2001.4.3-

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4月22日(日) 「恋愛常識」

 人は時の流れに気づかない。時の後ろ姿しか見ることができない。
 あなたが見ている私は昨日までの私で今日の私じゃない。私が見ているあなたも昨日のあなただ。
 時の流れは誰をも同じ速度で押し流していくけれど、人の歩く速度はそれぞれ違う。
 昨日までとなりにいた人がいつの間にか先に行ってしまっていた、というのもよくある話だ。
 私も先を急ごう。
 
                   *
 
 一切を否定せずーーそこが私の目指す道。
 否定だけでなく、肯定さえせず、ただ受け止め、受け入れられたらいい。

                   *

 理想だけでは駄目だし、現実だけでももちろん足りない。
 理想と現実と重ね合わせるのだ、半分ほど。
 そして、その中心で生きながら、時に振り子のように揺れればいい。理想が息苦しくなったら現実に揺れ、現実がつらくなったら理想に逃げ込む。
 どちらか片方だけで人はこの世では生きていけない。それは歴史が証明している。世界には理想と現実の両方が同じだけ必要だ。
 
                   *
 
 まずは一人が認識すればいい。それを提出すれば全員の共通認識になるのだから。
 全員が真実を追求することに人生を費やす必要はない。この世界には現実や日常を支えていく人間も絶対にいなくてはならない。
 それぞれが自分の役割を果たして、互いの役割を尊重すること、それが大切なことだ。誰が上でも下でもない。
 
                   *
 
 自分という存在は、難しいけれど解かれるべき謎だ。
 自分を知ることは難しい。もしかしたら不可能なのかもしれない。でもだからこそ追求する価値があるのだ。
 一生を賭けてやるに値する。
 
                   *
 
 正しい言葉が必要なのではない、言葉としての正しさが必要なのだ。
 正しい教えが重要なのではなく、正しい教え方こそが大切なことなのだ。
 おまえは頭が悪いからもっと勉強しろ、などというのは教えでもなんでもない。そういうことだ。
 
                   *
 
 辿り着いた場所は、いつでも再出発の場所だ。
 立ち止まったら、足元から腐り始める。
 この世に安住の地など存在しない。
 
                   *
 
 毎日できるだけ多くのものを取り込み、感じて、考えて、言葉にすること、これが私の基本姿勢のはず。それはまだ変わっていないはずだ。
 日々やっていることは間違いではない。意識の持ち方を間違えていただけだ。
 feel and geuss.ーー感じること、考えること、そして言葉にすること。
 すべては正しい言葉のために。そのことを決して見失わないように。
 
                   *
 
 良いことも悪いことも、嬉しいことも嫌なことも、実際にやってみると必ずといっていいほどこう思う。ああ、もっと早くやっておけばよかったな、と。
 気が乗らないからといって延びのびになってたこともやってみれば案外あっさりできてしまったり、やろうとやろうと思ってやれなかったことをようやくやってみたら思ってた以上に楽しかったりした時、こう思うはずだ。なんでもっと早くやらなかったんだろう、と。
 そうなんだ。やるべきことや、やりたいことは、一日でも早くやった方がいい。早ければ早いほどいい。そうすれば後悔も少しはやわらぐだろう。
 物事は前倒しが一番。
 ただし、焦って愛の告白をしてふられても私は知らん。私のせいじゃない。
 
                   *
 
 人はどんなにみっともなくても自分を守ろうとする。そのことを誰も否定したり笑ったりできないけれど、でも守らないで生きられればそれに越したことはないんだから、なるべくなら守らない方向で意識して生きた方がいいと思う。守らなくて済めば生きるのはとても楽になる。
 
                   *
 
 人は誉め言葉だけ信じていればいい。非難に耳を傾ける必要はない、とあえて言いたい。結果的に自分が進歩、成長できて、人のために役立つ人間になれればそれでいいのだから。
 人の好意と誉め言葉は素直に受け取っておく方がいい。借りは違う形で返せばいいんだし。
 もし誰も誉めてくれなければしょうがない。自分で自分を誉めてやるしかない。半端な誉め方じゃその気にならないだろうから気持ち悪いくらい誉めてやる必要があるだろうけど。
 
                   *
 
 人にはそれぞれ「恋愛常識」というものがある。社会常識とは別に。
 恋愛関係における決まり事というか、当然そうすべきだと思うことが。
 人によってそれはかなり違っていて、たとえば、毎日電話することだったり、外では手をつなぐことだったり、店では向かい合わせではなく隣に座ることだったり、食事は必ず男の方がおごることだったり、そういうことだ。
 そして、この常識が極端に違うカップルはどれだけ好き合っていてもいつか駄目になる。もしくは片方が相当我慢しなければならない。
 人は自分の常識を過信してしまうもの。恋愛常識も例外ではない。たとえ変えようと思ってもこればっかりはなかなか変えられないものだ。
 だから、常識の似た人を探すしかない。

                   *
 
 もっと時間があればもう少しまともな生活ができて、もっとましな人生が送れるかもしれない。
 でも、多少の上乗せがあるというだけだ。人生における時間不足は人が思ってるほど本質的な問題ではない。自分が怠けていて物事が上手くいかないことを時間不足のせいにするのはみっともない。的外れな批判のようなものだ。
 誰にとっても時間は足りない。限られた時間の中で何ができるか、それが人生だ。
 1分間で答えられないクイズの答えは1日あっても答えられない。そういうものだ。人生は早押しクイズじゃない。
 
                   *
 
 今日はそれほど悪い一日ではなかった。少し上昇の兆しが見える。
 相変わらず問題点は何も解決してないのだけれど、日常はどうしても気分に左右されるものだから気分が悪いよりは良いに越したことはない。どんな生き方をしていても毎日の暮らしが基本になることは間違いないのだから。
 
 ゲーム熱が少し戻ったので今ちょっとまとめてやっている。本読みにしろ映画にしろゲームにしろ、気持ちの旬というものがあってそれは長く続かないから、その気があるうちにできる限りやっておいた方がいい。

 今一番面白いのが「サクラ大戦3」だ。これがものすごく楽しい。やっていて面白いと思うゲームはたくさんあるけど楽しいと感じるものは意外と少ない。
 一作目から完成度の高いゲームだったけど、3作目で更に完成度に磨きがかかった。
「サクラ大戦」シリーズは、ゲームが辿り着いた最も幸福な場所だと私は思う。
 
                   *
 
 朝日とともに起き出すのも人生。朝日とともに眠りにつくのもまた人生。
 世の中には深夜を生きる人間も必要だ。深夜の中でしか生まれないものもある。
 窓から差し込む朝日は、私にとってみたらしつこい借金取りみたいなものだ。うわっ、また来やがった。あ、本当にどうもすみません。あとひと月、あとひと月だけ待ってください。来月は必ず返しますから。どうかお願いします。
 ……。
 朝日を相手に吉本新喜劇のようなひとり芝居をしてしまった私は恥ずかしさのあまり眠りの中に逃げ込むことになる。
 
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 今日のための言葉
 
「恋人をいい女にしたかったら、とにかく褒める。篠山紀信は、富士山を撮る時でも褒める」
 
 中谷彰宏

4月21日(土) 「腰がない一日」

 説得力にも賞味期限がある。時が移ろえば人が求めるものも変わり、かつて説得力のあったものもその力を失う。
 捨てられるのが嫌なら、どんなに苦しくても先頭を走り続けるしかない。変化を止めたらあっという間に捨てられてしまうだろう。
 休んだら置いてかれる。当たり前の話なんだけど。
 
                   *
 
 最大の問題は一日に核がないことだ。だから毎日に手応えがなくて、なんとなく頼りない。ゆですぎた冷や麦みたいに。
 休みなく意識し続け、行為を途切れさせていないのに。それだけでは充分ではないらしい。
 また心の中心になるものを見つけなくてはいけない。ゆですぎた冷や麦はもうどうしようもないから、今度はそうめんでも作ろう。ざるきしも捨てがたい。たまにはうどんもいいかな。
 って、そういう問題じゃないだろう……。
 
 それにしても不調が長引いている。この無気力感は、もしかしたら風邪かもしれない。そんな気がしないでもないのだけど、体温計が見あたらないから熱が計れない。考えたらここ5年くらい体温計って使ってない。平和な生活だな。
 言葉の調子もやっぱり悪い。昨日せっかくまともな日記が書けたと思ったら消えてしまうし、今日になったらまた駄目だし。
 誰にともなく腹が立つ。

 今日もまた浮上のきっかけは見つからず。なんとか命を明日につないだだけで終わってしまった。でもまあ死ななかったからよしとするか。
 それにとりたてて不幸ってわけでもない。今の私の幸福度は、下から数えるよりも上から数得た方がきっと早いだろう。世界には笑えるほど不幸な人はたくさんいる。
 心安らかに眠ろう。自分の寿命に感謝しながら。
 
