそんなところがない。 その上、三人姉妹ときたら長女はブスで意地悪で容量が悪い、と、だいたい相場が決まっている。自分が御伽噺の登場人物になるとしたら、かませ犬か悪役にしかなれないんじゃないのか…。そのことに気付いて絶望する。 まぁ誰だって、思春期には、理想と現実のギャップに思い悩むことがあるもんです。 だから原作で度々ソフィーが呟く「私は長女だから…」というセリフは、「長女だから(御伽噺のヒロインにはなれないし、失敗するに決まってる)」という、自分へのアイロニーを含んだ苦悩の言葉なわけである。それが映画では、「私は長女だから(家をつがなくてはならない、したいことをやるわけにはいかない)」という意味になってしまっている。口にする言葉が同じでも、その裏にある理由が違う。ソフィーの憂鬱の理由が違うどころか、そもそも精神構造の異なる別人になってしまっているわけだ。 映画版ではソフィーの憂鬱の理由がよく描けておらず、そのため後半の展開がよく分からないという声が聞かれるのだが、さもありなん。断言してもいい。宮崎駿監督は、ソフィーという少女を理解していない。描けなくて当然だ。 だから映画では、元々のキャラクターからは考えられないような行動が起こる。映画のソフィーは、かなり唐突にハウルに「愛してる」などと言い出すが、原作のソフィーなら、そんなことは絶対言わない。と、いうより、それを素直に言えるのなら、最初からこの物語は始まっていないかもしれない。 映画ではほとんど触れられていなかったが、ハウルは、片っ端から女の子たちに声をかけ、ナンパしながら、本気になったことはない…というキャラクターだ。多数の女の子たちを夢中にさせながら片っ端からふって恨みを買っているため、「若い娘の心臓をとって食ってしまう」とまで言われる。 ソフィーはそんなハウルに心惹かれながら、「いやいや自分はヒロインにはなれないのだ、御伽噺のお姫様じゃない」と思い込んでいるから自分から積極的にいけない。そこへ、荒地の魔女の魔法で老女にされてしまったことで、ある意味、ふっきれる。老人になってしまえば、美人じゃないなんてことは、どうでもいい。トラウマが一気に消えたことで彼女は解放されるのである。 外見が老人になっても、心までは老いていない。心は少女のままであり、少女らしくハウルに心引かれている部分がある。でも本人はそのことを意識していないし、いくら女たらしのハウルだって、老人になんか惚れたりしないと思い込んでいる。ところがどっこい、ハウルは彼女が魔法にかけられているだけで本当は少女だと知っているから、なんとかして元に戻してやろうとしている。思い込みの激しいソフィーは気づかない。(気づいていたら、気まずくなって城での共同生活は送れなかっただろう) そういう奇妙な人間関係が出ているのが、序盤の、ソフィーが城に転がり込んで掃除をする場面や、パンとベーコンの食事を作るところ、カルシファーがイヤイヤながらフライパンの下で料理の手伝いをする辺りだ。ここは、実によく描けている。映画のサブタイである「二人が暮らした」が説得力を持つ。しかし逆に言えば、原作に忠実な場面は、唯一そこだけだ。 そして、ハウル。 映画版のハウルは凛として、自分の意志を持ち、戦争を嫌う立派なキャラクターにされてしまっている。戦争を嫌うだなんて。本当の彼は、ただ「荒地の魔女」と戦うのが怖いだけの臆病者なのに(笑) 王宮までソフィーを助けに行って自分が身代わりになったり、敵国の船を攻撃して落としたり、映画の中のハウルはあまりにアクティヴで勇気がありすぎる。そんなだから、映画の途中で出てくる「実は僕は臆病なんだ」というセリフにも説得力がなく、ただソフィーの気を引きたいがためにしか聞こえない。 あのセリフは原作にもあるが、本当は、最後の最後、荒地の魔女との決戦ののちに口にされるものだ。散々強がり、目の前に迫る避けられない戦いからトコトン逃げ続け、無関心を装っていながら、最後の最後で「実は怖かった」「ソフィーが呪いをかけられているだけで本当は老人ではないことも知っていた」と告白するから意味があるのであり、あっさりバラしてしまっては面白みもなんともない。 もしかすると、女たらしでナンパな男は宮崎駿監督の美学に反するのかもしれないが、こちらは何となく、故意に理解出来なかったフリをしてキャラクターを変えられたような気がしてくる。 ただ、彼は本当にナンパなわけではない。どのように人を愛していいか分からないから、片っ端から声をかけてとりこにし、すぐに捨ててしまうのである。そのくせ心の中では本当に愛せる人を探している。魔女から送りつけられた「誠実な美女など、どこにもいない」という呪いの一文に虚を突かれて真っ青になってしまうくらい。不器用な人なのである。「紅の豚」のポルコ・ロッソにも通じる不器用さだ。 それに比べて映画のほうのハウルは、不器用は不器用でも「処世術がヘタ」。戦争に協力せず、権力に敵対してしまうような真っ正直な人間。ひねくれ度合いが足りないうえ、人物としての深みや、若者らしい性格まで無くしてしまっている。 人物の性格が異なれば、行動の意味も違う。各キャラクターの性格を変えていながら、部分的に同じ行動をとらせ、同じセリフを喋らせているから、映画版のストーリーがしっくりこないのだ。 