ディートリッヒ伝説-DIETRICH SAGA

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ディートリッヒ伝説のはじまりと変化



  「ディートリッヒ・フォン・ベルン」に関する物語が最初に書かれたのがいつだったのかは、はっきりしていない。
 ディートリッヒの実在モデルとされるのは、東ゴート族の王、テオドリクとされる。テオドリクが生きたのは5世紀のことだが、一般には、テオドリクの死後すぐに最初の伝説がつくられはじめ、各地で独自に発展していったものと考えている。
 (このあたりに関する関するコラムは、別項にて⇒こちら

 テオドリクは、フン族との戦いに敗れ、新天地を目指したゴート族だった。
 ゴート族とは、多くの民族からなるゲルマン人の集団の一つで、最も早い時期にスカンディナヴィア半島から南下をはじめた一族であり、ローマ文化に触れ、文字というものの存在を知ってルーン文字を発明したのも、彼らだっただろうと言われている。(オーディンの別名に「ガウト」があるのは、ゴート族の神だったからではないか、という説もある。(ルーン文字についてのコーナーは⇒こちら

 のちの時代では騎士物語として扱われているディートリッヒ伝説だが、実在したゲルマン民族の英雄から発生し、語り継がれたということを考えれば、もともとは、北欧神話と同じくゲルマン民族の伝説だった、と、いえるだろう。そして実際、彼の物語には、騎士物語に特有のモチーフ、恋愛や宮廷に関するところが少ない。ひたすら戦い、武勇を求めるゲルマン的な精神に貫かれている。

 さて、ディートリッヒの伝説と同じ、ゲルマン民族大移動時代を材料にした「英雄歌」 (heldenlied[独], heroic lay[英])で残されている最も古いものの一つが、古ドイツ語の時代(8世紀半〜11世紀半) の、『ヒルデブラントの歌』 " Hildebrandslied ''である。

 エッダ詩にある古アイスランド語の「ヒルデブラントの挽歌」は、断片のため詳細が分からないが、中高地ドイツ語のものでは、ディートリヒ の剣術指南役ヒルデブラントと、ヒルデブラントを父と知らない息子のハドゥブラント Hadubrand が戦場で敵軍同士として鉢合わせになるという悲劇的エピソードのストーリーが分るようになっている。
 息子が父の顔を判別できなかったのは、ヒルデブラントが、あまりにも長いこと国を空けていたのが原因、とされていることからして、エピソードの挿入箇所は、ディートリッヒがフン族の国から戻ってきた直後、ということになるだろうか。

※「ヒルデブラントの挽歌」と、「ヒルデブラントの歌」(2種類)は、別物なので注意!

 「ヒルデブラントの挽歌」には息子の名前は出てこず(息子が倒されたあとから話が始まる)、異父兄が登場している。書かれた言語は、古アイスランド語である。エッダ詩に分類される。

 中期高地ドイツ語で書かれた「ヒルデブラントの歌」は、同じタイトルで新旧の二種類が存在する。
 両者のオンラインテキストは、ココ。↓ 
  http://homepages.uni-tuebingen.de/henrike.laehnemann/hildebrandslieder.htm
 正確なものかどうかの確認はとれていないので、ある程度の内容が分る…くらいの資料として使うほうが安全だと思う。


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 「エッダ」に書かれた物語は、中世(特に12-13世紀あたり)のころ、口承文学として伝わっていた「英雄歌」を、吟遊詩人(Minnesinger=ミンネジンガー)たちがつむいで、英雄叙事詩(Helden Epos, [複数]Epik) としてまとめあげたものだと考えられている。
 口伝である以上、人から人へ伝えられる上で変化していくことは避けられない。
 ゲルマン民族には、物語を文字として書き記す習慣がなく、すべての伝承は口から口へ伝えていったものなので、書き記される以前の原型は失われてしまい、推測することは困難である。伝わっていく過程で新たなエピソードが加えられたり、既存のストーリーが変更されたりしても、どの段階でそれが行われたのかは分からないのである。

 もちろん、最初に伝説を語り始めたのが誰だったのか、最初の段階ではどのような物語だったのか、といったことも、分からない。

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 しかし、例外として、、作者を特定出来るエピソードも在ることには在る。