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 今日のための言葉
 
「明日の事が解らないという事は、人の生きる愉しさをつないでゆくものだ」
 
 室生犀星

4月20日(金) 「強制終了という名の不幸」

 今日はきちんとこの断想日記を書いた。昨日書けなかった分とあわせて。
 これがなかなかいい出来で、ここ最近では一番気に入った日記だった。
 さて、あとは「今日のための言葉」を調べるだけだ、とサイトを回っていたら、突然画面が暗転してすべてのソフトが強制終了になってしまったのだ。
 ………………。
 なんで……?
 ……。
 しばし判断停止する中、VAIOは何事もなかったように再起動し始めた。
 ……。
 切れそうになった。VAIOが人間なら反射的にぶん殴っていたかもしれない。
 うぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーー。なにやっとんじゃ、バカァ!! なんてことしてくれるんだぁぁぁーーー。ああああーーー。
 と心の中で叫んでみたけれど、今日書いた日記の文章は永遠に失われてしまった。私の記憶力では復元不可能だ。それにもうそんな気力はない。今日はどうやってもこれ以上書けそうにないから寝てしまう。馬鹿らしくてやってられない。
 せっかく今日は初恋についてみっちり語ったというのに。

 まったくもう、やれやれだ。VAIOが悪いのか、馬鹿Windowsが駄目なのか、それとも信じた私が間抜けだったのか。
 とにかく、前触れもなく強制終了したり固まったりするような仕組みのものは作って欲しくないぞ。ハードにしてもソフトにしても。性能を上げる前にまずこのへんの問題をクリアしてもらわないと困る。
 やっぱりパソコンは頭が悪い。永遠に人間を超えることはできないだろう。優しくないやつは駄目だ。

 というわけで、今日は絶望のうちに一日が終わった。でも、もう仕方がない。ゆっくり眠ってまた明日出直すことにする。
 とにかくパソコンは信じるな、ということだ。

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 今日のための言葉

「勤勉な馬鹿ほどはた迷惑なものはない。」

 ホルスト・ガイヤー『人生論』より


4月18日(水) 「思い出という幸福」

 長い葛藤と自問自答の末に、私は自分を許し、認めたはずではなかったのか? ならばもう無駄に悩む必要はないだろう。やるべきことをやらずに済ますために悩むふりをするのはもうやめよう。やりたくないことは心を殺してやるのだ。
 
                   *
 
 海を見ると自分の小ささに気づくなら、いつも心に海を持っていればいい。頭の中にいつも宇宙があれば尚いい。
 世界の無意味にも思える広さに私たちは馬鹿にされているけれど、これは紛れもない現実。この広大さの前で私たちは謙虚になるしかない。悔しいけれどしょうがない。私たちの存在は実際悲しいほどに小さい。
 
                   *
 
 それにしてもここ数日自分の気分を捉えきれない。持っているすべてのCDの何を聴いてもしっくりこない時があるけど、ちょうどあんな感じだ。以前自分を楽しませてくれたものが今の私を楽しませない。
 感情と気分と思考と趣味と好みが、それぞれかみ合ってない。てんでバラバラに好き勝手な方向に進んでいってまるで収集がつかないのだ。
 致命的ではないけど、その微妙なズレがかえってもどかしくて落ち着かない。チューニングが微妙に狂っているピアノを弾くとこんな感じなのかもしれない。なんとか調律しなければ。
 
                   *
 
 気分の奴隷、そんな自分を変えたいと思う。その日その時の気分で翻弄されてしまうようでは情けない。自分の気分を自由自在にコントロールできたらどんなにいいだろう。そうしたら、もっと生きることが簡単になるはずだ。
 楽に生きたいわけではないけれど、無駄なところでエネルギーを失ってしまうのはもったいない。限られたエネルギーは有効利用しないと。
 
                   *
 
 なんでも10年頑張るといい。やりたいことや、やるべきだと思うことや、好きなことなら。
 10年続ければなんとか自分のものになる。上手くもなるし、いろんなことが分かってくる。
 もし10年続けてもものにならなかったら、あと10年だけ頑張るといい。そこまで続ければたいがいのことはできるようになるものだ。
 足りない才能は歳月で補えばいい。
 人生はタイムレースじゃないんだ。早く目的地に着けば勝ちという競技ではない。とにかく生きている間に目的地に着けばいいんだから、そんなに焦ることはない。
 もし途中で寿命が尽きたら?
 そういうこともある。素直に諦めよう!
 
                   *
 
 たかが20年や30年の中で培われてきた「絶対」が真に揺るぎのない絶対であるはずがない。それこそ「絶対に」ない。
 私自身、自分の中にあった絶対が何度も崩れ、ひっくり返るのを経験してきた。
 だから、今自分の中にある絶対を信用しすぎない方がいいだろう。その絶対は、明日終わってしまう絶対かもしれない。
 
                   *
 
 人と同じことをするな。いつでも人と違うことをしろ。
 私はそう自分に言い聞かせているし、家訓にしたいくらいだ。
 人と違うことをしなければ可能性は開けないから。
 
                   *
 
 時は敵か、味方か?
 どちらでもあり、どちらでもない。
 だが、人間にとって必要不可欠なものであることだけは間違いない。時を失ってしまえば人は人でなくなってしまうだろう。
 
                   *
 
 人は自分にとって虚しくない生き方を選べばいい。それが正解だ。
 基本的に一つの生き方以外はすべて虚しいはずだから。
 
                   *
 
 才能がないことは悲劇ではない。
 確かに才能はトランプで言えばエースだ。最高の切り札に違いない。けど、エースがなければ勝てないわけではないし、エースが1枚あるだけでも勝てないのだ。才能がなくたって戦える。知恵と勇気さえあれば。
 
                   *
 
 誰も否定したくないし、誰のどんな考えも否定する気はない。
 すべての人や考えは正解と不正解で成り立っているのだから。
 そして、肯定か否定かどちらかを選ばなくてはならないとするなら、私は迷うことなくすべてを肯定しよう。悪もまた、肯定することでねじ伏せたい。
 
                   *
 
 人は何故他人の目を見るのが恥ずかしいんだろう? 目も顔の一部なんだから口を見たり耳を見たりするのと同じように見ればいいのに。
 それは人に見られることが恥ずかしいということなのだろうけど、ではなんで人に顔を見られるのがそんなに恥ずかしいんだろう?
 そのへんの人間心理は分かるようで分からない。猫と見つめ合うのだってけっこう恥ずかしいし。
 
                   *
 
 目にした風景というのは、その場ではあまり役に立たないものだけど、ある程度時間が経って、記憶から思い出へと変わった時、役に立つ。心を慰めたり、喜ばせたり、感動させたり、優しい気持ちにさせたり、切なくさせたり。
 目を閉じれば、今まで見た様々な風景が次々に浮かんできて、なんだかちょっと幸せな気分になれる。
 20代の私は思い出も写真も一所懸命否定してきたけど、今は思い出の大切さを知った。思い出を持つことは決して後ろ向きなことではなく、自分を幸福にしてくれるありがたいものだ。
 福井で見た日本海の風景も、今記憶のアルバムに加わった。なくさないように大事に保管しておこう。
 
                   *
 
 今日の目標60点はぎりぎりクリアーした。出だしは好調で夜になるまでは70点ペースだったんだけど、深夜の手前で失速して50点ペースになってしまい、最後なんとか少し盛り返して、トータル60点といったところだろう。満足からはほど遠いけど、一応納得はしている。
 通知表の「3」確率80パーセントは伊達じゃない。

 明日は細々した用事があれこれあるから退屈してる暇はない。まあそれなりの一日になるだろうと思う。
 ただ、毎日の暮らしとは別に、この日常を根本的に変えるための動き出しを考えなければいけない。まずは意識をそちらに持っていくこと、そこから始めよう。

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 今日のための言葉

「人生は、私たち一人ひとりが、それぞれの目を通して見ている映画だ。そこで何が起こっているかに大した違いはない。重要なのはそれをどのように受け取るかだ」

 デニス・ウェイトリー

4月17日(火) 「赤点スレスレ32点」

 ここのところどうも毎日を楽しめない。なんだかすごく詰まらないのだ。誰にともなく腹が立つ。詰まらないのは誰のせいでもなく自分のせいだと分かっているけれど。
 映画を観に行ったり、行ったことのない土地へ行ったり、そんな小手先の誤魔化しではもう自分を楽しませることはできなくなってしまった。
 それは最近起こった精神性の変化と関係があるのだろうけど、それにしても本質的な部分が間違っている。いや、本質が抜け落ちている。
 もう今の生活は飽きた。別のものに交換したい。たぶん、そういう気持ちになれたからもう大丈夫だろう。きっと……。
 
 私は自分を信じることをやめられない。自分に対する根拠のない信頼が人生を狂わせ、自らを不幸にしているのかもしれない。けど、そういうたぐいの悲劇なら引き受けよう。
 自分を駄目な人間だと思い込むことで自分の心を守ってまっとうに生きていくようなことだけはしたくない。
 人は自分の愚かさに殉じなければいけないのだ。私もまた例外ではない。
 
 たとえば、幸福な私は何を語り、何を書けるだろうか?
 上手く想像できない。私はたぶん、幸福になるために言葉を探している。だから、幸福になってしまったら、もう言葉は必要なくなってしまうんじゃないだろうか。
 だとするならば、私は幸福を求めつつ諦めなければいけないのかもしれない。幸福よりも言葉の方が私にとっては大事なものなのだから。
 あるいは両立し得るのだろうか?
 
