■アーサー王伝説-Chronicle of Arthur |
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アーサー王の原型となった人物が「実在した」と、仮定しよう。
もし実在したとするならば、その人物が生きていたのは、いかなる時代なのか?
アーサーの生きていた時代については諸説あるが、ここでは最もオーソドックスな、そして映画「キング・アーサー」でも採用されていた時代を取り上げたい。それは、5世紀終わりから6世紀はじめ、隆盛を誇ったローマ帝国が東西に分裂し、内部から崩れ落ちようとしていた時代だ。
最初にローマがブリテン島にやってきたのは、カエサルの遠征だった。そしてその後、紀元43年のクラウディウス帝の遠征によって、ブリテン島のほとんどは制圧される。ローマ帝国の最も西の領土、「ブリタニア」の誕生だ。
ただし、戦力不足と地形的な問題から、ブリタニアの北の果て、すなわち現在のスコットランドにあたる部分と、海を越えたアイルランドまではローマ支配が及ばなかった。「ハドリアヌスの壁」とは、支配できなかった北の地を、ローマが支配できた南の地を隔てるために創られたものである。
■ハドリアヌスの壁
「ハドリアヌスの壁」は、ブリテン島の東海岸から西海岸まで続く壮大なもので、紀元122年に建設が始まった。(現在も一部が残っている。)この時代、「ブリトン人」と言う時は、通常、このハドリアヌスの壁の南側に住んでいた、ローマ化された土着民を指す。それに対し、壁より北側に住んでいたピクト人やアイルランド人、海を越えてきたゲルマン系の人々は、ブリトン人にとっては「敵」だった。
ブリタニアが最初にローマの支配を受けてから数百年の間、ハドリアヌス城壁の南側は、ローマと同じように州に分けられ、総督府が置かれて支配されていた。ローマの兵士たちは、壁を越えてくる北の「蛮族」たちと戦って領土を護った。
「ブリテン島におけるローマの支配」というのがいかなる形だったかは諸説あるが、共通の敵と戦い、壁の南側の土地を守っているという意味では――おおむね友好的で、主人と奴隷の関係ではなかった、とするのが妥当な見方かと思う。土着の人々は、ローマの文化を受け入れながら、自分たちの伝統も守っていた。その中で混血も進んでいたかもしれない。だとすれば、壁の南側にいた「ブリトン人」とは、元々の土着民に加え、ローマからやってきて住みついたローマ人や、ローマ人と土着民の混血も含む。
ローマ本国がキリスト教化されたのに従って、ブリテン島の、ハドリアヌスの壁より南側の地域もまた、キリスト教圏になっていった。
アーサーが「キリスト教徒の王」と、言われたのは、彼が「ローマ化された土着民=ブリトン人の出身」だという前提のもとで語られているからだ。
※なお、この時代のブリテン島やアイルランドがケルト系の民族だったというかつての説は、現在(2017年時点)では遺伝子調査により否定されている。土着民は、氷河期の終わりに島がヨーロッパと陸続きだった頃に渡って来た人々が主体となっており、そこに後から少数の移住者を受けいれて混血している。ケルト系の文化の一部は島に入っているが、民族の入れ替わりは存在しない。「島のケルト」は存在しなかったのだ。
ブリトン人にとって、同じケルト系でもハドリアヌスの壁より北側に住む人々――ピクト人やスコット人、また海を越えてやってきたゲルマン系の人々(いわゆるヴァイキング)――アングル人やサクソン人は、"敵"だった。ローマから送られてきた軍の統率者たちは、幾度と無く、これらの外敵からブリタニアを防衛していたようだが、その中の最後の一人、マグヌス・マクシムスの時代に事件が起こる。
マクシムスは自ら西ローマの皇帝を名乗って、東ローマの皇帝に戦を仕掛けたのだ。
だが、結果は惨敗。彼は388年に東の皇帝によって捕らえられ、斬首される。
