サイトTOP別館TOPコンテンツTOP

中王朝時代 第12王朝

センウセレト3世

Senwosret V


在位年代;前1837−1819年
誕生名;センウセレト
即位名;カーラーウラー Kha'kaura (ラーの魂の如く出現する)
マネトー名;セソストリス Sesostris
治世;19年

王朝の首都;イチイタウイ 
埋葬地;ダハシュールのピラミッド 
出身地;イチイタウイ

家族構成;父/センウセレト2世 妻・姉妹/スィトハトホルイウネト、メレトセゲル、クネメトネフェルヘジェト、ネフェルヘヌト など
息子/ アメンエムハト 娘/クネメト、メネト、メレレト、セネトセンベテス、スィトアトホル(?)

●伝説

マネトーによると、2メートルを越える長身で、戦いに優れた王だったという。
農業改革、行政改革に取り組む。再び権力を増してきていた州候を抑えるため、地方の自治を制限する新しい行政制度を確立する。
自身のピラミッドの外周壁に沿って多数の王妃たちのピラミッドを築いたが、それらは地下で繋がっており、集合墓地となっていた。

●政治

息子アメンエムハト3世とは長期間に渡って共同統治をしていたようで、王権の委譲は安定している。

テーベでアメン信仰に関わる大神官団が結成されていたこと、テーベの北に、戦いの神モントゥのための大神殿が建立されたことなどから、首都がイチイタウィに移ってからも、依然として一族の出身地テーベに対し威光を持っていたことが伺える。

●戦争

南方ヌビアへの遠征を行い、部族を鎮圧。アスワンにあった古王国時代の運河を作り直し、新たなルートを切り開く。南の国境はこの王の時代の拡張され、子孫たちも、王の遺言に従って国境をよく守り抜いた。遠征した先のヌビアで神と崇められていたことからして、ヌビアに対しては、それほど手荒い真似はしなかったのかもしれない。ヌビアには、次の王の代に防衛拠点となるセムナのとりでが建造される。
一方で、北方シリアへの遠征は略奪が目的だったようだ。

●ヘリアカル・ライジングについて

古代エジプトの暦は265日で設定されており、閏日がないために毎年すこしずつズレていく仕様となっていた。
しかしズレが一周すると暦と星の出が一致する。この周期を「ソティス周期」という。また、基準となるシリウス(古代エジプト語でセペデト、またはソティス)の星の出と暦が完全に一致することを「ヘリアカル・ライジング(古代エジプト語でペレト・セペデト)」と言った。

エジプトの歴史の中で数少ないヘリアカル・ライジングに関する記述がセンウセルト3世の治世7年(ペレト第4月16日/イルラフーン・パピルス)にあり、その年が紀元前1730年ごろと推定されたことから、この王の即位年が決められている。つまり、前後の王たちの即位年も、センウセルト3世を基準として年代設定されているのだ。

ちなみにシリウスのヘリアカル・ライジングを計算する場合は、365.2422日という太陽年ではなく、365.25085年という恒星年を使用する必要があり、暦が1日ずれるのにかかる時間は4年ではなく3.9864年となる。この周期を用いて計算して出るのが「1871年」。

ただし、ヘリアカル・ライジングは観測地によって10日前後ズレてしまうため、この年代は絶対ではない。補整をかけたものが「1830年」という、このページで採用した年代である。これが現在のところ最も支持されている説の一つであるが、補整のかけ方によって、年代は前1870年代から1830年代まで説はいろいろある。

そもそもの問題として、観測されたのがメンフィスか、テーベか、アスワンかによってもかなり年代が異なってくるため、観測地がわからないことには特定も難しい状態。


前へ     時代の索引へ     次へ