                   *
 
 過去のすべての偉人や天才たちを、今を生きる私たちが上回るのは当たり前のことだ。思想にしても才能にしても仕事にしても作品にしても。
 私たちは彼等の完結した人生を知ることができるのだから。死んだ人間は、それがどんなに大天才であろうともはや進歩することはない。だから追いつくのは簡単だ。
 そんなことで威張っていてもどうしようもない。大切なのは彼等の仕事にどれだけ上乗せできるかなのだから。
 まずは追いつくこと。そして追い越すこと。彼等もきっとそれを願っている。
 
                   *
 
 恵まれた人生というのは、金持ちの家に生まれるとか、生まれついての美人とか、才能がるとか、そういういったことじゃなくて、努力の方向性が明確な人生のことを言うんだと私は思う。
 たとえば、物心ついた頃から野球が好きで、将来の目標はプロ野球の選手になること、と素直に思えて、努力して、プロ野球選手になった、というような努力と結果がダイレクトに結びつく人生が恵まれた人生ではないだろうか。
 一番やっかいなのは、なんでもたいした努力もせずに人並み以上にこなせて、本当にやりたいことが見つけられない人生だ。こういう種類の人生は本当に難しい。なんでもできるけどなんにもできないから。自分はもっとやれるはずだと思いながら年老いて死んでしまう。
 けれど、それはもちろん絶望なんかではない。ただちょっと難しいというだけだ。そういう人生に迷い込んでしまったら、覚悟を決めて全部自分でやるしかない。自分で目標を設定して、自分で努力をして、自分でゴールを決めるのだ。
 いろんなことができるということはいろんな可能性があるということなんだし。
 恵まれていようがいまいが、どんな人生も人生に変わりはない。すべては自分にかかっている。
 高杉晋作は死ぬ直前、病の床で、「おもしろき こともなき世を おもしろく」と言ったきり絶句してしまった。その下の句は私たちひとりひとりの宿題だ。とびきりの下の句を考えて高杉晋作にプレゼントしてあげよう。「すみなしけるは 心なりけり」なんていう和尚の分かったような退屈な下の句ではなく。
 
                   *
 
 私たちは悲劇性を好む。けど、決して悲劇が好きなわけではないはずだ。
 この世から悲劇がなくなってしまったらさぞかし退屈だろうけど、でもやっぱり悲劇はなるべく少ない方がいい。
 悲劇は願うだけではなくならない。悲劇と戦って勝たなくては。
 戦争は必要悪なんかじゃない。自殺に意味や必然性などありはしない。それらがなくなってしまったら困るような世界ではおかしい。なくしてしまえばいい。
 個人の悲劇も世界の悲劇も必要ない。実際問題なくならないけど、全員の共通理解として必要ないんだということを確認しておかなければならない。
 人間の愚かさは愛すべきものだ。でも、いつかその愚かさを捨てなければいけない時が来る。いつか来るなら明日でもいい。もうそろそろ人間は悲劇を捨ててもいい頃だ。間抜けさにはもう飽きた。
 
                   *
 
 大きなことを考えれば考えるほど虚しくなる。
 たとえば、時代の先頭グループを走っている日本という国に生きる一人の人間として、時代の一番後ろを走っている国々の人たちに対して、何を言えるだろうか?
 この恐ろしく足並みの揃わない世界の中で、絶対的な正義や正しさなどどこまでいっても存在しないのかもしれない。
 そんなことを考えていると、人生というのは所詮退屈しのぎなのかもなと思えてくるのだった。
 
 全世界のすべての人間、現在過去未来、全宇宙、すべての存在、それら全部を同時に認識することは果たして理論的に可能なのだろうか? すべての要素を知らなければ答えを見つけ出すことはできないだろう。どうなのだろうか? 認識可能なのか?
 私たちは結局のところこの宇宙のことを何も分からないまま滅びてしまうのだろうか?
 まあ、あんまりそういうことばかり考えていると思考が手詰まりになって煮詰まってしまうから、明日の夕食のメニューのことでも考えた方がいいかもしれない。次にオークションで何を買おうかなとか、井川遙のアデランスのCMが新しくなったなぁとか。、次は映画館に何を観に行こうかなとか。
 あれこれ考えることはたくさんある。宇宙のことや人類誕生の意味なんて考えているほど私は退屈ではないのだぁー。
 ゲームボーイ・アドバンスはやっぱり買った方がいいのかなぁ?
 
                   *
 
 今日という日はホント、ロクなもんじゃなかった。テストでいうと、ちょっとまずいかなぁと思ったら案の定まずくて32点、といったところか。赤点スレスレ。まいった、まいった。
 明日もたぶん駄目だ。始まる前から自信がない。水曜日はいつも調子が悪いと相場が決まってる。なんとか60点取れたらよしとしよう。
 ミスター・オール3と呼ばれたこの私だ、60点くらいならなんとかしようではないか。空欄を作らず、何か書けばなんとか60点くらいは取れるだろう。
 
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 今日のための言葉
 
「長い目で見れば、利口者や金持ちに生まれつくよりも、運の良い人間に生まれついた方がいい」
 
 ウイリアム・サマセット・モーム

4月16日(月) 「無駄な悩みと合成着色料」

 嘆いてみても何も始まらないし何も終わらない。
 嘆きたい気持ちを無理矢理にでも封じ込めて、目の前のことを一つずつ確実に終わらせていくのだ。それが前進だから。
 
                   *
 
 一所懸命頑張ればそれでいい、という考え方が私は嫌いだ。そんなものは先回りの言い訳だから。
 せっかく一所懸命やるなら結果も出したいし、人に誉められたいと思うべきだろう。その方が断然嬉しいのだから。
 自分の望む結果を出すために頑張る、というのが姿勢としては正しいはず。だったら頭を使って頑張らないと意味がない。ただがむしゃらに頑張るのは、部活で闇雲にグランドを何十周もするのに似ている。根性論では結果は偶然でしかない。
 人生結果がすべてじゃない。そんなことは分かっている。けど、結果を求めないでただ生きるだけでは駄目なのだとあえて言いたい。それが極論だということは知っているけど、でもやっぱり結果なのだ。
 この世に生きるすべての人が結果を求める生き方をするようになる日を私は夢見る……。
 
                   *
 
 大切なのは、正しい言葉ではなくて、言葉としての正しさなのだ。
 人間には、気持ちを萎えさせる真実よりもやる気が起こる嘘の方が必要だ。
 正しいことを正しく伝えることだけが言葉の役割ではない。
 
 人生を駆け抜けたジョン・レノンは言った。「人生は駆け抜けるものじゃないのさ」と。
 確かに大多数の人の人生は駆け抜けるものではない。ジョン・レノンの言葉は正しい。
 けど、ジョン・レノンにはあえて、「人生は駆け抜けるものだ。僕はここまで駆けてきた。みんなも早くここまで来るんだ」と言って欲しかった。その言葉がたとえ本心ではなかったとしても。
 人には慰めの言葉よりも励ましの言葉の方が必要なのだと私は思う。ジョン・レノンほど影響力と説得力のある人ならなおさらだ。
 
 人間は嘘があったからここまで来られたんだ。
 
                   *
 
 私は人の幸福が好きだ。人が幸せだととてもほっとする。上手くいっている夫婦も好きだし金持ちも嫌いじゃない。本当にそうなのだ。
 私の中には人をうらやましいと感じる回路がどうやら欠落しているようで、子供の頃からそうだった。欲しいものはたくさんあったけど、人が持ってるから欲しいという発想はなかったし、人のものを盗ろうという気も起きなかった。
 たぶんこれは一種の欠陥に違いないけれど、まあ便利な欠陥ではある。
 誰かになり変わりたいと思ったこともない。
 これは自己満足的すぎるだろうか?
 
