英国情報−生活全般関係

「フルハム」か「フラム」か


 サッカーの稲本潤一が英プレミアリーグで所属するチーム"Fulham"の日本語での表記が揺れている。

 具体的に言うと「フラム」と言うところと、「フルハム」と言うところがある。どちらが多いかというのは、はっきりとは分からないが、私の見聞きする範囲では一応「フラム」の方が少し多い気がする。だが、当のFulham Football Clubの公式サイトの日本人向けページには「フルハム」と書かれているではないですか。
 単語の綴りを見た限りでは「フルハム」と言いたくなる気もするが、現地での発音を聞いてみると「フラム」の方が圧倒的に近い、と言うか「フルハム」とは決して言っていないことが分かる。だから、「フラム」の方が現地読みに近いと言える。
 よって「フルハム」は間違いで「フラム」にしよう、と言ってしまえば本稿もここで終わりだが、物事はそう単純には行かない、というのが本HPの基本姿勢なので、もう少し論を続けることにしよう。

三浦良枝
 因みに、私がこの「フルハム」の表記を初めて見たのは、ロス疑惑で登場した三浦良枝氏のお店「フルハムロード良枝」であった。「フルハム」という名前を見て、懐かしくこのお店を思い出してる人は多いのでは?言い忘れたが、「フラム」と言うのはロンドンの地名で、フラムロード(Fulham Road)も実在し、洒落た小物を扱う店が多いということで日本人にも買い物目当てで来る人が多い。

 閑話休題。 "Fulham"の"ham"と言うのは古英語で「住居、居住地」を意味する接尾辞のようなもので、英国の地名にはよく登場する。現代英語では"home"に通じる。
 同じプレミアリーグには"Tottenham" というチームがあるが、これを「トッテンハム」と表記している例は殆ど見掛けないし、"Buckingham"や"Birmingham"を「バッキングハム」「バーミングハム」としている例は無いだろう(米国アラバマ州の都市"Birmingham"は「バーミングハム」と呼ぶ方が一般的)

Graham Coxon
 人名で言えば、日本でも有名になったイングランドの主将ベッカムは、"Beckham"と書くから、フルハム方式に従えば「ベックハム」と表記すべきなんだろうが、そんなことを言ってる人はいない。これらのことからも「フラム」が適当であることが分かる。あと"Graham"という名前の人は、「グラハム」と言われるが、これは「グレアム」と言う方が現地語に近い。グラハム・ベルとかグラハム・ハンコック(『神々の指紋』の著者)とかも、本当は「グレアム」なのではないだろうか。一方、正しく「グレアム」と言われているのは、グレアム・グリーン(『第三の男』の著者)やグレアム・コクソン(ブラーのギター(今のところ?))等である。これらの人々はみんな名前は同じ"Graham"であるが、このような違いが生じていることは興味深い。

 ではなぜ"Fulham"だけが「フルハム」という綴りに引きずられた表記が蔓延ってしまったのかということだが、それはよく分からないので識者の方からの情報を求めたい。

 それはさておき、「フラム」の方が適当と言っても、問題はそこで終わりではなくて、どこまでやるか、ということだ。つまり、耳から聞いた発音をどこまで日本語の表記に反映させるか、という問題である。

 例えば、"London"は誰もが「ロンドン」と表記するが、実際の発音をよく聞くと「ランドゥン」と記すのが一番近い。英国人に「ロンドン」と言って通じなくても、「ランドゥン」と言えば、"ああLondonね"と分かってもらえるかも知れない。じゃあ、「ランドゥン」と記した方がいいかというと、これは長年の慣行があるから、急に一人だけ「ランドゥン」と書いても、相互理解に支障が出てくるから現実的ではない。同じように、"Australia"を「オーストレイリア」とか、"NATO"を「ネイトー」等と書いてもしょうがない。

 かと言って、実際に発音する際に近い表記の方が望ましいではないか、という理念も一方で存在する。だから"London"を「ロンドン」と発音するのが「英語」だと思っていると、英国人との会話で「ロンドン」と言ってしまいかねないので、別に「ランドゥン」という発音を英語として覚えなければならない。だったら、最初から「ランドゥン」でいいじゃないか、だって英米では「ランドゥン」と言ってんだろ、というのは、本稿の冒頭に記した「フラムの方が適当」という論拠と実は同じなのである。だから「フルハム」は間違いと言うならば、「ロンドン」だって間違いだ、ということになる。

 だから、物事はそう単純ではないと言いたかったわけである。綴りに引っ張られて、本来の発音と離れた表記になってしまうというのは、なまじっか綴りを知っているから起こってしまう事態であるとも言える。

 例えば、明治初期、横浜の車夫は"red"を「ウレ」と聞き取っていた。Rの前には口を窄める、最後のdは殆ど聞こえないから、「ウレ」というのは結構近い。残念ながら「ウレ」は定着しなかったが、"American"の「メリケン」、"machine"の「ミシン」はすっかり定着している。(「街角のイギリス英語」大村善勇)
 映画「男はつらいよ〜寅次郎春の夢〜」では、下宿している米国人マイケルを周囲の人は「マイコさん」と呼んでいる。これも純粋に耳から聞いた結果であるし、そのことが英語・外国人と縁のない下町の人々という特徴を描き出すことに成功しているのである。

 所詮、外国語と日本語は違うのだから、日本語ではどうやって表記しても構わないと達観するのか、なるべく近い音を表記した方がよいとするのか、その鬩ぎ合いの中から、ある一つの表記が生き残って人口に膾炙していくことになる。「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」という斎藤緑雨の有名な川柳があるが、これはドイツの詩人"Goethe"の表記が揺れていたことを示している。綴りからすれば「ギョエテ」の方が近いのだが。

金日成
 また、今回の問題となった"h"の音の連音化(Fulham → Fulam)という問題は、朝鮮語でも起こる。朝鮮語では、終声(パッチム)の後に母音やhの音が来ると連音化するのである。例えば、キム・イルソンは本来は「キミルソン」と発音すべきだし、銀行を意味する「ウンヘン()」は「ウネン」と読むのが正しいことになる。でも、日本語では常に「キム・イルソン」とか「キム・ヨンサム(本来は「キミョンサム」)」という表現で一貫しているし(最近「きん・にっせい」は聞かない) 、現地では「キミルソン」なのだから「キム・イルソン」は間違いだ、という声も聞かない。

 更に言えば、連音化は何も外国語に限ったことではなく、日本語でも立派に存在する。「天皇」「反応」なんかは連音化の好例だ。「てん」と「おう」だから「てんおう」だ、と外国人に言われれば、「そうは言うても、こういう場合は「てんのう」と読むんじゃい」と言い返したくなるだろう。

 というわけで、英語の固有名詞をカタカナ表記する理念はなかなか難しく、現代日本で広まってる外国の固有名詞を見ても、何らかの法則性は見出すことは難しい。原音に近い表記にしても、綴りとかけ離れていると定着しないこともあるし、その逆も有り得るのだから、結局は何が流行るか分からない流行歌の世界と同じようなものなのかも知れない。

 


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