ニーベルンゲンの歌-Das Nibelungenlied

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(2)東ゴート族の栄光 ―ディートリッヒの原型、テオドリク




■ 扱いはいつも「悪い王様」、エルマナリク王の物語

エルムリッヒ、エルマナリク、といった名前はシドレクス・サガ他、古くはエッダにも見られるが、史実としてのエルマナリク王は、黒海の沿岸に栄えた、東ゴートの国の老王だった。

ゴート族の自称した部族名「ゴート」はガウト、つまりオーディンの古名から来ているというが、結論から言えばゲルマン民族の一派である。気候の悪化により、故郷スカンジナヴィア半島を旅立って、バルト海沿岸からはるばる南下してきた。最初に接触したのは東ローマだったが、その時の居住地は「西」と「東」ではなく、ドニエプル川近辺とドン川近辺の南ロシアで、当時は「ウィシ(テルウィンギ・ウィシゴティ=森に住む者)」、「アウストロ(グルツンギ・アウストロゴロティ=砂がちの平野に住む者)」と呼ばれていたらしい。のちに西ゴートはスペイン、東ゴートはイタリアのあたりに居を構えるので、その時はじめて「西」ゴート、「東」ゴートになるわけだ。


さて東ゴート。ディートリッヒの原型、テオドリクス(カタカナでは、テオドリク、テオドリックとも表記される)の祖先のお話だ。
たまたまフン族の進軍する場所にいたために、最初にフン族の急襲を食らってフルボッコにされたのが彼らである。ローマにとっては「アイツらどうやって懐柔しようかな… 攻めてこられるとイヤだなあ」と思っていた矢先、いきなりその強敵が何処からともなくやってきた新参者に敗北したのだからビックリだ。

375年、東ゴートの国はフン族の急襲によって陥落。
しかし、この事件は特別な意味を持って詩人たちに迎えられた。勇ましきゴートの王エルマナリクは、戦いによって命を落としたのではなかったからである。

エルマナリクは、伝説によれば110歳。フン族の押し寄せる中、彼は、城の中で血まみれになって息絶えていた、という。自殺とも、暗殺とも言われる。その真偽を確かめることは今や不可能だ。
だが物語は、朽ちた羊皮紙の間から鮮やかに語り続ける。猛き王の命を奪った争いには、美しき姫君スニルダの処刑と、その兄弟たちによる報復があったのだ、と―――。

当時、ローマにとって蛮族であり、手におえない存在であったゴート族の国の、あまりにあっけない滅亡。この出来事は、その後の百年も衝撃的な出来事として語り継がれ、それを成し遂げたフン族とは、文明国にとって、もはや悪魔以外の何者でもないと思われた。
 『文明とは、略奪すべきもので決して身を浸すものではない』。
司馬遼太郎氏の著書からこの言葉を借りるならば、フン族の戦士らはヴァンダル人以上に破壊と強奪を欲していたのだろう。

悪魔の来襲、王の死。そして、その死の影にまとわりつく、ひとりの美女の惨殺。物語性は十分であった。
この出来事を元に、詩人たちが新たな物語をつむぎ出したことは、至極当然のことと言えるかもしれない。


エルマナリク王は、その後「エッダ」の中で、ゴート王エルムンレク(イェルムンレク)として登場する。
「エッダ」に歌われる叙事詩のひとつ、「ハムディルの歌」によれば、彼は、グードルーンとシグルドの間に出来た娘・スニルダを惨殺したため、グードルーンの息子たちによって復讐を受けるたことによっている。このグードルーンとは、ドイツ風に言うとクリエムヒルト。シグルドはもちろんジーフリトのことである。シドレクス・サガでもディートリッヒに殺される悪い叔父の役目になっているが、エルマナリクはディートリッヒの元になったテオドリクの先祖なのだから、時代もおかしければ扱いもおかしい(笑)

エルムンレクはアッティラに比べ、描かれ方がいつも悪役である。
もともと、民衆にあまり人気のない王様だったのかもしれない。

エルムンレクは、子孫が主人公の「シドレクス・サガ」ですらロクな役はもらえない。シドレク(ディートリッヒ)の伯父として登場、廷臣シフカに唆されて甥と戦い死亡。シフカは、ラヴェンナの町(テオドリク大王が実際に住んだ町)で皇帝の甥と戦ったのち敗走、ついにはフン族の王アッティラ(エッツェル王のモデル)のもとへ身を寄せて生き延びることになる。そして、アッティラもとで、呪われたニーベルンゲン一族の最期を見届けることになるのだが、そこには、もう、かつての実在した人々の影は無い。

こうして、エルマナリク王の死という出来事が歴史の中に投じた小石の波紋は史実を離れ、ここから先、際限なく多くの物語を生み出しつづけることになる。


■ ディートリッヒの原型― テオドリクの誕生

さて、時は流れ453年ごろ。アッティラの死の直後、東ゴートの王家にテオドリクが誕生する。ドイツで大人気の英雄といえばこの人、ディートリッヒである。
フン族に敗北し、以後フン族の下で軍事活動に参加していた東ゴート族だったが、アッティラの死後、フン族の帝国崩壊とともにローマに鞍替えしている。その頃、東ゴート俗には三人の王がいた。長兄ワラメル、次兄ウィディメル、末弟ティウディメル。末弟ティウディメルの息子に生まれたテオドリクは、ローマへの恭順のしるしに人質として幼い頃ローマに送られ、そこで10代後半まで過ごす。テオドリクが王になるに当たって必要とされた知識や外交感覚、ローマびいきなどは、この時代に培われたのだろう。