                   *
 
 今日半袖の大人を見た。半袖の子供は冬でも見るけど、大人が半袖で表を出歩くようになればそれはもう夏が近いということだ。今日の名古屋の最高気温は何度まで上がったんだろう? 20度は確実に超えていただろう。街頭の温度計で23度というのを見たからそれ以上かもしれない。つい先週まで桜の話をしていたのに、なんということか。学ラン姿の男子学生を見ているだけでも暑苦しかった。
 また夏が来る。そう、夏だ。毎年夏の終わりには、来年の夏まで自分は辿り着けるんだろうか、という不安に襲われるんだけど、今のところ毎年私は夏の上に立つことができている。それはとても幸運なことで喜ぶべきことだ。
 今年の夏は何か心に刻むことができるだろうか。
 
                   *
 
 今日も不調から抜け出せなかった。体調もちょっと悪いのかもしれない。
 今は自分に対する信頼感がかなり大きく揺らいでいて危うい状態だ。こんな時は、世界に対して伏し目がちになってしまう。胸を張れない。許しを乞うことさえしたくない。叫ぶことも駆けることもできない。
 こうなってしまったら、不信感が過ぎるのを待つしかない。雨がやむのを待つように。
 
                   *
 
 みんなはどれくらいのスピードで進歩、成長してるんだろう?
 私は2年前の自分の8割を否定するくらいの勢いで変化していっているけど、みんなもそうなんだろうか? 2年前から私を知る人は2年前の私を私と同じように否定するだろうか?
 人の内面的な成長というのはすごく分かりづらい。というか、ほとんど分からない。だから、2年前と同じ人間のつもりで接し、2年前と同じ人間と思いながら話しをしたりするのだけど、実際のところそれは明らかに間違ってる。同じはずがない。
 でもこのへんのズレというのはどうしようもないことなのかもしれないなとも思う。人は日々成長しているんだということをなるべく頭の片隅にとどめておくくらいしかできないのだろう。
 あなたは昨日と同じあなただろうか? 私は?
 
                   *
 
 たとえ今日が虚しく過ぎ去ったとしても、未来のために今日は必要な一日だったのだと思う。
 無駄に悩まないこと。悩んだり苦しんだり悲しんだりするのは必要最小限でいい。それ以上は合成着色料と同じくらい害だ。
 
 明日こそ人生が変わるといいなと思わない日はない。
 明日という日は、まだ観たことのない映画のように楽しみだ。少々退屈でも新しければ私はそれで満足。
 
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 今日のための言葉
 
「一人きりで飛び立とうよ
 どこか遼いところへ旅立つんだ
 いつかまた一緒になれるよ
 ぼくらが若かった頃みたいにね」

「スターティング・オーヴァー」ジョン・レノン(山川健一訳)

4月15日(日) 「出汁の作り直し」

 気分転換するつもりで日本海へ行ったら、悪い方に転換してしまった。ねじる方向を間違えたか?
 そうかもしれない。でも、そうじゃない。気分転換しようという発想自体が間違っていたのだ。
 気分転換というのは、なんとなく味のおかしい出汁に適当な材料を放り込んで味を無理矢理整えようとする行為に似ている。出汁の味がおかしいまま調理をしたら味はますますおかしなものになってしまう。料理が出来上がった時点であれこれ調味料を入れてなんとか誤魔化そうとしてもそれは手遅れだ。
 出汁が間違っていたら出汁を最初から作り直すしかない。日常が間違っていたら非日常で誤魔化すんじゃなくて日常をなんとかするしかない。
 つまりはそういうことだ。非日常に答えはない。そのことが今回の日本海行きでよく分かった。大切なのは経験そのものじゃない。経験から導き出される新たな発想だ。
 
                   *
 
 努力不足も才能不足もそれ自体は間違ってないし仕方のないことだけど、努力不足と才能不足をすり替えてしまうことは明らかな間違いだ。それは許される行為ではない。
 だいたい才能がないやつに自分に才能がないことがどうして分かるというのか?
 もしなければ、何故才能を育てようとしないのか? 才能が必要なら10年、20年かかっても育てればいいではないか。自分がそれを一生やる覚悟があるならそんなに難しいことじゃないはずだ。
 やりたいけど自分にはそんな才能がないからできない、なんて言い訳はこの世で最低の言い訳だ。やりたければやればいい。才能のあるなしなんて関係ない。やれないとしたらそれは本当には好きじゃないか、最初からやる気がないだけだ。才能不足のせいなどでは決してない。
 
                   *
 
 他人を信じられないなら生きるのなんかやめちまえ、と時々自分を叱る。
 得体の知れない孤独感、というか孤立感につきまとわれてしまうような夜に。
 
                   *
 
 人は他人を利用しないと生きてゆけないけれど、自分を癒し、救えるのは自分だけなのだと私は思う。未来の私はどう思うか分からないけど、今の私にはそう思えてならない。
 それとも、人は人を根本から救うことができるのだろうか? 恋人や夫婦や子供が……。
 
                   *
 
 なんだかつらい気持ちになっている時、ふと眠っている石川ミーを見てちょっとうらやましく思うことがある。気楽でいいな、と。
 けど、そうじゃない、と思い直す。
 何故なら、石川ミーはエサをもらう側で、私はエサを与える側だからだ。私は何かを受け取るよりも与える側でありたい。そこにしか満足は得られないことを知ったから。
 けど、石川ミーよ、おまえ、食い過ぎ。一日7食くらい食ってるやないか!?
 
                   *
 
 人生は水彩画じゃない、油絵だ。色を間違えたら乾くのを待って違う色を上から重ね塗りすればいい。人から見えるのは一番上の色だけなんだから。
 でも自分は下に塗られた色を知っていて、過去は消えることはない。
 人生は何度でもやり直せる。けど、過去は決して消えない。
 
                   *
 
 毎日を上手く掴めない。握ろうとしても手応えがないのだ。
 目の前で起こる出来事は影絵のように曖昧で、人々はブラウン管の中の通行人のよう。
 時の刻みだけが私を現実にかろうじてつなぎ止めてくれてる。もし私の周りからすべての時計がなくなって、時間が分からなくなってしまったとしたら、私は完全に現実とすれ違ってしまうだろう。
 私は現実への手がかりを早く見つけなければいけない。
 
                   *
 
 不幸を言い訳に自分を守ろうとすると安っぽくなるからやめておいた方がいい。
 かといって幸福を威張りすぎるのは分不相応なブランド品で全身を固めるように下品だ。
 幸不幸はあまり意識しない方がいい。そんなことを忘れているのが一番幸せな状態なんだし。
 
                   *
 
 どうにも虚しくてやりきれない日があって、そんな日は自分のやることなすことすべてが白々しく思えてどうしようもない。今日もそういうたぐいの一日だった。
 そんな日は本当じゃないし、そんな日ばかりじゃないから気にしない方がいいよ、と人は言うだろうし私も人に言うかもしれない。けど、どうにも気に入らない。完璧主義ではないけれど、虚しい日が一日でもある人生というのはどこか間違っているんじゃないか。そうでもないのかな。
 
                   *
 
 完璧な人生と平凡な一生の境目はどこにあるのか?
 それは向上心と努力の問題だろう。華やかな一生が正しくて平凡な人生が間違っているわけではない。向上しようと努力し続けた人生が正しくて、何の努力もしない人生が間違っているということだ。
 
                   *
 
 今日も調子は悪かった。昨日と同じくらい。
 疲れはほぼ取れたものの、無気力感は相変わらずで、特に書くという行為に全然気持ちが向かわず顔をなるべくそむけていた。
 病気のバロメーターが食欲なら、気分のバロメーターは書く気力のあるなしだ。調子がいい時はよく書けるし、書けばもっと調子が良くなるというふうにどんどん好転していくけど、悪くなると書けなくなって、書けないとますます気分の調子も悪くなる。
 だから、少しずつでも書くことで調子を取り戻していこう。明日は今日よりはましな一日になるだろう。
 あーあ、それにしても毎日にもっと手応えが欲しいなぁ。
 
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 今日のための一日
 
「毎日の中で、一番無駄に過ごされた日は、笑わなかった日である」
 
 S・シャンフォール

4月11日(水) 「闘うべき敵」

 目に見えないものを信じられないことはとても不幸なことだ。幸せの多くは目に見えないのだから。
 人は印刷された活字を信じすぎるように、目に見えるものを信じすぎる。自分の目を過信しすぎて多くを見失っている。
 大切なものは目を閉じて見た方がいい。あるいは薄目を開けて。
 
