御陵巡り

「御陵」とは?


「御陵」。

恐らく大多数の人は「御陵」という言葉を見ることも発することもなくその生涯を終えるに違いない。ここでは、改めて「御陵」について説明しよう。

「御陵」というのは、有り体に言えば、歴代天皇陛下のお墓である。普通は「天皇陵」という言葉が使われるが、ここではより親しみを込めた呼び名である「御陵」という言葉を採用している。私も最初は「天皇陵」という言葉を使っていたのだが、とある天皇陵の近くで地元の人と話した際に、その人が「〜天皇陵」というある種無機的な言葉ではなく、生活に密着したような近しさを持つ響きの「御陵」という言葉をごく自然に使っていることに気付き、爾来「御陵」という言葉を使っている。人と地域によっては「御陵さん」と呼んだりもするらしい。

「陵」とは「みささぎ」と訓読みする。皇室典範第27条では「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵、その他の皇族を葬る所を墓」とするとの規定がある。よって天皇以外の方も意味としては含むが、このコーナーでは基本的に天皇陵以外は扱っていない。理由は、単に切りがないからというだけのこと。

陵墓全体では、参考地を含め、全国で約900ヵ所在る。そのうち240基(墓を数える単位は「基」です)が所謂「古墳」に該当する。江戸時代には、古墳は手入れされることな忘れ去られて荒れ果てていたものも多かったが、江戸幕府により何度か山陵探索が実施され、元禄12年(1699年)には『歴代廟陵考』にまとめられている。また享和元年(1801年)には、寛政の三奇人の1人である蒲生君平が全国の御陵を踏査して『山陵志』を著した。この書物の中で初めて「前方後円墳」という言葉が使われている。こうした治定作業は明治時代にも続き、明治22年には最後の治定である「顕宗天皇陵」の治定が行われた。治定とは、そこにある古墳が誰を葬った墓所であるかを決めることで、逆に言うと治定されるまでは、誰の陵墓か分からないという心許ない状態にあることになる。実際、ここは誰の陵ということに一応決まってはいるが、考古学的な発掘等から明らかにちゃうでという陵墓も実は結構有る。例えば、最大の古墳は昔は仁徳天皇陵と相場が決まっていたものだったが、どうもほんまに仁徳天皇の陵か怪しいということになってきたので、ここんとこ括弧付きの「仁徳天皇陵」とか地名を用いた「大山古墳」という呼び名の方が主流である。とにかく信憑性に疑問が大有りという事態となっており、宮内庁に「治定替え」を求める声も考古学者からは挙がっている。

更に言うと、実在が疑われている天皇(「欠史八代」とか)の陵墓も在ることを考えると、怪しい限りだが、このコーナーでそういうことまで言い出すと、これまた切りがないということで、宮内庁の治定に従った記述とすることにします。尚、北朝の天皇も含めていますが、熊沢天皇は除外しています。

さて、古墳と言えば前方後円墳。大型前方後円墳は現在30基が残っているが、うち24基が天皇陵古墳と治定されている。これらは、古墳時代や古代国家成立の研究に欠かせない資料として重要視されているが、宮内庁は、これらを天皇の祖先の墓として、文化財とは認めておらず、考古学研究者による発掘調査が出来ないのが現状である。本当は中を発掘すれば、誰の陵かよく分かるんだろうけれど、なかなか難しい。御陵には全て宮内庁の立て札が有り、参拝者の行動を戒めている。

例 神武天皇陵の立て札

一、みだりに域内に立ち入らぬこと
一、魚、鳥等を取らぬこと
一、竹木等を切らぬこと

文言は全ての御陵に共通。


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