オシァン-Oisein

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オシァン概要


【基本データ】

タイトル:オシァン(フィン王の息子オシァンの歌)

原語:ゲール語(ケルト語の一種)

地域:スコットランド高地(いわゆるハイランド)

発祥:フィン王一族が居たのが3世紀頃とされる。その頃から歌としてゲール語で語り継がれ、数々の迫害とゲール語の追放運動に耐えて今日まで生き残ってきた古歌を編纂し直したものが、現在の「オシァン」とされる。
1760年、スコットランドの真ん中辺りにあるインヴァネスシャ州出身のシェイマス・マクヴーリッヒ(英語名をジェームズ・マクファソン)青年によってゲール語から英語に直され、出版されたことから世に知られるようになった。

オシァン事件:世界中でベストセラーとなったにもかかわらず、出版直後から、「ゲール語の原典は存在しない」「そもそもハイランドに伝承などない」といった批判が流れ、オシァンは偽書であるという論争が起こる。
ケルト文学史上、避けては通れない事件のはずだが、このことに触れるケルト本は非常に少なく、触れても一行程度ということも多い。ある意味、タブー視されているようだ。
ちなみに論争は、「オシァンの原文は存在するが、マクファソンは英訳する際に編纂しなおし、綴りも変えている」と、いうことで一応は決着しているが、今なお調査は不完全としてオシァン偽書説を唱える人は(主にイングランドとアイルランドに)多い。



オシァンを巡る論争:

「オシァン」はヨーロッパの多くの国々で称賛を得たが、英国とアイルランドからは「オシァンは作り物である」という激しい批判が起こり、今なお「オシァンは贋作だ」と信じている人も少なくはない。

しかし結論から言えば、「オシァン」は贋作や、完全な創作とは言い切れない。

オシァンの各エピソードは元々、人々の日常から消えてしまった古いケルトの言葉、「ゲール語」で歌い継がれた歌人たちの物語である。
歌人のものなので基本的には口伝であり、一部は文字として書き記されてはいたが、全てが書き残された唯一の原本があったわけではない。
また、口伝という性質上、地方ごと、家族ごとに断片的に残っていたものの集大成でもあり、「オシァン」の中身すべてが一箇所から採集されたものではない。

このことから、オシァンをゲール語から英語に訳した「訳者」とされるジェイムズ・マクファソンは、実際には、ただの「訳者」ではない。
断片を繋ぎ合わせて一つの物語とした、あるいは意味を解釈しなおし、加筆もした「編纂者」と言える。
「フィンガル」のエピソードには、2つの原典から取られたエピソードを合体させたものであるという。

 <この結論は1765年に発刊された、オシァン作品集の付録で既に発表されており、マクファソンの死後発足したハイランド協会のオシァン真贋調査委員会による報告書(1805)でも裏付けられている―― つまり、議論としては200年以上前に終わっていたはずのものである>


ゲール語の原典が見つからないから創作だ、と批判する人もいるが、それは逆に当たり前である。
実際、「オシァン」にはマクファソンがヘブリディーズ諸島に出かけて筆写したものも含まれている。口伝のものには、そもそも原典が無いのが普通だ。

例えば、フィンランドの叙事詩カレワラはどうであったか。現在ではフィンランド、カレリア、エストニアなど国境が分かれている様々な地域に口伝として伝わっていた物語の断片を、医師リョンロットが「耳で」収集して回り、一つの物語として編纂した”作品”である。単一の原典などは存在しない。そして、編纂者が手を加えて意味を通りやすくした部分も多数ある。オシァンを偽書と言うなら、カレワラもまた偽書と呼ばねばならない。
オシァンにはマクファソンによる加筆があるから価値が無い、と言うのであれば、カレワラのような近代に編纂された全ての伝承を無価値だと斬り捨てることになるが、そうなると今ある神話資料は悉く無価値になってしまう。それは、おかしいだろう。