                   *
 
 また日常が停滞してきている。流れがとても悪い。気分が淀んでいる。心の風通しが悪い。
 ここはやはり換気が必要だ。日常から逃げ出して、少し風に吹かれてこよう。ヅラが飛ばないように気を付けなくちゃ。
 日本海は私を待っていてくれるだろうか。恐怖の雨男を今度こそ克服して、すんなり金曜に行けるといいのだけど。よもや季節外れの雪など降ったりしないだろうな? 妨害が入らないことを願ってやまない私であった。
 なんか、ちょっと嫌な予感がしていることはしている。けど、それも意志の力でねじ伏せよう。私を昔の私だと思うなよ!(って、誰に言ってんだよ)
 明日は午前中雨らしいけど午後からは晴れてくるそうなんで、夕方洗車をしてガソリンを満タンにする、と。あとは買い物をあれこれ。
 夜は早々に寝てしまう。寝られるものなら10時くらいには寝たいのだけどたぶんそれは無理なんで、一応12時から1時を目標にしよう。
 明日は短い一日になりそうだ。
 断想日記の更新もなし。
 
                   *
 
 DVDで『グラディエーター』を観た。
『サトラレ』の後だったこともあってか、どうも気持ちが入らなかった。なんとなく全体的に間延びしてるように感じられたけど、あえて大作ということでテンポを落としたのだろうか?
 でも、個人的には2時間に圧縮して展開をスピーディーにしたらもっと面白い娯楽作になったと思うんだけど、どうだろう? ま、そうしたらアカデミー賞はとれなかったかな。
 いい作品だし、力はあったけど、やや物足りなかった、というのが正直な感想だ。それと、残虐シーンの多さも生理的にちょっと嫌だったので、その分も評価としてはマイナスになったのだった。そのあたりは『ブレイブハート』を思い出させた。あれも嫌な作品だった。
 あと、題材は違うけど肌触りが似ている『ジャンヌ・ダルク』と比べたら、個人的にはあっちの方が好きだし、作品の出来も『ジャンヌ・ダルク』の方が上だと私は思う。
 アカデミー賞を受賞する前に観てたら、もしかしたらかなり印象が違ったかもしれない。
 
                   *
 
 ゲーム「電車でGO 3<通勤編>」が届いたんで早速やってみたが、初代とほとんど変わってなかった。走る路線と電車が変わってグラフィックがきれいになっただけだ。
 これでは前と同じことを繰り返すに等しい。もう少し新しい要素があると思ったけど、そうでもなかった。
 これは早々に売りに出すことになるだろう。
 同じことや似たことを繰り返すのは好きじゃない。
 
 あと、ドリキャスの「シェンムー」を一年ぶりくらいに再開してやってるけど、これはやればやるほど出来の悪いゲームだということに気づく。
 構想は決定的に正しかった。街を丸ごと作って、その中で人々がリアルタイムに生活している、というアイディアは大正解だった。けど、肝心のゲームデザインが致命的に失敗しているから、やっててもさっぱり楽しくない。追いかけるべきストーリーと街の中で生活する部分とが互いに足かせになってしまっていて、両方楽しめないというなんとも皮肉なことになってしまっている。
 思えば、セガが社運を賭けたこのゲームが大コケにコケてさっぱり売れなかったことがドリキャスの首をしめることになった。このゲーム1本がドリキャスの息の根を止めたと言っても言い過ぎではないだろう。
 もし、この「シェンムー」のこの倍出来が良かったとしたら、たぶん今でもドリキャスは元気でPS2といい勝負をしていたはず。そして、「サクラ大戦3」がもう1年早く出ていたら……。
 セガというのは間が悪いというかなんというか、ハードとソフトのタイミングがものすごく悪い会社だ。実力はソフトもハードも間違いなく日本のトップクラスなのだから、その両方を持っているセガがこけるはずないのにでも実際は何度もコケてしまうというのは、つまりハードとソフトのタイミングが致命的に悪すぎるからだろう。ハードを売るべき時期にいいソフトが出ない。様々な理由で。まったくもう、セガったら。
 セガだってそんなことは百も承知で、万全を期しているはずなのに、それでも何かがズレを呼んでしまう。不幸につきまとわれやすい人がいるように、会社にもそういうことがきっとあるのだろう。
 だから、ハードを捨てたセガの判断はおそらく正しい。ハードメーカーとしてのこだわりやプライドを捨てることができて、本気でPS2やX-BOXにソフトを供給する気になったら、たぶんセガは日本一、あるいは世界一のソフトメーカーになるだろう。それも遠くない未来において。
 考えてみればハードのプラットフォームが統合されることはユーザーにとってはとてもありがたいことだ。経済的な負担がかなり減るし、いろんな部分で無駄に迷わなくてすむようになるし、部屋も少しは広くなる。セガよ、どうもありがとう、と我々はお礼を言わなければいけないだろう。
 
 ところで、「シェンムー第2章」は面白くなってるんだろうな?
 
                   *
 
 人は虚しいことをたくさんやっている。周りから見るとそれがよく分かる。
 けど、いくら他人がそんな虚しいことはやめろと言っても無駄だ。意味がない。虚しいことというのは自分でそのことに気づくまでやめられないものだから。
 それでいい。虚しいことも満更無駄なことではないのだし。
 
                   *
 
 不幸も悲劇も絶望も、それは結末ではない。過程のひとつの要素にすぎない。答えなどでは決してない。それは私が保証する。
 
                   *
 
 もし神が世界や人間すべての運命を支配し操っているとしたなら、私たちが流す汗や涙に意味がなくなってしまうではないか? そんなことは許さないし、絶対に認めない。
 もし世界がそんなものだとしたら、私たちは世界を壊すために闘わなければならない。神は敵になる。
 自由とは何か? それは意志だ。自分の意志で自分の生き方を決められる、それが自由だ。
 自分の運命と闘い、運命に打ち勝った者だけが自由に生きる権利を得るのだと私は思う。それさえも運命だというなら、さらにその運命を越えてみせればいい。
 私たちは運命や世界の奴隷になってはいけない。
 
                   *
 
 当たり前のことだけど、結婚して子供ができたら「アガリ」ではない。
 人はきっとそこで安心してしまうのだろうけど、本当はもっと攻めなければいけないのだ。もっと可能性を求めて自分の人生を生きなければ。
 子供というのは人生において決定的な出来事ではあるのだろうけど、でも思っているほど絶対的なものではないはずだ。少なくとも、自分の人生を追求することをやめてしまうことの言い訳に子供を使ってはいけない。
「現実は厳しい」なんて言ってたら絶対に現実に勝てるはずもない。現実という敵は強敵ではあるけど、それは闘って勝つべき相手だ。現実が文句なく優れているなら現実に負けて子分になってもかまわないけど、現実は駄目なやつだ。そんなやつに負けてどうする。現実を打ち負かして、現実を奴隷にしてやる、くらいの気概がないと現実には勝てないだろう。
 人生は機会ーーそれも絶好のチャンスーーなんだということを決して忘れないように。
 
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 今日のための言葉
 
「誰かが私を退屈させている。その誰かはどうも自分のようだ」
 
 D・トマス

4月10日(火) 「弱者のための強者の論理を探して」

 一回できたことが二回できないはずがないじゃない。
 失敗したらもう一度やればいい。二回目はきっと一回目よりも短時間で、しかも上手にできるはずだから。
 人間、生きている限り何度でもやり直すことができる。人生ってのは滅茶苦茶甘いものなんだ。だって一回勝負じゃないんだから。
 大切なのは、生きる意志だ。闘う気持ちがある内は決して終わりじゃない。諦めた時が終わりだ。そうなったらもう生きる資格を失ってしまう。
 
                   *
 
 世界は神が作ったんじゃない。人間が作っているんだ、今現在、他のすべての生き物と共に。
 親を選ぶことはできなくても自分の人生は自分で決められるように、生きる世界は選べなくても世界を変えることはできる。世界はきっともっと良くなる。与えられたものをより良いものにするのは良いことだ。当然のことでもある。賃貸の部屋でも内装は自分で決められるように、世界の内側は人間が決めていいはずだ。大家にインテリアのことまだ指図されたくないよね。
 
                   *
 
 2、3年前の私と今の私は大きく違う。前は分からなかったことが分かるようになり、できなかったことができるようになった。私は変わり、変わり続けている。
 人生にもっとも絶望していた20代でさえ自分を見捨てる気にならなかったのは、この自分の変化に可能性と希望を見ていたからに違いない。去年に比べて今の自分は良くなった、だから来年はもっと良くなるだろう、そう思えたからこそここまでなんとか生きてこられたのだ。
 自分に変化を見出すことができている間は決して絶望する必要はない。誰にとっても、未来の自分は信じるに値する。
 
                   *
 
 私は、自分のやるべきこともやらないでケチをつけることだけ一人前の人間が大嫌いだ。
 どっちかにすべきだ。やるべきことをやった上でケチをつけるか、もしくは何もしないでケチもつけないか。
 義務と権利は商品と代金の関係に似ている。先払いにせよ後払いにせよ、義務という支払いをせずに権利という商品を手にする資格はない。義務を全うせず権利だけを行使するのは泥棒行為に近い。
 権利と義務はいつだって等価なのだ。そのことを私自身忘れないようにしなければ。
 
