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―300 -スリー・ハンドレッド−に見る、映画倫理について |
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この映画は、「力強い戦闘シーン、肉体美、映像美を楽しむ映画」という売り文句とともに、日本では2007年に公開された。映画に興味がない人にとっては、あまり耳にしたことがないタイトルかもしれない。 さて、このコーナーで取り上げるからには、この映画は「ちょっと語らせろ」的な作品である。 最初に言っておくが、決して好意的な意味ではない。 映画自体に対する感想は、この一言。 "5分で映画館を逃げ出したくなった映画は、久しぶりだ。" 芸術のためにやっていい範囲と、ネタされる相手のことを考えて思いとどまるべき範囲の境界を考えるならば、この映画はやっていい範囲を踏み越えた先にあると思われる。まずマトモな感性の持ち主なら、不快感を覚えそうな内容。陳腐というよりは、悪意を持って故意に曲解させるようなストーリー。そして歴史問題に対する想像力のなさは致命的である。 まずストーリーだが、これについては人物の描写が薄っぺらい、行動の理由が意味不明、ということがある。 自由のために戦う、と、ある登場人物はいう。 しかしスパルタは法と神託とワイロと議会によって縛られた「法治国家」である。その不自由さゆえにレオニダスは国に反逆するのだから、そもそも自由など最初からスパルタには存在しない。 愛や家族のために戦う、と、ある登場人物は言う。 しかしその家族を死に追いやるのも、死を覚悟した戦いに挑むことで苦しめ、さらには罪まで犯させるのも、彼自身である。 仲間に敬意を持て、信頼しろと、と、ある登場人物は言う。 その仲間を信頼していないのは他ならぬ彼自身であり、己の力だけで生き残れるという奢りを持つ者に仲間への信頼や敬意を語る資格などない。 つまりセリフが全てダメなのである。 映像にはこだわったようで、映像美には定評があるが、シナリオは駄作中の駄作。キャラクターは、みな自分のことしか考えず、理由もなく短絡的に動き、ロクな奴がいない。好意的に見られる登場人物がいないのだから、映画が面白くなるはずもない。 肉体美なんぞ、そいつの性格が最悪なら美しいなどと感じるものか。 敵の死体を切り刻み、平気でふんづけるくせに、味方の一般人が殺されると「なんて酷い! 悪魔め!」などというシーンは、失笑ものである。 まあ、そんな映画である。 だが、これだけなら、ただの「絵しか見るところのない物語」「つまらない映画」で終った。 問題は、この映画が、 国際社会の中でやるべきではない愚行をおかしているところである。 順を追って説明しよう。 この映画の舞台、モチーフは、実際に起こった歴史的な出来事であり、登場人物たちは過去に実在した歴史上の人物である。まず、これを心に留めてもらいたい。 「300」は、スパルタのレオニダス王と、アケメセス朝ペルシャのクセルクセス王の史実としての戦いを元ネタにした映画、である。 だがしかし、映画は、「歴史には忠実でない」「歴史公証は行っていない」という言い訳とともに、歴史の世界を、現実に在り得ないファンタジーの世界に変えた。 どんなふうにファンタジー化したのかというと、 戦いに参加した一方(スパルタ)の国と国民を極端に美化し、 もう一方(ペルシャ)を人間ですらない化け物に変えた。 つまり、レオニダスが正義であり、スパルタ人だけが人間であり、敵対側には一切の敬意も理解も示さない。と、いうことだ。(エルサレム陥落を描いた「キングダム・オブ・ヘブン」という映画ですら、敵対側のサラディンに対する敬意を感じられたというのに…。) 日本にとっては、ギリシャもペルシャも遠い。だが、ペルシャ人の末裔は今も生きている。イラン人だ。 イラン人にとって、化け物たちの王と扱われたクセルクセス王は自分たちの偉大なる伝説上の英雄だ。それをケチョンケチョンにパロディにしたらそりゃ気持ちいいはずがない。いくら半分ファンタジーですよと言ったって、流せる問題ではない。歴史を元にした映画なのだから考慮すべき点だろう。 まして、この映画を作ったのはハリウッド(アメリカ)。 イラン・イラク戦争、湾岸戦争、その他にもイスラエルへの介入やタリバン攻撃… 中東に、ありとあらゆる火種を撒き、世界平和のためと口実をつけ、正義を叫びながら一般人を殺した(今も殺し続けている)国だ。 この映画を見たとき、正直私はゾッとした。 他国、他人の文化への思いやり、尊敬、そんなものは全て捨て去り、ただ、面白いから、カッコいいから、――そんな理由で、何の迷いも無く他人をこき下ろした作品が世の中で認められてもいいものか。