「オシァン」の本体は、確かに存在した、古来の伝承であると思う。ただしマクファソンが出版したものは、伝わってきたそのままの姿ではなく、むしろ新しい形に生まれ変わらせて歴史の舞台に再登場させたものと考えるべきだ。本当の問題は、「カレワラ」と同じく、編纂者が、どの場所から、どのエピソードを採集したのか、どこの部分を加筆したのか、と、いうことである。


また、オシァンの中に含まれる人物描写の時代がばらばらである、といった批判も、決定的な証拠にはならない。
実際に口伝で語り継がれていたのであれば、その時代ごとにエピソードが追加されたり、描写が変わったりするのは良くある。
それならば、キリスト教的な描写が挿入された「ベーオウルフ」は偽書になるのか、詩のエッダ「巫女の予言」は単なる創作かという話にもなる。

オシァンが実在したのか、フィンガルが生きていたとすれば何時なのか、といった議論も、実際には、あまり意味はない。
伝承の中の人物がすべて、過去に実在した誰かである、というのは、議論が展開された当時ならまだしも、現在では通用しない。
ニーベルンゲン伝説のジークフリートやハーゲン探しがあれほど活発に行われたことも、アーサー王が実在した証拠を今なお血眼になって探し続けている人たちがいることも承知の上で言わせてもらえが、それは結局、「証明しようのないものの証拠を探すこと」なのである。

実在したテオドリク大王と伝説の中のディートリッヒ王の差異や、実在したロラン伯と伝説の中の英雄ロランの違いなど、実在した人物と伝説の中のそれがまったくかけ離れた存在となっている例など幾らでもあるし、実在したかどうかも分からない人物が今や有名な伝説上の存在となっていることなど、アーサー王を挙げるまでもなく数限りない。
フィンガル王は実在しなかった、だからオシァンは偽書だ。と、論じる方には、是非ともそのことを思い出していただきたい。



様々な神話や伝承を見てきた人なら、言いがかりとしか思えないような理由で「偽もの」と一蹴され、価値がないもののように偽られ続けているこの作品だが、幸いにして世界中で忘れ去られてしまうことなく21世紀まで生き延びている。

今なお、オシァンはマクファソンの贋作として批判を続ける人も多いが、批判するならばまず、納得のいく論点を見つけなくてはならないだろう。



「存在して欲しかった」とともに「存在してはならなかった」物語:

オシァンの舞台は3世紀ごろとされるが、マクファソンによって最初に英訳が発表されたのは、1760年のことである。
その2年後の1762年に、「オシァンは偽書だ」とする騒ぎが持ち上がるわけだが、そこには政治的な意図も少なからず絡んでいる。

オシァンは、発表されるや否や国外で大人気を博し、ナポレオンやシェイクスピアまでもが熱狂したことは有名である。
それに対し国内の反応は冷ややかで、オシァンと、その編纂者であるマクファソンを激しく批判したのは、主に、同じ島に住むイングランド人と、同じケルト人とされるアイルランド人だった。

「オシァン」が発行されたまさにその時代は、スコットランド高地(いわゆるハイランド)が独立に失敗し、弾圧政策の下にあった頃だった。いわゆる「ジャコバイトの乱」「グレンコーの虐殺」に続く時代だが、ここでは歴史の話は、はしょる。

簡単に流れを説明しておこう。

  ●スコットランドとイングランドは、元々、別の王を持ち、異なる民族の暮らす国だった

  ●17世紀頃、イングランドはスコットランドを併合するため様々な圧力をかけていた

  ●スコットランドは、イングランドによって1707年に吸収合併され、独自の議会も解散させられる

  ●ゲール語の禁止。また、その他の独自文化も禁止となる

  ●1745-46年、ジャコバイトの乱。しかし失敗し、スコットランド独立の道は絶たれた

独立を目指す「ジャコバイトの乱」には、オシァンの編纂者であるジェイムズ・マクファソンの従兄弟も参加しており、マクファソン自身、元々は反イングランド側の人間である。