                   *
 
 強者の論理をいかにして弱者に適用するか、というのも私がずっと考えているテーマの一つだ。
 強者の正論は確かに正しい。誰もがそのような論理で生きられたらこの世界はきっと素晴らしく優れたものになるだろう。けど、みんなそんなに強くないし、強くなろうとも思っていない。すべての人間に強者の論理を押しつけるのは現実問題として無理がある。
 だからといって最初からあきらめてしまっては、永遠に世界も人間も充分良くなることはない。だから、弱者もやっぱり強者の論理で生きなければならないのだ。
 そのためには強者の論理を弱者に合わせたものにしなければならない。栄養のある不味い食材を美味しい料理にするように。その料理法を私はいつも探している。
 まだ道のりは遠いけど、まだまだ工夫の余地はたくさんある。いつかは究極のメニューを編み出して海原雄山をぎゃふんと言わせてみせる。
 って、そうじゃなくて、いつかは誰でも美味しくいただける強者の論理を見つけ出し、差し出したいと思っている。
 
                   *
 
 どんな下らないことでも10年続ければそれは「何か」になる。
 それを死ぬまで続ければ「何者か」になれる。
 始めるのに遅すぎることはない、というのは嘘だけど、始めなければ永遠にゼロであることだけは間違いない。
 
                   *
 
 人は愛されるだけでは充分ではない。愛され続けなければ満たされないものだ。
 愛の言葉も一回聞いたくらいでは全然足りない。時と共にその力は薄れてしまう。愛の言葉を言い続けてくれないと不安になってしまう。
 愛も才能も美貌も、常に手入れをしないとすぐに色褪せる。大事なものは最大限の努力をもって守らなければ。そんなことは当たり前なのに。
 
                   *
 
 人間はトラブルを乗り越えるたびに成長して強くなる。「失敗は成功のマザー」、と長嶋茂雄は言ったけど、トラブルは有能な教師だ。答えを教えてくれるのではなく、答えを自分で導き出す方法に気づかせてくれるのだから。
 人は何度でも同じような失敗を繰り返すけど、たぶん同じ失敗というのはないと私は思う。二度、三度と失敗を重ねないと成功しないこともある。無駄な失敗など何もない。
 トラブルに遭遇したら、クイズだと思って挑戦するくらいの気持ちでいるといい。自分を試すチャンスだ。乗り終えられれば嬉しいし、次はもっと難しい問題に挑戦できる。
 人生はゲームだ。どうせなら楽しんだ方がいいに決まってる。生きることは絶対に面白いことなんだから。
 
                   *
                   *
                   *
 
 今日はややルーズな一日になってしまった。まあその分できたこともあるからよしとしなければいけないか。ビデオ、DVD、ゲーム、オークションなど。
 明日は今日ルーズだった分を取り返すためにもあれこれやらないと。熱帯魚の水換えをとっとと終わらせて、早めに家を出たい。
 
 そろそろ書く方も再開しなければいけないんだけど、当面の目標がないから具体的に書くことがない。でもそんなことを言ってると月日がズルズル流れてしまうだけだから、なんとか目標を見つけなければ。
 
 敦賀行きはやや雲行きが怪しくなってきた。叔父さんの調子がけっこう悪いらしいのだ。のんきに遊んでるのも気が引けるし、いつ向こうへ行かなければいけないか分からない。一応金曜日に行くつもりではいるけど、当日になってみないと分からない部分もある。まあ行ければ行ってしまった方がいいに違いないけど。
 
 ドリキャスの「マクロス」が終わった。かなり期待してたのに当ては外れた。ゲームとしては失敗だろう。
「マクロス」はゲームにするにはいい素材だと思うけど、今までで唯一成功したのはプレステの「マクロスVF-X」だけだ。あれはすごく出来が良かった。
 次はPS2の「電車でGO・通勤編」だ。オークションで落札したものが明日あたり届くだろう。最初にこのゲームの初代をやったのは何年前だろう? なんか久々にやりたくなった。いや、別に電車の運転手に憧れて白手袋して学校に行ってた、なんてことはまったくないです。車掌の帽子も持ってませんってば。切符切りのハサミも持ってないし、電車のプレートをかっぱらってきたりもしてません。だいたい私は時刻表の読み方だってろくに分からない電車音痴なのだから。新幹線の切符の買い方も分からないし。ただ、「電車でGO」がやりたいだけなのだぁー。
 
                   *
 
 人生を愛すことができれば人を許すことができる。そして、幸福とは許すことだ。
 幸福になりたければ、私を許すよーに。
 
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 今日のための言葉
 
「復讐する時その人間はその相手と同列である。しかし許す時にその人間は相手より上になる」
 
 フランシス・ベーコン

4月9日(月) 「幸福発不快行き特急」

 今日はなんといっても『サトラレ』だ。
 詳しい感想は「この一本」で書こう。
 
 もうひとつのトピックは同年代MLをやめたことだ。
 少し前、数ヶ月間半分眠っているこのMLを発見して、それを揺り起こし、ようやく目覚めかけたところで突如顔を出したオーナーからケチがついた。そして、気持ちがあっけなく切れた。
 今度こそ上手くやれると思ったのに、また同じような失敗を繰り返してしまった。進歩はいつも緩やかだ。
 けど、私は思う。MLにおいて大事なのは表面に顔を出している人間であってROMではない、と。オーナーはROMの意見や思惑よりも参加しているメンバー---所属しているメンバーではない---こそ大事にすべきなのに。
 けど、そういうことを書いても虚しいだけなのでMLには書かなかった。もうそれは昔さんざんやったことだから。やっても疲れるだけだと今は知っている。
 今回は頑張れなかった。このML参加は桜が咲き始める少し前に始まり、桜が散り始めた時終わった。あっけなく終わった恋のようだ。
 
 もうこうなったら自分がMLのオーナーになった方が早いかもしれない、と思い始めている。もうひとつの映画MLもオーナーが完全に管理を放棄してしまっている状態だから、そちらを引き継ぐ形で。そういう話も前から出てるし。
 MLというのはもっと自由で、もっと責任が重いはずだ。もうオーナーの中途半端な思惑や関わりに振り回されることに疲れた。
 でも私はMLが好きだ。メールでもHPでも得られない人と人とのつながりがあるから。
 まだ面倒だという気持ちが強くて具体的にやってみようとまでは思ってないけど、今回のことで本気で考えるきっかけになったことは確かだ。
 
                   *
 
 というわけで、今日は嬉しい気持ちと静かな怒りの気持ちが交錯する一日になった。快晴のち雷雨。
 でも、気分の調子は悪くない。精神的にも前向きだし、積極的に動こうという意志もある。これなら大丈夫だ。
 強い意志を持って自分を鼓舞すれば、今までできなかったこともきっとできるようになるだろう。
 今くらい精神的に充実していたら、たとえ町中でカツアゲされそうになっても撃退できそうな気がする。靴下に千円札を隠しておくまでもなく。
 
                   *
 
 さて、今後の予定だが、大阪の叔父さんの容態が気になるところだが……。
 とここまで打って大きな発見をした。というか、自分の間抜けさをまた一つ知ることになった。
 私は「容態」のことを今まで33年間「ようたい」だと思って疑ったことがなかった。だから、「ようたい」と打って変換したら「様態」としか変換されないPCに向かって、「なんだ、お前、バカァ! そんな字も知らんのかぁ!? VAIOめ、Windowsめ、一太郎め」と心の中で悪態をついた。そして辞書を調べた。馬鹿者は私の方だった。「容態」は「ようだい」だったのだ。知らなかった……。
 20代でこの手の間違いに気づいてもさほどショックではないのだけれど、30過ぎてこういう発見をするとかなり愕然としてしまうものだ。30年以上も自分は間違ったことを正しいことと思い込んでいたのかぁ。あああ。という気持ちになる。信じられん。
 でも実際はまだまだこういう間違った思い込みが私の中にいくつもあるに違いない。漢字だけではなく、一般常識だと思い込んでいることの中にも。
 30代でこのショックだから40代になるともっときついんだろうなぁ。うわー、助けてぇー。くわばら、くわばら。
 
 えーと、何の話だっけ? ああ、そうそう、大阪の叔父さんの容態、まで書いたんだったな。そう、容態は気になるものの、やはり遠出を決行してしまおう。今週の金曜日晴れることを願って、その日に行く。福井県の敦賀に。
 名古屋の桜はそろそろ散り始めて葉桜になりつつあるけど、あっちはまだこれからだろうからちょうどいいんじゃないか。まだ早いくらいだろうけど、あまりにもピークになってしまうと平日とはいえ混んでしまいそうだからその前に行かないと。
 明日から準備を始めよう。まずは洗車だ。今インテグちゃんは壊滅的に汚れきってる。あああ。
 