同じ時代にテオドリクという名前が複数いてめんどくさいが、ここで話題になっているのはのちに「大王」と呼ばれるほうのテオドリクである。テオドリク・ストラボとは別人だ。(後世に混同されて、ディートリッヒの原型にはストラボのほうも入っている、という説もある)

細かい話は端折るとして、テオドリクは28歳でローマ執政官となる。しかしそこには政敵がいた。オドアケルという人物である。
その頃、東西に分かれたローマのうち、東ローマ(ビザンツ)は大いに栄えていたが、ローマの町を擁する西ローマのほうは、イマイチふるわなかった。オドアケルは西ローマを牛耳り、最後の皇帝ロムルスを退位させる。東ローマの皇帝は、西ローマにまで手を伸ばしている余裕がない。はっきり言えば「お荷物」だったのだ。
それをいいことに西ローマを手にしようとしたオドアケル、しかしテオドリクも、かねてより懇意にしていた(と言っても何度も裏切ったり裏切られたりの関係ではあるが)東ローマ皇帝ゼノンとの約束によって、「オドアケルを倒せば、皇帝自らが西ローマを統治する余裕が出来るまで代理の王になっていい」という約束を得てオドアケルに迫る。お荷物を押し付けるなら、何かあったときに裏切りにくい、それなりに統治能力があって戦もできる親ローマな人物のほうがいい、というわけだ。その点、人質時代をローマで過ごし、心の底にローマへの憧れのあるテオドリクは適材だったのだろう。

ラヴェンナの町の司教の仲介でオドアケルとテオドリクは泥沼の抗争に陥る前に協定を受け入れ、二人でイタリアを共同統治することになる。だが、協定の結ばれた直後、テオドリクは宴の席でオドアケルを自ら殺害。一族郎党も皆殺しにし、禍根を絶つ。こうして彼は、イタリアの単独統治王となり、西ローマの実質の支配者となった。


後世の歴史家たちにとって、「大王」と呼ばれるほどの人気を博すテオドリクが、ライバルをだまし討ちにしたというのは一つの汚点になっている。しかし概ね好意的に評価されているようだ。
オドアケルにとって最後の砦であるラヴェンナ攻防戦において、状況はテオドリク優位だった。ラヴェンナは難攻不落の要塞だったため、普通に城攻めすればあと何年もかかる予定だった… というだけのことだ。仲介を申し入れたのは、いたずらに被害を出したくなかった中立のラヴェンナの司教であって、どちらがわの陣営でもない。オドアケルがこの協定を受け入れたからには、オドアケルのほうもテオドリク暗殺を計画していた可能性がある。どちらの行動が早かったか、だ。オドアケルの家族を残せば、いずれ反乱が起き、国は再び荒れただろう。
バカ正直に正々堂々と戦うのが正しいとは限らない――戦国の世の常である。


■ イタリアの栄光 東ゴート王国の崩壊

西ローマの実質の支配者となったテオドリクは、ローマ人とゴート人との融和に苦心した。自身、ローマで幼少期を過ごし、心はローマなところのあるゴート人である。
彼の善政はローマ人にもゴート人にも満足されていたらしいことが、テオドリクの生きていた時代の記録や彫像などの遺物から分かっている。
しかし偉大な王の晩年には良くあることだが、平和な時代はやがて乱れる。キリスト教に改宗はしていたものの、ゴート族は異端視されるアリウス派で、カトリックではなかったのである。乱世では問題にされなかったような、細かい教義の違いが攻撃の対象となった。テオドリク自身、アリウス派で、特に熱心に信仰していたわけではないかもしれないが、死ぬまで改宗はしていない。
また、跡継ぎの問題もあった。テオドリクには娘はいたが、息子がいなかったのである。政敵たちはテオドリク亡き後のイタリアを狙って暗躍しはじめる。平和な時代は脆くも終わりを告げようとしていた。王国は娘アマラスウィンタが継いだが、東ローマの王妃に暗殺され、再び戦乱の世へ。

こうしてテオドリクの、東ゴート族によるイタリア治世は幕を閉じる。偉大な王を失った東ゴート族は、やがてちりぢりになってしまう。

ローマ人にとって、テオドリクは外来の王、異民族にしては良くやったが所詮は一代限り… に、過ぎなかったのだろう。イタリアでは彼の伝説は育たなかった。
だがゴート人の故郷では違っていた。”かつて、気候の悪化と人口増大によって食べられなくなり、新天地を求めて起死回生の旅に出た人々が、遠い異国の地で成功し、あのローマの王となったのだ。”―― その伝説はテオドリクを主人公とした英雄物語となり、北欧や、バルト海に面した低地ドイツで語られ続けた。そして時を経て、彼の一生を描いたシドレクス・サガが出来たり、「ニーベルンゲンの歌」や「エッダ」のエピソードにも顔を出すほどの人気と知名度を持つようになるのである。


2009/06/11 re.

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