ちなみに「スコットランド」といっても、その中実は、イングランドに近く、早くから工業の盛んになった低地地帯「ロウランド」と、土地が貧しく、氏族制が根強く残された「ハイランド」の二つの地域に分かれる。ロウランドはさっさとイングランドに同化し、むしろハイランドを未開な野蛮人の地として蔑視していたことを忘れてはならない。

オシァンの舞台となっているのはハイランド。そしてマクファソンの故郷もハイランドである。

独自のものを禁止され、意に沿わぬ合併を強要された時代背景の中で、ハイランドには「失った民族的なアイデンティティを取り戻したい」という衝動があったはずだ。また、イングランドやロウランド側にも、グレンコーの虐殺事件など、血なまぐさい手段でハイランドの、イングランドとの合併反対派をねじ伏せてきた後ろめたさがあったと思われる。

「オシァン」の発表と人気は、双方にとって衝撃だったようだ。
スコットランドの知識階級、特に、民族的なアイデンティティのよりどころを求める人々にとって「オシァン」は、まさに探し求めていたシンボルであり、是非とも担ぎ上げたいものだった。
しかし、ハイランドは未開の地、野蛮人しかいない、と軽視する人々にとっては、そんな立派な伝統があってもらっては困る。

実際はもっと複雑な意図があったようだがしかし、現在に至るオシァン批判の裏側には、根拠の無い民族差別が発端になっている部分もあることを、考慮すべきだろう。



真偽を巡る論争とマクファソン:

「オシァン」が発見された時代は、ロマン主義の時代。
失われた古き時代に思いを馳せ、消えつつある伝承を残そうとする動きが盛んになる中、偽書も多く作られた時代である。
そんな中で、突然ふって湧いたように見えた「オシァン」が偽書と疑われたのは仕方が無いことだったし、それに対しマクファソンが熱心な反論しなかったことも、今に至るまで残る誤解の原因となっている。

どんな人間でも過ちは犯すものだが、騙された学者も多く、本物を偽物と言ってしまったり、偽者を本物として認めてしまったり、といった事件が幾つも発生している。
当時のオシァン批判の第一人者として有名なサミュエル・ジョンソン博士も、どうやら偽物を本物と鑑定してしまい、煮え湯を飲まされたことで、いくぶん過激になってしまっていたようだ。

しかし残念ながら博士は、第二の失敗を犯しただけだった。
オシァンが実在し、現地民に広く知られた物語であるか否かを確かめるためハイランドに旅立ったはいいが、ゲール語の分からない同行者を連れて行ったのでは意味がない。それで「ハイランド人は無知蒙昧であり、オシァンの原典など無かった」と言われても、信憑性が無い。
これも先に述べた、ハイランドに対する民族差別の故だろうか。

面白いことだが、マクファソン自身は、オシァンが真っ赤な偽物であり、彼の創作に過ぎないといわれたことに対し、ろくな反論もせず、自分はさっさと身を引いている。援護に回ったのは、彼にオシァンを発行させたエディンバラの知識人たちだった。
真贋がどうであれ、物語の美しさと勇壮さが劣るわけではないが、知識人たちの間に贋作という噂が広がっては一般人もそのように思い込んでしまう。そう危惧した人もいた。


だが、マクファソンは学者ではない。大学は出ていたが、民族的なアイデンティティの復興など、崇高な目標は持っていなかったように思う。ハイランドを愛してはいたが、そのために身を賭すことはしなかった。

もし彼が、一生、オシァン論争につきあっていたら?
学者たちに責め立てられ、ありもしない噂やスキャンダルに悩まされる、栄光とは程遠い人生になっていたかもしれない。
だが、マクファソンはオシァン論争からさっさと身を引き、かつての敵対者であったイングランド側に仕官して地位と財産を得た。英雄にはなれなかった男。それよりも、欲望と名誉を満足させることを望んだ、実に世俗的で、ありふれた一生である。
歴史家は評価しないだろうが、人間は誰でもフィンガルのように生きられるわけではない。果敢に死地に挑むフィン王の一族は、とうの昔に死に絶えている。


思うに彼は、ゲール語の原典を忠実に訳す必要があるなど考えてもみなかったのではないだろうか?