                   *
 
 自分で自分を幸福にすることはついにはできないのかもしれない。それが33年生きてきた今の私の結論だ。
 私は今までずっと、自分にとっての幸福とは何か、人にとっての幸福とはどういうことをいうのか、世界の幸福とはいかなるものか、ということを考えてきて、自分自身を最大限幸福にしようと努力もしてきた。
 けど、本当には自分で自分を幸福にすることはできなかった。何かが足りないのだ。満たされない。それも決定的に。
 そして気づいた、自分を幸福にするためには人を幸福にするしかないのだと。人の心を満たすのは、自分は誰かを幸福にしているんだという確信しかないのではないだろうか。
 あるいはそんなことを書くとすごく優等生的で胡散臭く感じるかもしれないけど、自分を本当に幸福にするにはそうするより他にないんだからしょうがないのだ。
 世界が幸福になるためには、人がそれぞれ自分の幸福を追求するのではなく、互いに幸福を与え合うことでしか道は開けないだろう。
 今の私はごく単純になるべく大勢の人の役に立ちたいと思っている。自分が一番得意だと思える方法で。
 
                   *
 
 人も世界もとどまることなく変わっていって、どんどん悪くなっていっているように見えるかもしれないけど、でも私はすべての変化は正しいのだと思う。一方的にどんどん良くなっているのだと信じている。駄目なのは動きが止まってしまうことだ。動き続けてさえいれば、いつか正しさに辿り着く可能性がある。止まらないように、止まらないように……。
 
                   *
 
 行為と人間性とでは、いつも人間性の方が先に来る。
 人間として正しければほとんどの行為は正当化され、人間として正しくなければ行為は罪とされる。
 たとえば、格好良くて内気な男の子が好きな女の子の家の前で何時間も帰りを待ってたらそれは一途と言われ、陰気で格好悪い男の子がそれをやればストーカーと呼ばれるし、ダンディな中年俳優が女の子の肩を抱けば「キャー」と喜ばれ、冴えない課長が同じことをしたら「ギャー」と叫ばれセクハラ呼ばわりされる。そういうことだ。問題は行為以前に人間性にある。
 では人間性とは何かといえばそれは、過去の行いの積み重ねに他ならない。良い行いをコツコツと貯金していくしかない。
 あるいは手っ取り早い方法が好きなら、何でもいいから有名人になればいい。そうすればほとんどの行為は正当化されるから。
 
                   *
 
 今日は『サトラレ』を観て優しくて幸福な気持ちで一日を終えることができると思ったのに、深夜になって思わぬ茶々が入って凶暴な気分になってしまった。
 でもまあこれも明日になれば落ち着くだろう。
 
 あ、そういえば昨日、近々海から昇る朝日を見に行くことにしたのだった。そろそろ夜明けも早くなってきたから、夜中に出て朝日を見て帰ってきても朝のラッシュに巻き込まれないですむだろう。深夜と早朝なら海まで片道1時間半くらいのはずだ。
 敦賀行きの後はそれで決定。4月中には行きたい。
 海も海に沈む夕陽もそろそ見飽きてきたけど、まだ海から昇る朝日は見てなかった。イメージしている青い夜明けというものを見ることができるだろうか。
 
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 今日のための言葉
 
「きみが500人に良いことをした時、その内のひとりしかそれに気づかなかったとしても、決して無駄なことをしたわけではない」
 
 オンクシェションクイ

4月8日(日) 「ご利用ありがとうございます、と誰にでも言えたらいいな」

 人は人を利用すればいい。人は誰でも、人の役に立ちたいとどこかで思っているものだから(本人は気づいていなくても)。そして、それが人の存在理由であり価値なのだから。
 愛の精神的メカニズムもそのへんにあるのだと思う。
 愛し愛され、利用し利用される。それでいいんじゃないかな。
 愛も幸福も奪い合うものだけど、それは見方を変えれば与え合っているということなんだし。
 
                   *
 
 人は泣く。それは愛を知っているからだ。愛を知らない人間は泣くことができない。
 そして、どんな涙も、そのわけは一つじゃない。悲しみと涙はイコールではない。
 涙を流せるうちは大丈夫。人として駄目になっていない。
 
                   *
 
 大切なのは想像力だ。
 それは、宇宙に思いを馳せるとか、歴史や未来を空想するとかそういうことではなく、たとえば、今の自分がどれだけ恵まれていて幸せかということを感じ取ったり、日頃世話をかけている奥さんの苦労を思いやって感謝の気持ちを抱いたり、そういうことだ。そのためにこそ想像力は必要なのだ。
 夕焼け空や桜を見てきれいだと思うのも想像力があればこそ。
 想像力がない人間は、どれだけ恵まれていても決して幸福にはなれないだろう。
                   *
 
 今日は早くもガソリンが切れた。今惰性で走っているだけで、もう少ししたら止まってしまうだろう。
 大して走ってもいないのに、どこでそんなにガソリンを使ったのだろう? 誰か私のガソリン抜き取りませんでしたかぁー? おかしいなぁ。
 まったく燃費が悪い。3時間寝れば24時間使いものになる脳が欲しい。どこかでチューンナップしたい。
 
 明日はよほど寝坊しない限りメンズデーに行く。やはり『サトラレ』にした。『ハンニバル』も始まったけど、特に思い入れもないし、これはビデオでいいや。
『スナッチ』も面白そうではあるけど、劇場でいち早く観なければならないってほどでもない。
 ということで、『サトラレ』に決定。なんか感動作らしいけど、よもや泣くことはあるまいな。コンタクトだから泣くと困るのだ。気を確かに持って臨もう。
 
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 今日のための言葉
 
「美しい花がある。花の美しさというようなものはない」
 
 小林秀雄

4月7日(土) 「絶望には猪木のビンタを」

 本当の豊かさとは何かを考える前に、豊かであることが本当に必要なのかどうかをもう一度考え直した方がいいかもしれない。
 私たちは豊かさを求めるあまり、豊かさの本質を見失ってしまった。にもかかわらず、豊かさにとりつかれている。恋をしている相手よりも自分の恋心に夢中になってしまっている人間のように。
 もう私たちは貧しさを必要以上に恐れることはないだろう。豊かさよりももっと他に求めなければならないことがあるような気がしてならない。
 
                   *
 
 喜びがあって悲しみがあるわけじゃない。悲しみがあって喜びがあるのだ。人間の基本的状態が満腹ではなく空腹であるように、人間の基本は喜びではなく悲しみなのだ。そのことを忘れないようにしなければならない。これは自分の人生を考える上でも、人を思いやる時でも、いつでも必要なことだから。
 
                   *
 
 人の才能が涸れていくのを目にすることはとても寂しくて切ないものだ。美人がだんだん歳を取って美貌が崩れてゆくのを見るように。
 小松未歩の4枚目のアルバムを聴いていてそんなことを思った。
 才能を持続されることは本当に難しい。ひとりの人を一生変わらず愛し続けるのと同じくらい。
 だから、一ヶ所にとどまらず動き続け、変わり続けるしかない。才能や愛が永遠にわき出る泉などこの世界には存在しないのだから。
 
                   *
 
 ある種類の人々にとって絶望というのはとても心地よくて安全な場所だったりする。何故ならそこにいれば傷つかずにすむから。希望を持たないことで自分を守っているんだから考えたらそれ以上安全なことはない。そして、そこから絶望の言葉を発して世界や人間の本質を見抜いた気になっている。おめでたいというか間抜けというか。
 とにかく、人間の本質が悲しみだったとしても絶望ではない。それだけは間違いない。人間は希望と可能性の存在だ。人には未来がある。絶望などしてる場合じゃない。希望を持って闘わなくてどうする? 人には明日がある。今日を絶望しても明日まで絶望する必要はまったくない。
 絶望していじけてる人間を全員整列させて、アントニオ猪木に端から順番にビンタしてもらえたら一番いいんだけどな。あれは痛そうだからちょっとは目も覚めるだろう。
 
                   *
 
 毎日もっといろんなことができるはずなのにできていない。毎日別の場所に行って、毎日違うことをすることも可能なはずなのに。
 それができていないのは意志の問題だ。意志が弱いからだ。強い意志を持っていればできるに違いない。
 何故私は昨日の自分の真似をしようとするのか? 同じ時間に同じことを同じ手順でやってしまう。人の物真似は詰まらないけど、過去の自分の物真似も同じくらい詰まらないことだ。
 連続する毎日の輪は自分で断ち切るしかない。もっと自由になるためには、過去の自分と今日の自分をつなぐ輪を切らなければならない。その輪はそんなにも頑丈ではないはずだ。
 