 ディートリッヒに関する伝説そのものの始まりは特定不可能だが、一つのまとまった文学作品として存在する場合は、そのけいしきや内容から、ある程度の推測が出来るのだ。
 たとえば、「シドレクス・サガ」の場合である。
 この作品は、それまでに存在した多くのディートリッヒ関連エピソードを、編纂・編集したものである。
 言ってみれば、リヴァイバル版なのだ。

 以下は、この物語の成立に関する説の、本よりの抜粋である。

 『…原型はドイツ語で記されていない。しかし歌謡として北欧に伝わり、ノルウェーのベルゲンにいるザクセン商人たちの間で謳われているうちに、それを聞き知ったアイスランド人が1250年頃に、古ノルト語の散文で書き留めた。それが現在、ティードレクス・サガと呼ばれている作品である』

-----「ニーベルンゲンの歌を読む」(講談社)より

 現在のところ、これが最も受け入れられている説である。
  この作品は、中世後期には、アーサー伝説と同じく、叙事詩から散文への翻案 (prose redaction[英])が行われ、広く普及していった。 そうして誕生したのが、英雄物語集大成「ヘルデン・ブッフ」(Heldenbuch prosa−1420年頃に成立)である。
 シドレクス・サガの原型は、ドイツからノルウェーへ行った商人が持ち込んだものだから、外国に出て行った伝説が、再度、元の伝承場所へ戻ってきたという動きになる。



▼以下は未確認の情報。▼

 「シドレクス・サガ」は、現在、便宜上いくつかの章に分けられており、それぞれの章について、作者を特定しようとした試みもあるようだが、私自身が納得できている説ではないので、とりあえず書きとめておくに留める。

『ディートリッヒの逃亡』と『ラーベンシュラフト(ラヴェンナの戦い)』と名づけられている部分は、ハインリッヒ・デァ・フォグラー Heinrich der Vogler の作(1280年頃) 。この部分は、歴史的詩作 (historische Dietrich-Epik)と呼ばれています。

 歴史から離れた、伝奇的要素の濃い冒険譚的詩作(aventiurehafteDietrich-Epik)と呼ばれる部分、 『ゴルデマール』や新『ジーゲノット』等は宮廷詩人 アルブレヒト・フォン・ケメナテン Albrecht von Kemenaten (14世紀)の筆によるとされている。



 これも未確認。写本の種類などについては調査中。

 「ヘルデン・ブッフ」の完璧な写本とされたのは、金細工師 ディーボルト・フォン・ハノヴェ Diebolt von Hanowe が1476年 頃製作した、《ストラスブール市のヘルデンブッフ》である。
 同市に保存されていた原本は、おしくも仏普戦争のおり焼損してしまいましたが、部分的な写しは多数あるため、原テキストは、ほぼ復元可能とのこと。

 他には、印刷機の発明された直後に出版された、ヨハン・プリュス(Johann Pruess)によるストラスブール写本を底本とした《ヘルデンブッフ》(初版:1479年) も、存在する。字句が現代語化されるなど、テキストは原本と異なるのですが、こちらは、たいへんな人気を博し、何度も版をくりかえされた(第6版:1590年)。 [参考:Walter Kofter:Strasburg]
 しかし、挿入作品は少なく七点のみ。『オルトニット』、『フーグディートリッヒ』(竜退治)、『小人の王ラウリン』、『ウォルムスのバラ園』(剣試合)、『ジーゲノット』(巨人) など、いずれも伝奇的な冒険譚に属すものばかり。
 人気作品をチョイスした「ベスト版」といった感じである。



 16〜17世紀においては、このヨハン・プリュスによる「ベスト版ヘルデンブッフ」のように、英雄譚を抜粋するなどした 廉価な通俗本(Volksbuch[独], chapbook[英]) によって、伝説が広く庶民に通読 されるようになっていたらしい。
 そこから、現代のファンタジーの基本になる「剣と魔法、竜退治」のモチーフなんかが生まれていったことになる。この時代のファンタジー風叙事詩の象徴とも呼べる民衆本「不死身のセイフリート」も、同じく16世紀の発刊である。
 (・・・「不死身の」って、なんかスーパーマンかウルトラマンみたいでアレですよね。イカしたヒーロー・僕らのセイフリート、化け物を倒す!みたいな。まあそんなカンジ。)

 時代とともに伝説は変わりゆく。ディートリッヒの伝説、と広く定義すれば、シドレクス・サガの時代を中心として、5世紀ごろの一番最初の伝説(現存しない)から、現代のファンタジー(元ネチに使われている)まで、すべて含まれることになると言えるだろう。




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