それは、このサイトで色々な伝説や古い物語を現代風に書き直すとき、史料に対し忠実であることを気にせず、好みで自由につけたしをしてあるのと同じかもしれない。
”手を加えて面白くなり、多くの人に読んでもらえるなら良いことではないか。偉い学者先生でもあるまいし、堅苦しくなることは無い。”
私ならそう思う。

彼もそのように考えていたとすれば、オシァンの真偽について大した反論をしなかったのも納得のいく話である。原典は確かにある、まったくの創作ではない。しかし、英訳し、一部に手を加えて発表した時点で、それはもう自分の作品に他ならない。
国内はともかく、国外では既に人気を博し、多くの人々を魅了したのだから、今更、偽物だといわれてもどうでもいい。全くの創作ではないが、しかし創作と言われても、むしろ自分の作家としての腕前を褒められているのと同じことだから気にはならないだろう。



さて日本語でオシァンについての資料を探してみたわけだが、これが意外なほどに少ない。
ケルト神話について語られた本で、触れているものは皆無と言っていい。「ダブリンあたりの大学では、オシァンがタブー視されていて、真贋について論ずるどろこか名前を出すことすら禁止なんじゃないの?」と、邪推もしたくなる。

もちろんオシァンの真偽、その中のどの程度がマクファソンによる加筆なのか、については、まだ論争が続いている部分もあるだろうが、私としては、オシァンの全てがマクファソンの創作であるとか、ましてアイルランドの伝承のパクりである、などという意見は誤りであると思っている。

ゲール語が筆写されたことのない言語である、というのは今では完全に偏見に基づく誤解であることが証明されているし、オシァンの原典(筆写されたもの)も証拠として見つかっているため、これら全てを否定して、かつてのサミュエル・ジョンソン博士のような結論に達するのは難しいだろう。

しかしそれよりも、まずは、この物語の美しさを感じ取って欲しい。
それはアイルランドのケルトとは違う、雄雄しくも哀しいスコティッシュ・ケルトの世界なのである。
真に美しい作品を前にしたとき、俗世の学者たちの論争は、いかにも滑稽に思えてくるはずである。


マクファソンも、彼に協力した歌人たちも既にこの世になく、その後18世紀後半における「土地清掃」政策によって、スコットランド高地の伝統の多くが徹底的に破壊された。そのことを思えば、オシァンは最後の瞬間に奇跡的に残された作品とも言える。

今日言う「ケルト的なもの」とは18世紀以降のケルト復興運動で「再発見・再構築」されたものに過ぎない。その中でシンボル化され、祭り上げられたものの一つが、「オシァン」の世界だった。だが、だからといって価値のないものとは思っていない。この物語が、二度と取り戻せない古き時代を留めた記憶の一片であることは忘れないで欲しい。


大まかに、オシァン批判ポイントをまとめ、それに対する反論をつけてみた。


●フィン王は実在したのか?

フィン王は、紀元3世紀ごろに実在したとされる。これについて、5世紀の聖パトリックがフィン王とその一族を批判する記述を残していることから、「それ以前に既に存在した」と位置づけることが出来るが、それ以上の具体的な内容について知ることは難しい。
ちなみに5世紀以前のブリテン島に関する歴史的記述は全く残されていないため、たとえアーサー王であっても、実在したかどうかは証明出来ない。


●物語中の、北欧的な描写は新しすぎるのでは?