                   *
 
 私が映画やドラマを観たり、小説を読んだり、ゲームをしたりするのは、たぶん結末が知りたいからだ。私はいつでも物語の結末を探しているらしい。そのことにふと気づいた。
 映画や小説を一回しか観たり読んだりしないのは、繰り返す時間があった新しいものを観たり読んだりしたいからだと思っていたけど、むしろそれよりも結末を知っている物語にあまり興味が持てないからなんだ。そうか、そういうことだったのか。ひとつ謎が解けた。
 そして私は、ハッピーエンディングが好きだ。
 
                   *
 
 突然だけど、今の私は井川遙の猛烈なファンである。握手会が名古屋で開かれたら行ってしまいそうなほど。写真集を買ってしまうかどうしようか悩むほど。
 まだあまりメジャーではないかもしれないけど、アデランスのCMの女の子といえばああ彼女かと思う人も多いだろう。そう、彼女なのですよ。
 その井川遙がこの4月からNHKフランス語講座のアシスタント(?)になったことを知った私は、もちろん4月からNHKフランス講座をかじりつくように観ている。というか、ビデオに録ってさえいる。フランス語も勉強してしまっている。当然だろう。俄然フランス語熱が再燃した。おそらく1年間フランス語講座を必死に観てしまうであろう私は、来年の3月にはフランス語がぺらぺらになっているはずである。ジュ・デーム。
 もしかしたらこの日記もフランス語で書くことになるかもしれない。ジュ・スイ・ジャポネ。ジュ・マペール・マサユキ。オーララァ。
 ……。
 道は遠いけど頑張ろう。
 NHKよ、ナイスな人選だ。どうもありがとう。テレビ4台持ってるくせに1台分の受信料しか払ってないけど、これからもよろしくね。
 
                   *
 
 今日から平常通りに戻してあれこれやろうと思っていたけど、実際はほとんど何もできず冴えない一日になってしまった。HP作りが終わって時間はできたのに何故か無気力だった。根を詰めて作業していた反動がきたのだろうか。夏休みが終わって2学期の始めの頃はさっぱりやる気が出ないのと一緒かな(それとこれはちょっと違うような気がするぞ)。
 明日はどうするか。これといったイメージが持てないから明日も駄目かもしれない。困ったことに。でも、何か一つくらいは特別なことをしよう。日頃できないことを。
 明後日は久々にメンズデーで映画に行くことにした。ブラッド・ピットの『スナッチ』にしようと思っていたけど、『サトラレ』の方に心が惹かれている。やはり日本映画復興委員会長の私としては日本映画の観客動員数をひとりでも増やすためにこちらに行くべきだろうか。そして会員を勧誘で増やすのだ。うん、そうしよう。
 ということで、みなさんも観に行ってください。
 海も来週の後半で行けそうなら行こう。
 なんにしてもやりたいことは先送りせずにやれる時にやってしまわないと機会を逃しかねない。逃した機会は二度と戻らないものだ。行動の早さも大事だけど、その前に判断力を早くしなければ。それが行動につながる。
 さて、また明日だ。
 
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 今日のための言葉
 
「悪いことをしている限り、人は真面目で元気である。たまに良いことをすると、疲れて病気になる」
 
「マーフィーの法則」より

4月6日(金) 「完成、歓声、慣性、喚声、感性、閑静、乾性、陥穽」

 ようやく完成した。すべてのページを作り直すのは思った以上に大変だったけど、まあ正味3日だから早く終わった方だろう。これからは更新も管理も楽になるし、たとえ引っ越しするにしてもHP全体がPCの中に入っているから転送先を変えるだけでいいはず。よかった、よかった。めでたい、めでたい。
 これでとりあえずは完成したのだけど、まだまだホームページビルダーにはアニメGIFやスタイルシートやダイナミックHTMLなんかの機能があるから、これらも少しずつ使っていく予定。トップページはこれ以上重たくしないけど、遊びのページを作ったりもしたい。
 とにもかくにも完成して嬉しい。ほっとした。そして出来にも今のところ満足している。今回の表紙は、私がずっとイメージしてきたものに近いから。シンプルで、単純すぎず、写真を取り入れて、ページ構成が分かりやすく、一画面にほぼおさまる、という目標をクリアしている。
 今後はもっと複雑なものになっていくだろうけど、まずはここで私の目指すHPデザインの基本形が完成した。
 最初のものをドリキャスで作って一年半、続けていればたいがいのことは進歩するもんだ。
 
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 明日からはまた平常のパターンに戻す。あれこれうっちゃっておいたものがいくつかある。それらを再開しよう。
 それと、この引っ越しをあちこちに知らせないと。連絡が途絶えている人にも久しぶりにメールを出してみようか。
 あとは、オークションとゲームも少しはやろう。このへんも私にとっては必要不可欠なことで、少しずつでもやっていかないと前へ進んでいかない。何でもそうだけど停滞するとそれは死ぬ。水も動きが止まったら腐るように。
 そうそう、断想日記もきちんと書かないといけない。今日はもう気力が残ってなくてこれ以上書けそうにないから明日から。思考もしなくちゃね。
 
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 さて、今日はもう終わりだ。朝日が差してきた。今日は桜の周りに大勢の人間が群がり集まるんだろうな。
 桜って国民的アイドルのようで、ひねた私はなんとなく素直に好きって言えないところがあるんだけどーー誰でも多かれ少なかれそうかなーーそれでもやっぱり魅力的で好きにならずにはいられない。悔しいけれど。
 
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 今日のための言葉
 
「人間が生きるということは、徐々に生まれかわることである」
 
 サン=テグジュペリ

4月5日(木) 「終わるかと思ったら終わらず。肩凝りがぁ」

 今日で完成させる予定だったのに、映画のページだけで一日が終わってしまった。なんてこった。テーブル(表)の中にタイトルや監督名をいちいちコピー&ペーストしなくてはいけなくて、その作業にやたらめったら時間がかかってしまったのだ。あああ、肩凝りがぁぁぁ。
 明日もう1日かけて本コーナーをやらないといけなくなった。けど明日は長い時間できないから、もしかしたら明後日までかかってしまうかもしれない。他のいろんなことがおろそかになってるからいいかげん終わらせたいんだけど。思考もほとんどしてないし。
 まさかこんなにかかるとは思わなかったな。まいった、まいった。
 とはいえ、いったん作ってしまえばホームページビルダーは管理がすごく楽なんで、これからは楽できるはずだ。デザイン変更も今までよりずっと簡単にできるし、将来的に見てこの切り替えは大成功だったと言えるだろう。
 先にHTMLのタグを覚えてその後ホームページビルダーに移ったというのも正解だった。ビルダーで作ったものをHTMLで直接微調整できるから、タグの知識も多いに役立つ。無駄じゃなかった。

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 今日の「金八先生」は、まあなかなか良かったんじゃないか。あまりにも強者の説教がいただけないものの、熱意でその誤りをねじ伏せてしまうあたりに金八っつぁんの正しさがある。
 昔の映像が流れたシーンは懐かしかったな。加藤優と今は亡き沖田浩之が大暴れしてたシーン。
 ま、それも今昔物語か。

 さて、時間切れ。また明日だ。

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 今日のための言葉

「幸せにバラバラになってゆくのが家族ってもんですよ」

 ドラマ「金八先生」より

 4月4日(水) 「作業は続くよどこまでも?」

 リニューアル作業はまだまだ続く。
 今日は写真コーナーを主にやる。朝になってなんとか完成。前のジオと無理矢理リンクさせている部分もあるんで完璧とはいえないけど、これ以上は大掛かりになりすぎるから、もうこれでいい。まあおいおい整理していこう。
 プロフィール・ページとリンク集のページもやった。こちらは特に問題なし。

 ホームページビルダーは慣れてくるとなかなか使いやすくて良くできたソフトだということが分かってくる。よく考えられている。
 ただ、そこまでいくまでが大変。ああ、しんど。
 振り返れば今日もほとんど一日中作業をしていた。それだけ面白くなってきたということだろう。
 明日は映画と本のページをやる。この作業もかなりしんどそうだ。一日では終わらないか。
 なにはともあれ完成まであと少し。頑張ろう。

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 今日のための言葉

「9歳はもう子供じゃない!」

 映画 『運動靴と赤い金魚』より

 4月3日(火)「突然分かったホームページビルダー」

 今日になってふいにホームページビルダーのことが分かった。感覚的に。
 それで、嬉しくなって夜中ずっとやっていた。ようやく表紙が完成。でも、まだまだ中身も全部やり直さないといけなんで、完成までは遠そうだ。明日からも引き続きやっていくことにしよう。
 今日はこれで時間切れ。

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 今日のための言葉

「あなたに一日会えないと 人生にはぐれた そんな気がしてた」

 キタキ・マユ(岡崎友紀) 「ドゥー・ユー・リメンバー・ミー」


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