英国情報−英国本を読む−英語全般

『「英文法」を疑う』

松井力也


講談社現代新書
 英語(英文法)について書かれた本は、現在もうそれこそ雨後の筍の数億倍ぐらい有ると言われているが、この本は類書中の白眉だと思う。いや類書というものが、そもそも有るかどうかも分からないぐらい、かなり独創的な内容で、最初に読んだ時には、目から鱗が落ちまくって困ったぐらいだ。

 この本の著者である松井氏は現在、私の母校である三重県立桑名高校で教鞭を取られている現職の英語教師である。最近赴任されたそうなので、当然私などは直接薫陶を受けた訳ではないし、本書も書店の店頭で偶然見付けたにすぎないが、こんな先生に教わる生徒達は幸運だなと羨ましくも思ったりする訳です。

 さて、その著者が先ず言うには、日本人は絶対的に英語に向いていない、やってやれなくはないけれども、「もしやらずにすむのならやらない方がいいような類のもの」(4頁)に思えてしょうがない、と。いきなり現職の英語の教師がこんなことを言い出すものだから、何だこの本は?と思ってしまったら、もうあなたは(私もだが)著者の術中にはまっている。だからと言って、本書は英語を憎み罵り、英語をやらずに済ますための本ではない。つまりは、そういう自覚を持った上で、英語に取り組み、日本人にとって何故英語は相性が悪いのかを考えながら、英語を理解していこうとする本なのだ。だから、「国際化には英語が必要だ」的な浅薄なハウツー本とは明確に一線を画しており、かなり特異な存在である。

 本文では、名詞・代名詞・動詞…と品詞別に、如何に英語と日本語が相性が悪いか、ということを順次解説していく。本書の全体を貫く精神は、英語の論理を日本語の論理で読み解かなければならない「英文法」というものから自由になり(否定する訳ではない)、英語のどの辺りが日本人に分かりにくいのか、更に言えば英語話者の物の考え方というものを覗いてみようという試みである。著者によれば、英語話者が英語によって構築した社会をそのまま捉えるためには、「beautiful=美しい」式の、英語に日本語を対応させる考え方から脱しなければならないのである。

 そして最も大事な概念が、英語は世界を「モノ」的に捉え、日本語は「コト」的に捉える、という点である(49頁)。これは英語(と日本語との差異)を考える上で非常に有益な概念だと私も思う。この考えを前提にして英語を考えると、今まで理解出来なかった(無理矢理理解してきた)ことが分かってくる。

 例えば、日本人がよく間違える否定疑問文について考えてみよう。私もこれを間違えて英語話者に怪訝な顔をされた経験がある。「朝食を食べなかったのですか?」「はい」を英語にすると、つい"Didn't you have breakfast?" "Yes"としてしまうのは何故か?著者の解説を引用させていただくと、

日本語は全てを「コト」として捉えますが、英語は「モノ」として捉えます。それが「事」であれば、「ないコトもある」んですが、「物」だと「ないモノはない」。日本語なら、「食べなかったというコト」も「ある」わけですけれども、英語は、その問いの形にかかわらず、食べたのならyes、食べなかったのならnoです。ということは、つまり、yes、noは、肯定/否定を表すのではなく、アル/ナシを表しているだけなんです!(51頁)
 という訳で、問いが肯定だろうが否定だろうが、食べたという行為が有ればyes、無ければnoになる訳で、have breakfastという行為ですら、モノのようにその有無が理解されているということになる。序でながら、noが「無い」という意味であることは、"I have no money."等の例からも納得が行く。

 本書の中の、もう1つの興味深い点は、英語では主語だけが世界を動かす、という考え方。日本語の一人称には様々有るが、英語では常に"I"だ。これは相手や場を前提としない絶対的な存在としての自分である。その自分"I"は「その一瞬間においては世界の中心となって、これから世界に対し何らかの作用を及ぼすことのできる能動性を内在した」ものである。よって「英語でI...と口にしようものなら、わたしたちは、たった一人で世界の中心へ放り出され、一切の責任を負わされてしまいます。」(75頁)こんなことを言い出す英語の本には今までお目に掛かったことがなかったので驚いた。この違いは英語話者の個人主義的傾向と、日本人の和を重視する傾向と関連があるのではないかと著者は述べているが、確かにそんな気もする。何故ならば、日本語の数多の一人称のうちどれを使うかは、自分が何者であるかということに加えて、相手が何者であるか、という点も考慮して決定されるからである。

 とこんな調子で他にも仮定法や完了形についても解説がされているので、特にその辺が苦手な人は読んでみられることを薦める。私も今まで曖昧に理解していたことが補強されたように思う。でもまあ、英語が得意な人も苦手な人も好きな人も嫌いな人も、読んで損は無い本であることは間違いない。

 尚、本書の記述の中では多少説明が強引な点も無い訳ではない。例えば、be動詞の説明の中で、二人称の"you"と三人称の"he"とがbe動詞が"are"と"is"と別れることによって、モノとしての存在の有り様が区別されている、との件が有る。対話の対象としてのyouを会話外のheと区別してisではなくareとするという説明はそれで分かるのだが、三人称の複数の場合も"are"になることをどう説明していいのか分からなくなってしまう。どうすればいいの?

 又、英語に関しては本書のようなことが言えるとしても、それが英語だけに限らなくて、例えばドイツ語にも言えるようなことが沢山有るような気がする。更に、英語話者の思考方法に関しては、哲学とか文化人類学の方面の人々には不満が残るかも知れないが、ともかく英文法に関する限りにおいては楽しい本である。

《著者略歴》

松井力也(まつい・りきや)
昭和42年、三重県津市生まれ。
平成2年、早稲田大学第一文学部卒。大学在学中より「rockin' on」等の雑誌で音楽評論・レコードレヴューを執筆。卒業後、高校の英語教諭に。現在、桑名高等学校勤務。

【評価】最高。絶対に読むべき。


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