筑後川改修記念碑に思う  今村瑞穂 トップページに戻る  目次に戻る

                                 筑後川改修記念碑にまつわる後日談があります  

私の生家は筑後川の北岸、久留米市宮ノ陣町にある。昭和28年の大水害で破堤した場所、今は久留米市百年公園となっている場所の対岸に当たる。今でも勤務の合間には、ここを訪れ、野菜作りに精を出している。この久留米市百年公園の西の端に四つの記念碑が建てられている。もともとは別の場所にあったものを28災後の筑後川改修に関連して、昭和60年ごろ、この場所に移設されたものである。
 ひとつは筑後川改修記念碑、もうひとつは餘澤千歳、と記されている。残る二つは佐々木正蔵、田中新吾と記された改修に関する功労者の銅像の台座のみが残っている。おそらく、主体となる像の部分は戦時中に徴用され台座だけが残されたものと想定される。

この2つの碑には明治時代に始められた国直轄による筑後川改修工事に関わるいきさつが記述されている。

いずれも漢文で記述されているからすぐには読解することは困難である。私は建設省に在籍し,昭和62年から平成元年にかけて筑後川工事事務所に勤務する機会を得た。そのとき、たまたま、この漢文を現代文に訳した文献に接する機会を得て、この顕彰碑の表現内容を理解することが出来た。同じ筑後川改修の経過を記したものであるが、その切り口の違いによってその内容の隔たりに驚かされたことを記憶している。

まず、筑後川改修記念碑について紹介する。

 筑後川に南面して建てられているこの記念碑は、明治維新後初めて体系的に国家の手によって遂行された筑後川治水工事の概要を伝えるもので、建立は明治36年12月と記されている。石材・石工とも大阪で調達され、瀬戸内海を運んだといわれる。

    筑後川改修記念碑

 筑後川は,源を熊本県阿蘇郡葛師嶽に発し、豊後日田で玖珠川に合流したあと筑前・筑後を貫いて流れ、筑後三瀦郡久間田村村で海こそそいでいる。その流れは延長35里、灌漑面積は3万1000町歩で、改修工事は明治36年5月に完了した。その経費は267万円余りで、治水工事としては大事業であった。

 一体に水の恩恵は広大なもので,万物はこれによりはぐくみ育てられる。しかし・一度大雨が長く降り続くと河川は増水して荒れ狂い,堤防を破壊して全ての物を流失させ,残虐この上ない結果となる。

 筑後川の決壊については,中古以前のことはさておき,文政8年(1825年)から慶応2年(1866年)の間に12回おきている。最近、最も激しいのは明治22年であった。沿岸の地である久留米・佐賀二市をはじめ日田・朝倉・浮羽・三井・三瀦・三養基・佐嘉・神崎の8郡はまさに一大湖となり,被害者の救援はひどく困難を極めた。こんな事情から筑後川改修は必須のものとなったわけである。

 朝廷では既に早くから国内の大河川,利根・木曾等の改修を決定し、どちらも工事を始めていた。この筑後川では16年に測量を開始し,17年には福岡・佐賀・熊本・大分4県にわたる河川土木を直轄事業とし,事務所を久留米に置き,技師を派遣して監督させた。次いで19年に土木監督署が設置され、翌年4月から工事に着手された。明けて21年5内務大臣山県有朋伯が工事巡視にやってきた。その後27年,署が熊本に移され、翌年には事業拡張策が立てられ,31年、さらに、福岡に署を移し,ついに工事の竣工が見られたのである。この間、内務大臣は引き続きこの工事に尽力し、土木局長西村捨三も技師の指揮と関係者に対する奨励努め、工事の成功に大きな力となった。

 技師の言によると,水の流勢は山が迫っておれば狭く、平坦な野では広く流れるものである。広い流れは、氾濫しやすく、狭い流れは荒れやすい。水門や堰によって流れを緩やかにしたり、また激しくするのは水勢を平均するためである。袋野・長野・山田・床島など堰や千栗の堤防などの工事が昔からなされているが,この度の新規工事は,迂回した流れを直にし、4カ所の放水路と、逆水防止のための6カ所の水門を,設け、もとからあった荒籠をとり除いて護岸工事を行い、川幅を広めて氾濫に備える等に主眼があった。 34年に再び、長雨が降った時、水位は昔に比べて最高であったが,被害は全くわずかであった。これによっても改修の効果を知ることができよう。また,昔は各藩が対立し,隣藩に水が流れ込んで自分の藩は被害がないように考えていた。今はそのような悪弊はなく.むしろ協力こそが互いの利益につながることを知った福岡・佐賀の両県人は種種の意見を出し合い、金や物を投げ出して改修費の半額を負担したのである。
 昔の優れた人は水を防ぐことを敵を防ぐことになぞらえたが治水工事は人の和なくしては不可能である。人の和こそ国家の基礎である。今日見られる協和の精神は、まったく聖主の教化によってみちびかれたものである。