もちろん、他のキャラクターだって全然性格が違う。 荒地の魔女、マイケル・フィッシャー(映画ではマルクル)、レティー、ファニー。サリマンに至っては性別も年齢も変えられている。サリマンは本来、ハウルと同郷の若い男性魔法使いで、ハウルの師匠の老婦人はペンステモンという魔法使いである。 原作をしっかり読んでいれば理解できるはずの主要キャラの性格、行動の意味、役割、それが何一つ映画には生かされていない。映画は「ストーリーはやや破綻しているが、音楽と映像、イマジネーションは素晴らしい」などという評価を受けていたが、実際のところ、映画に散りばめられた豊かなイマジネーションは原作の継ぎ接ぎである。ソフィーに助けられて追いかけてくるかかし、ドアノブの色によって出口の変わる城、流れ星から姿を変えた火の悪魔、荒野に住む魔女と命無き下僕たち、変身できるマントetc… どれも、監督がオリジナルで考え出したものではない。 結局のところ映画で素晴らしいのは、音楽と、背景などの美術のみ。ストーリーは原作にある良いところ、人間関係の面白さなどを根こそぎ捨て去って別物に作り変えようとして、質の悪いパロディに終っている。 これは、原作で荒地の魔女がしているのと同じことではないか。 サリマンとジャスティンとハウルをとらえ、その体をばらばらにして好きな部分だけ継ぎ合わせて理想の愛人を作ろうとした、荒地の魔女。原作の場面場面をバラバラにして、お気に入りの部分とセリフだけ繋ぎ合わせて自分好みのストーリーに仕立て上げようとしたジブリ映画。原作や、原作ファンへの敬意は、そこに感じられない。理解しようとした痕跡すら認められない。 それがいかに酷い行為かは、魔女が非難されているのと同じ理由から明白だ。 最後に、原作ファンとしてどうしても納得のいかない点を二つほど上げておく。 原作のソフィーは赤毛である。 老人の時はずっと白髪。魔法が解け、元の姿に戻ったとき、ハウルが言う。「あんた、赤毛だったんだね」ソフィーが答える。「違うわ、これはあかがね色よ」…この会話は原作ファンの中で最も愛されているセリフの一つだと思うし、物語の流れを追っていけば、この場面はエンディングには欠かせないと思うはずだ。だが、映画では、こともあろうに、(大した理由もなく)ソフィーの髪の毛を銀髪に変え、このセリフを削ってしまった。なんたること。 その後でハウルが言う「僕たち、末永くしあわせに暮らすべきじゃない?」も、映画には無い。 このセリフは、よくお伽噺の結末にある「そして王子様とお姫様は、末永くお幸せに暮らしました」という一行にかこつけた、お伽噺パロディなのである。ソフィーがお伽噺の三人姉妹の長女は必ず失敗する、とか、お伽噺の主人公のようにはなれない、とか思い込んでいたことに対する反証であり、彼女のトラウマがここで完全に解消されたことを意味している。「だから、自分は絶対ダメだなんて思い込まずに、まずは頑張ってみればいい」という作者からの応援メッセージにも取れる。それが、無い。致命的だ。 こうした大事なメッセージが抜けているのは、とどのつまり、この作品が言いたかったこと、重要なことが、監督に理解されなかったということを意味している。原作者が伝えようとしていることを片っ端から無視してしまうのなら、なぜ、原作つきの映画など作ったのか。全く別物としてイチから作り上げたほうがよくないか? と、首を傾げたくもなる。 もう一度繰り返すが、「ハウルの動く城」には、原作への敬意は感じられない。その上、各キャラクターに対する愛情にも欠けている。ストーリーを作るなら、各キャラクターが自ら発する言葉に耳を傾け、理解しなくてはならないのではないだろうか? 自分の思い通りのセリフを一方的に喋らせてはいけないのではないか。この映画には、そんな気配りが感じられない。たとえ興行成績的に成功していたとしても、美術や音楽が高い評価を受けていたとしても、ストーリーとしては三流だ。 そんなわけで、「ハウルの動く城」に限らず、ジブリが、宮崎駿監督が、他のどんな原作を映画にしたところで全て失敗する。べつに映画好きでもない私が言っても何の権力も無いが、もし次にジブリが原作つき映画を発表することになれば、その時に証明されると思う。 ** このコラムは、「ハウルの動く城」に見る宮崎駿監督の失敗を述べた上で、「ゲド戦記の映画を吾郎氏ではなく父親の駿監督が作っていたならば…」と、いう意見に反論する目的で公開された。 駿監督が作っていたところで、「ゲド戦記」のジブリ映画は失敗していた。そういう確信がある。それが何故なのかを、この「ハウル」の原作と映画の比較を通して、理解していただきたい。私は宮崎駿監督が嫌いなわけではない。ゲドの失敗を見て宮崎吾郎監督だけを責めるつもりはない。シロウトであれプロであれ、物語とキャラクターへの愛情、情熱、そして敬意が足りなければ、誰が作ったって物語は失敗するのだということを強く主張したいだけである。 ただ絵が綺麗なだけの映画に、どんな感動があるというのだろう? |
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