■ニーベルンゲンの歌-Das Nibelungenlied |
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ブルグント族は、もともとバルト海に近いヨーロッパの北のほう、エルベ川とオーデル川の間あたりに住んでいたらしい。5世紀初頭、まだ民族大移動が開始される前の話である。
ゲルマン系の諸民族は、気候の悪化により故郷で食えなくなって南へと移住してきていた。ローマの勢力圏より北のほうはゲルマン系の様々な民族が隣り合わせに暮らしていた状態である。
そこへ東からフン族が嵐の如く現れて、手始めに東ゴートを急襲。以後、フン族が勢力を伸ばすに従い、玉突きのように各民族が散らばっていく。ヴァンダルなど、ヨーロッパを端まで行ってジブラルタル海峡を渡り、アフリカまで遠征して国を作っている。まさに「激動の時代」だ。
その激動の時代の中、国や都市がひとつふたつ滅びるのは、大したことではない。滅びて消えていった少数部族もあったことだろう。だが、ライン川のほとりに移住したブルグント族の大敗、その都ヴォルムスの陥落は「特別」だった。詩人たちの題材となり、のちの世まで語り継がれてゆくことになるのだから。
ヴォルムス陥落は436年頃だったとされる。アッティラが登場して間もない頃で、まだアッティラはフンの唯一の王ではなく、この攻撃はフン族単体で行われたものではない。ローマとの同盟を破り反旗を翻したブルグント族を鎮圧すべく、東ローマの将軍アエティウスがフン族をけしかけたものだった。
この頃、ブルグント族は既にキリスト教に改宗していたという。フン族との戦いは436年が初めてではなく、それ以前にフンの王ウプタールに攻め込まれ敗北していたが、そのウプタールが勝利の直後に死んでいる。この時、フンの兵1万、ブルグントは3000。これだけの差がありながら、王の急死にうろたえるフン族は蹴散らされ、ブルグントは独立を守ることが出来たという。
こんな話がなぜ残っているのかというと「改宗したからだ、神のお助けだ」と、教会の宣伝に使われたからだ。ブルグント族とフン族は、因縁のある関係だったと言えよう。
さて436年。ブルグント側の王はグンテル王のモデルとなったグンダハリ。アエティウスにけしかけられた以上に、フン族にとっては前回惨敗を喫した相手である。戦いの果てに、グンダハリは二万の兵とともに殺され、ギヒフンゲン王朝は滅びる。ブルグントは陥落し、生き残った人々は移住先で新たな国を作るが、もはやローマに反抗するだけの力を持つことはない。ブルグントの都は、以降、アウストラシアの女王ブリュンヒルトが再建するまで荒れ野だったという。
この物語が、ニーベルンゲン伝説の中核を成す「ブルグントの王家の滅亡」の元ネタとなっている。ギヒフンゲン王朝という名前は、北欧の伝説では「ギーヒヒ王の家系」とか「ギューキ王の息子グンテル」といった形で残されている。この物語がその後長らく残ってきたからには、何か人々の心を掴む内容があったのだろう。グンテル王が特別愛された存在だったとはあまり思えないのだが、二万人の死亡は、当時にしては大きな数字だったのかもしれない。
ただし、出来事はあくまで元ネタである。北欧の伝説は舞台を北欧に移しているため都の名前はブルグントではなくなっているし、ブルグント族が皆殺しに会う場所は首都ヴォルムスではなく、宴に招待されて出向いた先の、フン族の城になっている。
また、グンダハリが死んだ時のフン族側の王は、伝説ではアッティラだったことになっているが、実際にアッティラが戦場に来たのかどうかの資料が見つからなかった。(アッティラは既にフン族の王にはなっているが、まだ兄弟のブレダと共同統治の時代だし、フン族の全権を握っているわけではない) グンダハリの家族や、後継者の前は残っていないので判らない。弟ゲールノートやギーゼルヘル、廷臣ハゲネの元ネタはそこには見当たらない。
物語へと変化する特別な記憶。それはフン族の猛攻によって大きな勢力を誇った一族があっさり滅ぼされたという、悲劇的かつ衝撃的な一つの出来事を始まりとした。
やがて物語は別の物語と繋がって、「復讐する姫君」ヒルディコ、「争う王妃」ブリュンヒルト、そして大王テオドリクといった同時代の人々を登場人物として取り込みつつ、壮大な物語の原型を成していくのである。
2009/06/12 new.