          昭治36年歳發卯冬12月」

上の碑と並んで「澤千歳・彰功碑」というのが明治39年に建てられている。この碑は、前の碑だけでは筑後川改修の大事業、特に筑後川沿岸町村の有志たちの献身的努力の経過を物語るに不充分であるために.この事業推進の中心人物の一人.現在の小郡市味坂出身の田中新吾(県会議員〉が委員長となって建立したものである。
 「彰功」とは碑文の主内容が筑後川治水事業の先覚者田中政義翁(旧三井郡北野組大庄屋、1815〜1921年)や、その他数名の功績を主として述べていることにかかわるものである。

   澤千歳

日本の大河として、東に阪東太郎(利根川)があり、西には筑紫次郎(筑後川)がある。筑後川は源を熊本県に発し、豊後・筑前・筑後・肥前を貫流し、276流の枝川の水を集めて海にそそいでいる。

その延長は35里(約140km)、流域面積は184方里(約2880平方km)におよんでいる。川の流勢は、筑後に入ると広くゆったりと、いかにも両岸の広大な土地を潤すような趣を呈している。しかし、屈曲の甚しい処では、大雨が永くふり続くと洪水となり、氾濫した水は小さな山や丘をものみこみ、一帯は見渡すかぎりの沼沢となる。とくに三井郡はその中心地で全郡民が永い間くるしんできた。

 文化年間(1804〜1817)、この郡に楢原平左衛門(今山村庄屋)という者がいて、はじめて治水策を考えてこれを主唱し、しばしば藩庁へも建言した。これは大きな土木工事であるため、事業に着手するのが容易でなく、そのうち彼は死没した。

 田中政義翁はこの平左衛門の外孫であった。祖父の意志をつぎ、治水の事を自分一生の任務と考えていた。翁は日本国内を歩きまわり、地形をいろいろと考案し、川を上下してその水勢を詳しく測定するなど、ときには寝食を忘れるほどの熱心な調査を続けた。

 嘉永3年(1830)大洪水がおきた時、翁は藩当局を説いて治水の策をたてるように要望するとともに、現場の救済活動に力をつくして村民の利益に奉仕した。このため、藩では治水係役人をおいてその方法を研究させたが、翁は川流模型をつくって治水工事に関し具体的意見を述べ、聴く者すべて翁の考えに賛同したのである。

 同6年、藩では翁に意見を正式に上申するよう命令した。そこで翁はつぎの3条の方策を建白した。

第一に筑後川に3放水路を開設すること。第二に川幅を拡げて水の積圧を減少すること、第三に荒籠を取り除いて水流を順調にすることであった。しかし藩庁では、巨額の経費が入用であることを心配してなかなか決定にいたらず、そのまま数年を経過するうちに明治維新となり、すべてが新しく出発したため以前からの事は打ちきられてしまった。
治水事業も同様であったが、田中翁の志は前よりも強固であった。

 その後明治11年、ふたたび洪水がおとずれた。翁はまた氾濫地方を奔走して水害除去に努力した。

 この年、福岡県庁では翁の治水策が大いに用いるべき方式であることを認め、その意見を提出させた。この頃、水害は毎年の事となり、耕地の荒廃はひどい状態であった。

 このため、13年に三井郡大会が開かれ、陳情委員が選ばれたが、翁もその人選中にあった。さっそく、県令に従って上京し、内務省に出むいて懇願した。まさに声涙ともにくだる真剣な陳情に当局も心を動かされ、ついに技師を派遣して沿川の地域を測量させた。これでようやく翁の年来の志が実現される糸口が開けたのである。

 明治17年、政府は河川の制をしき、久留米に土木監督署を設置し、石黒五十二技師に筑複・川改修を担当させた。技師は3年にわたる調査のあと、19年、ついに計画を決定した。

 その案は、田中翁が嘉永年間に工夫したものとほとんど同じであった。このため人々は翁の識見の高さにますます敬服したのである。

 これよりまえ、県庁は土木制度改正案を県会に提出し、これを審議させていた。この改正案によると、予算関係において筑後川改修工事費がその大部分を占めることになっていたため、県下の三州(豊前、筑前、筑後)はたがいに利害を異にする結果となり、議論入り乱れてまとまらなかった。当地方選出の議員田中新吾・佐々木正蔵両氏は、あくまで剛直な態度で県の原案を終始支持していた。すでに政府の方では改修工事費の県分担(半額は沿川地域負担)を命令していたが、県会では、工事のやり方が当を得ていないという理由でこれを議決しなかった。

 当時の福岡県知事は安場保和であったが、被は聡明・果断な性質で、県会の否決は時の政治的任務を妨害するものと見なし、原案を固執してゆずらなかった。ついに知事は政府へ申請をおこない、同時に田中・佐々木両氏も上京して陳情につとめた。この結果、政府は知事申請を容認し、20年4月から改修工事に着工したのである。