物語中には、ロホラン(スカンジナヴィア)からの軍勢の到来、オーディン神についての言及などが見られるが、それが新しすぎるというのである。確かにヴァイキングの到来は、793年リンディスファーン修道院襲撃に始まる。5世紀早いと批判したくなるのも分かる。
しかし、ブリテン島にゲルマン人がやってきたのは、それが最初ではない。4世紀末には北部ブリテン島の部族の対ローマ戦力として雇われており、ローマが撤退した5世紀には、土着のピクト人と戦いを繰り広げる。
彼らアングロ・サクソン人は、ピクト人とは対立したが、ゲール人たちとはそれなりに友好的だったようだ。
従って、北欧的な描写やオーディンへの言及は、ゲルマン人の一派であるアングロ・サクソン人が、早い段階で持ち込んでいたものかもしれない。

また、オシァンの元になった古歌が、歌人たちの記憶によって受け継がれた口伝ものであった以上、時代ごとに言葉や細部が変化していくことは、避けられない。オシァンの中に古い部分と新しい部分が混在する理由は、こうして説明がつけられてしまうため決定的な反論にはなりえない。


●原典はあるのか?

マクファソンが出版したオシァンは、ゲール語の原典から英訳されたものということになっている。その原典とは、たとえば「リスモール司祭の書」など。その他に、マクファソン自身が古伝を集めに旅行して、耳で聞いたものを写し取ってきた部分もあるという。
マクファソンの完全なる創作と考える人々は、「原典など存在しない」と主張する。その中には、「ゲール語を話す人々は文字などかけない、ゲール語が文字として記録されたことはない」という主張もあるが、残念ながらそれは誤りである。ゲール語の筆写が始まったのは、6世紀、聖コロンバの時代だ。(コロンバのあとに聖コロンバヌスという人もいてややこしいが、563年にヘブリディーズ諸島のアイオナ島に移住したコロンバのことだ。彼は、アイオナ島に修道院を建てた。)

しかも、ゲール語は、もともと書き言葉ではない。
アルファベットは英語のために作られた文字であり、その文字を借りて音を写すわけだから、写すさいの約束事が決まっていないうちは、綴りもバラバラだった。

たとえば、日本語をローマ字表記する場合を考えて欲しい。「そら」という言葉を書くなら誰だってsoraと書くだろう。しかしそれは、「そ」をso、「ら」をraと書く、という約束事が出来ているからこそ、だ。決まっていなければ、thora とか、 solla と書くかもしれない。

マクファソンがオシァンを出版したとき、ゲール語のアルファベット表記には、まだ約束事が存在しなかった。よって、写本ごとに綴りはバラバラで、非常に読みにくいものだったと思われる。当然、現代語らしく書き直すことは行われただろうし、場合によっては、難しい言い回しの部分を意訳することも行われただろう。ただそれだけをもって、「この物語は古い形を残していない、だから創作である」とは言えないはずだ。


●オシァンはアイルランド古歌からの盗作?

アイルランドでは、オシァンは「オシーン(アシーン)」、フィンガル王は「フィン」として登場する。
有名なフィアナ騎士団の創設者・フィンこそ、オシァンの父・フィンガルのことだ。しかし、アイルランドに伝わるフィアナ騎士団とオシーンの物語は、スコットランドの「オシァン」とは、ストーリーが随分違う。また登場する人物も、フィアナ騎士団の物語とは異なる。名前以外にほとんど共通点の無い作品を、盗作とは呼べないだろう。

読んでみると分かるが、フィンとその妻サヴァの物語などは、アイルランドの妖精物語的な特徴を持っており、決してスコットランドの真似事ではない。逆に、あまりにも雰囲気や、根底にあるものの考え方が違うために、アイルランドの物語を真似てオシァンが作られたというのも考えにくい。
要するに、片方がもう片方を真似したのではなく、フィン王とその息子の物語は、スコットランドとアイルランド双方で別々に伝えられていった、とするのが妥当だと思う。

(余談だが、スコットランドのオシァンに対するアイルランド側の反応は、いささかヒステリックに感じる。
海を挟んであれだけ近いのだから、むしろ似た伝承があって当然なのではないだろうか?)


以上…
オシァン論争についての新しい資料が手に入らなかったので、古い論争の内容から。

オシァンを贋作とする意見は、既に論破された点をまだ繰り返している場合もあるので、現在の論争がどのへんをポイントにしているのかが分からない。実は同じ論争をループしているのかも…?





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