物語の元ネタとなった出来事を年表にしています。本によって年代のブレがある出来事も。
黄色は直接の元ネタになっている(と思われる)人物・出来事、ピンク色は関連書物の書かれた時代。
ポイントですが、「西ゴート」「東ゴート」は同じゴート族といいつつ、ほとんど接触がありません。正確には居住地は「西」と「東」ではなく、ドニエプル川近辺とドン川近辺の南ロシア。どっちかっつーと 北と南じゃねぇか …というところ。当時は「ウィシ(テルウィンギ・ウィシゴティ=森に住む者)」、「アウストロ(グルツンギ・アウストロゴロティ=砂がちの平野に住む者)」と呼ばれていたらしい。だがまあ昔からの慣例として「西」「東」と呼ばれて来たので、分かりやすければよし。
対して「西ローマ」と「東ローマ」は文字どおり、同じローマ帝国が分裂した「西」と「東」。連絡も密に取り合っていてローマ人はローマ人のアイデンティティを持っています。ローマのあるイタリアを含む「西ローマ」に対して、のちにビザンツ帝国と呼ばれ、アラブ人にルーム(ローマの訛ったもの)と呼ばれる「東ローマ」のほうが繁栄しています。西ローマがお荷物になっていたので、皇帝の代わりに「お前が統治していいよ」と言われ預けられたのが東ゴート族の王、テオドリク。(ディートリッヒの元ネタになった人)
70年 | ローマ軍がゲルマン族の軍に敗退。 |
98年 | ローマの歴史家タキトゥスによる最古のゲルマン誌「ゲルマーニア」が登場。 |
372年 | フン族の王パラミルが進攻を開始。 |
375年 | 東ゴートの老王エルマナリクが、フン族の急襲を受け死亡(自殺)。ただし原因は内輪もめによる暗殺とも、自らを神にイケニエに捧げたものとも言われている。 この敗北後、東ゴートはフン族の下につくことになる。 |
376年 | 東ゴートを落とした勢いのまま、フン族の軍が西ゴートに侵入。キリスト教を拒んでいたはずのアタナリク王がローマに亡命する。 |
. | 西ゴート族の移住にともない、ゲルマン民族の大移動が開始される。 |
378年 | 西ゴート族とローマがハドリアノポリスで戦い、ローマのウァレンス帝が敗北。 |
379年 | ローマにテオドシウス帝が即位。 |
391年 | 皇帝テオドシウスにより、キリスト教以外の宗教が禁止される。 |
395年 | テオドシウス帝の死去で、ローマが東西に分裂。 |
406年 | ブルグント族の王グンダハリが武力でライン河流域を制圧。 |
410年 | 西ゴートの王アラリックがローマを占拠。 |
416年 | ブルグント族の王グンダハリが、条約を結び正式に首都ヴォルムスを中心とした国を建国。ローマ的文化とケルト的文化を融合させた都市が誕生する。 |
432年 | フン族の王ルグラスがローマに進攻。東ローマ皇帝テオドシウス2世は、金を払って懐柔策を取る。 |
. | 西ローマでは、アエティウスとボニファウスが主導権を巡り対立していた。そのため、ヴァンダル人の侵入を防ぐことがてきず、カルタゴ(アフリカ北部)がヴァンダル人の手に落ちる。ボニファウスは勝利したが傷がもとで落命、フン族のもとに亡命していたアエティウスは、のちに帰国し、ヴァンダル人と同盟する。 |
. | ルグラス王死去。ルグラスの兄の子、アッティラとブレダの兄弟が王となる。 |
436年 | フン族の王アッティラに攻められ、ブルグント族敗退。 |
436年 | 再びフン族の王アッティラによる襲撃。ブルグント族は大敗し2万人が戦死。グンナル王が戦死。生き残った者は大半が亡命。 |
443年 | ブルグントの遺民が、西ローマの最高官アエティウスによりスパウディア(現在のフランス)へ移住させられ、ブルグント王国を建国する。 |
445年 | フン族の王アッティラは、共同統治の坐にあった自分の兄弟ブレダを殺害。単独の王となる。 |
447年 | アッティラ、東ローマに侵入。皇帝テオドシウス2世は、前回よりさらに多くの金を払うことを約束し、戦いを回避。 |
452年 | フン族の北イタリア侵入。(この事件が水の都ヴェネツイアを生んだと言われる。)祖国の滅亡を目前にしたアエティウスは、巨額の賠償金を支払い、なんとか国の命を繋ぐ。 |
453年 | アッティラ、新妻ヒルディコとの初夜の床で死亡。卒中に襲われた、とも、ヒルディコに刺された、とも言われる。 |
★このあたりでディートリッヒ・フォン・ベルンの原型となるテオドリクが誕生。 453年説、455年説がある。父はテウディメル、母はエウリエヴァ。 |
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455年 | ヴァンダル族がローマを占領。 |
476年 | ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが幼帝ロムルスを廃し、西ローマ滅亡。しかし、トップがいなくなったからといって、人々の生活が激的に変わったわけではないようだ。 |
497年 | テオドリク、東ローマ皇帝よりイタリア王と認められる。 |
526年 | テオドリク没。男子の跡取りがなく、娘が東ローマを相続するものちに暗殺される。 |
534年 | 新生ブルグント王国、メロヴィング王朝に併合される。 |
535年 | 東ゴートvs東ローマ開戦 |
536年ごろ | 東ゴートとフランク同盟 |
550年ごろ | イタリアの歴史家、ヨルダネスにより、ゴートの王エルマナリクの死に関する考察とフン族についての伝承が書かれる。ここでは、エルマナリクの死はスニルダという姫君の処刑にあったことになっている。 |
555年 | 東ゴート族の降伏。以後はローマの地にばらけて住む。(11世紀ごろまでは独自の法律を持つなどしていたらしいが、その後どうなったのかは不明。) |
575年 | フランク王国で内乱が勃発、長男ジゲベルトが弟ヒルベリクを倒し、分割されていた領土を併合。 |
613年 | 王妃ブリュンヒルトの戦死によって、フランク王国の内乱がようやく終結。 |
9世紀ごろ | イギリスで「ベーオウルフ」が書かれる。 |
. | 「ヒルデブラント・サガ」が書かれる。 |
1095年 | クレルモン会議において、ウルバノ2世の扇動が民衆の間に神秘的な興奮を呼び覚まし、十字軍の遠征が始まる。この遠征で、ヨーロッパ人たちはアジアの伝統ある文化に触れ、多くを取り入れる。 |
13世紀ごろ | 「ヴォルスンガ・サガ」が語りなおし(リトールド)で書かれる。 |
1203年ごろ | ドイツで「ニーベルンゲンの歌」が書かれる。 |
1250年ごろ | 古代北欧語による「シドレクス・サガ」が書かれる。 |
16世紀 | 印刷という新しい技術によって、「ニーベルンゲンの歌」のその後の姿であるジークフリート伝説が広く知られるようになる。 |
1618年 | 30年戦争勃発。この戦争は、ドイツ文化に大きな打撃を与え、文学などを衰退させた。 |
17世紀半ば | 「エッダ」が発見される。「ファブニルの歌」「レギンの歌」などが収められており、中身は8〜13世紀の成立と考えられている。 |
18世紀 | ヘルダーの活動から、ドイツ・ロマン主義が発生。忘れ去られていた過去の物語の発掘が盛んになり、「ニーベルンゲンの歌」の翻訳・翻訳が始まる。 |
19世紀 | ワーグナーの歌劇「ニーベルングの指輪」でニーベルンゲンの名が世界中に知られるようになる。 |