その後、398年にスコットランドのピクト人に勝利したという記録のあたりを最後にローマの軍が撤退し、400年代に入ったあたりからブリテン島に関する文字記録は少なくなり始める。
この時代のブリタニアは、ローマの撤退によって一部の富める人々(領主)が権力を握り、地方都市が栄える状態になっていたとされる。
406年、ブリタニアから海を挟んですぐのガリアがゲルマン系の諸民族に蹂躙されたことに脅威を感じたブリトン人たちは、ローマの支配を離れ、自ら王を選び出す。しかし、選ばれた三人の王たちは、いずれも長くは生きられなったようだ。
そして410年をもって、「劇的な記録の中断」が訪れる。
歴史の教科書で言うところの、「ゲルマン民族の大移動」時代に入り、ローマはもはや、広大な帝国を維持する力を持っていなかった。時の皇帝ホノリウスは、ブリタニアに対し「自分たちの力で領土を守れ」という、事実上の独立を認める勅令を出す。ローマからの完全なる独立によって、ローマ側の、ブリタニアに対する記録が途切れる。そしてブリトン人自身は、完全にローマ化されていなかったからなのか、文字をもって自らの歴史を記録するという行為を行わなかったようだ。
アーサー王の原型となった人物が「実在した」とされるのは、まさに、この時代だ。
ローマが撤退し、ブリトン人が”自らの手”で、ハドリアヌス城壁より南の土地を守らねばならなくなった時代である。今までローマの兵に守られていたのだから、いきなり自分たちで組織だって戦えと言われても。しかも王なきブリテン島は地方の豪族たちがバラバラに権力を握っていてまとまりがない。皆、自分の土地だけ守られればよいと思っている。だが、サクソン人やピクト人、その他さまざまな民族が、ハドリアヌスの壁より南の土地を狙っている。さあ、どうする?
このような時代に颯爽とあらわれ、人々をとりまとめ、ローマ皇帝に代わってブリテンの王となって侵略者たちを退けた英雄王――それこそがアーサー!
と、いうのが、伝説の趣旨だ。そのアーサーが多数の洗練された騎士たちを従え、聖杯の奇跡や妖精や貴婦人たちとのロマンス彩られた物語の主人公になるのは、ずっとあとの時代になってからで、元々は、勇猛果敢な武将、伝説の英雄という像だった。
ただし、「アーサー」に相当する人物が実在しなかったとしても、この歴史にはつじつまが合う。アーサーが参加したとされる戦い自体は存在するのだが、年代記に、あとから数行付け足すだけで、この戦いにアーサーが参加していたことに出来てしまう。
ローマが去ったのち、ブリタニアを統べた「王」が存在したという証拠は、今のところ存在しない。ローマ支配を離れた後、選び出された三人の王は、いずれも短命に終わっている。
それゆえ歴史家は、アーサーの実在を疑問視する。
アーサーの実在したとされる時代が歴史資料の「空白」期で、現在する記録はいずれも、後の時代になって書かれたものだ。
考古学に証拠を求めても、戦いの痕跡や、砦の建造された跡が出てくるくらいなので、「確かにこの時代に戦いがあったようだ」とは分かっても、その戦いにアーサーが参加していたかは、分からない。つまり何も、確信を持って語ることは、出来ない。
その確信のない部分を、自信をもって容赦ない空想で埋めていったのがジェフリー・オブ・モンマスで、彼が作り上げた虚構を含む歴史、――空白部分を埋めた「仮定の塊」が、今のアーサー王伝説の原型と言えるかもしれない。
異民族の侵入を防いだバドンの戦いから、敗北を喫するカムランの戦いまでは、僅か数十年。人ひとりの人生の長さとしては十分だが、逆に言うならば、アーサーが実在したとして、その栄華はたった数十年しか続かなかったということである。その後、ブリタニアは異民族の侵入を許して分断され、二度と一つになることは無かった。ウェールズに篭った人々もいれば、海を渡ってブルターニュへ移住した人々もいる。
そんな分断された人々にとっての、過去の栄華の象徴が、「偉大な王、アーサー」ということだろう。