全てにおいて、相手を侮辱することに特化された映画が、芸術的に作られているなどと評せるものか。 歴史ものとして歴史に忠実でないから反発しているのではない。 人としての最低限の礼儀を欠いているから問題なのだ。 この映画は芸術として許されるものか? 想像してもらいたい。 太平洋戦争で日本の特攻隊をテーマにした映画を、日本人が撮ったとする。 そのとき、「鬼畜米英」役の人が、人間ではなく、腕が機関銃になってたり、3メートルを越す巨人だったりと、本当の「鬼」のように描かれていたら、どうするだろう? 日本人が作った映画だったとしても、日本人は、いい気持ちがしないのではないか。 国内でだって反発が出るだろう。 また逆に、ハリウッドが、キーキー声を上げるばかりで人の言葉も喋れない、黄色い猿の化け物にされた醜い日本人が、美しい肉体を誇る黒船の船員に体当たりして散っていく映画が作ったとしたら、どう思うだろう。(※ハリウッドは過去に「パールハーバー」という、日本人を馬鹿にした悪趣味な映画を作ったことがある。見たことがあるなら、それを思い出して貰いたい) 不愉快に思わないだろうか。反感を抱かないだろうか? 腕がナイフになった巨人、鎖に繋がれた巨大なブ男、突撃することしか出来ないサイ、顔が醜く潰れた真っ黒な兵士たち。(そう! ペルシャ人は黒人ではない。この東の果ての日本人ですら知っているのに、映画の中では全員が黒人だった!) それらを「歴史に忠実ではないから」と言って笑って済ませられるのは、他人を思いやる心がない証拠だろう。 イランは確かに遠い。日本との国交もそれほど盛んではない。真っ先にこの映画に対する非難の声を上げたのが、「ペルシャ」という言葉に親しみを持つ古代文明や古代史に興味を持つ人々だったというのも、日本では仕方が無いことかもしれない。 だが、もしも、もっと近い国だったら? 醜くされたのが自分たちの祖先だったら? 作品をつくる人には、考えてもらいたい。 歴史上に実在した人物の名前、地域名を使用し、かつ歴史上の出来事をネタにした映画である以上、そうしたものを「歴史映画ではないのだから」と、笑って済ませることは難しいのだと。 登場する全てのキャラクターに対する敬意がなければ、よい作品とは呼ばれないのだと。 この映画には、過剰なまでの演出で作られた一枚絵としての美しさ「しか」見るところがない。 見栄えのよい美しさのために史実もストーリーも人間への思いやりもすべて捨てた。見栄えのために、「敵」役であるペルシャ人はことごとく醜悪な化け物に変えられ、小気味のよいチャンバラ劇のためにキャラクターの人間性は否定される。 この映画を「面白い」と評することは、美しければ何でも芸術として許され、厳密な歴史公証でないと言えば、どんな人間、歴史も、侮辱的に使って構わないという意味になる。 なぜ完全なファンタジーものにしなかったのか。 マンガの映画化だそうだが――原作もこんなヒドい内容なのか? そんなマンガをよく売れたものだ。映画化するのは大抵、人気のあるマンガだが、本当にペルシャ人を化け物として描いたマンガだとしたら、そんなものを持て囃すアメリカ人自体に問題があると思う。 映画化するにあたり、誰か助言や忠告はしなかったのか。 なぜ国際的に上映したのか。(いい気分をしない人がいることすら想像できなかった?) 子供のような無邪気さの裏にあるものは、単純で誤った善悪の線引き、敵だから悪い、敵だから何をしてもいい、どんなに悪く描いても(たとえそれがウソでも)構わない。 それは、とても危険な考え方だ。 ゆえに、私は非難する。この映画をただ面白いとだけ思った人、何も知らずに楽しんだ人に警告する。映画を楽しむのは悪いことではない、が、「想像してもらいたい」。自分たちの祖先や、自分たちの国の人間が同じ扱いを受けたら、どんな気持ちがするのか。 その作品を、一体誰が手に取るのか。相手への思いやり、想像力。そうしたものを持たないつくり手は、つくり手としては失格だと思う次第である。 (余談だが、女や身体障害者に対する扱いも相当ひどいものである。女はただ体しか資本のない、男の暴力に屈するしか出来ない生き物、身体障害者は精神まで醜い、というのがこの映画の主張であり、それ以上のものではない。また聖職者は姦淫に耽り、私服を肥やすことにしか興味がない、といった描写も見られる。ここまで登場人物を徹底的にこき下ろす、悪意に満ちた映画にそうそうないだろう。ちなみに美しいと評判の映画も、グロいだけでそう美しいとは…。まあ、ストーリーが醜悪なので一枚絵として美しい場面も気持ちよく見られないのが致命的なのだが。) |
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