 その後、佐々木氏は衆議院議員に選ばれ、国会で河川改修の急務をとき、一方、田中氏も県会議員として議会で土木制度の改善に努力した。この結果、24年に土木制が改正され、25年には筑後川の総工事費はすべて県負担となった。ついで29年、改修区域が大拡張され、その費用は政府予算に組み入れられた。

 これらはみな佐々木・田中その他の諸氏の尽力の賜である。36年に至って工事はついに完成し、全郡民は生きかえったような思いをすることができたが、田中政義翁の多年の念願もここに始めて達せられた。この年の12月、政府から翁に藍綬褒章が贈られ、その善行が表彰された。人々が心から喜んで言うのには「堤防を整備してこれに水流を通し、洪水を一掃して農業を勧め、今日の安らかな生活を私どもに与えたのは田中翁やその他の諸氏である。その功繍と思徳は永遠に記録されるべきである」と。 そこでみなが協議し、碑を筑後川の水辺に建てて後世の人たちに伝えることにした。これからのち、筑後川の洋々たる流れを見るとき、あわせて田中翁など諸氏の功徳を思いかえさねばならない。

 以上、役所の目から見た筑後川改修の経緯と地元から見た筑後川改修の経緯について紹介した。これが同じ筑後川改修の経緯を記述したものかと疑いたくなるほどの隔たりようである。

どのように隔たるかはこれを読まれた諸氏の判断に任せることとするが、長い間公共事業に携わってきたものとして、この視点の違いには少なからずのショックを受けたものである。昨今の公共事業に対する批判はこのような施行者と地元受益者の視点の隔たりに起因しているのであろうと実感した次第である。

 私は、10年ほど前にある公益法人のホームページに「筑後川の成り立ちと農業生産物について」と題する拙文を投稿した。内容は、「筑後の成り立ちはそこに生育する産物によって類推することが出来る。」と言った意味のことをとりまとめたものである。        http://www4.ocn.ne.jp/~n-river/jouhou01-1.html

2000年の還暦同窓会の折り、このことを何人かの友人に紹介したところ、「ふるさとの成り立ちが判って懐かしく興味深く読んだ。」と言った意味の便りを寄こしてくれた友人も居て嬉しかった。

平成16年の暮れ、34回生の同窓会の折り、デジカメの写真を撮り、それを何人かの同級生に送ったところ、小郡市味坂出身の飛永(旧姓佐々木)桂子さんから以下のような意味のメールをいただいた。

・・・・・・“私の曾祖父は「佐々木正蔵」と言い、筑後川改修に命がけで取り組んだ人で、百年公園に設置されている筑後川の顕彰碑にこのことが書いてあります。このようなことから、「筑後川の成り立ちと・・・」は興味深く、友人からコピーをいただき読ませていただきました。”・・・・・

このことがきっかけになり、もう一度古い文献を引っ張り出し、読み返し、整理をして34回生のホームページ開設に当たり皆さんに紹介する次第である。


   
 筑後川改修記念碑に思う 後日談     今村瑞穂(9)   平成21年11月
 
 「筑後川改修記念碑に思う。」と言う拙文をリリースして4年近くが経過したことになります。全国いろいろなところからアクセスを頂き情報の拡がりにあらためて驚かされたところです。
 そのいくつかを後日談として紹介いたします。
         
     目  次

 その−1.佐々木正蔵の銅像

 その−2.国土交通省筑後川河川事務所からの問い合わせ。

 その−3.田中政義翁の子孫からの便り



その−1.佐々木正蔵の銅像



 この拙文(筑後川改修記念碑に思う)の冒頭に
「.....。 残る二つは佐々木正蔵、田中新吾と記された改修に関する功労者の銅像の台座のみが残っている。おそらく、主体となる像の部分は戦時中に徴用され台座だけが残されたものと想定される。.....。
 と、銅像のない台座を紹介しています。
 ある時、同級生の飛永さんから「銅像の写真がありますよ。」との情報を戴きました。是非見せていただきたいものと思っていたところ、快く提供をしていただき、スキャナーでコピーすることができました。
 佐々木正蔵の銅像は予想したとおり戦時中の物資不足の時代、昭和18年に戦時物資として強制徴収の対象になったとのことでした。
 郷土の発展のために尽くした功労者を顕彰しようとする地域の人々の畏敬の念までも踏みにじられた殺伐とした時代を象徴するような寂しい出来事といえるでしょう。
 ただ、このような中にあって、その台座とそこに刻まれた顕彰文がかろうじて保存されていることは微かな救いといえるのかもしれません。
 あるとき、仲間と改修記念碑について話をしていたところ「銅像の写真を見てみたい。」との申し出がありました。
 ご了解を戴きここに紹介をいたしたいと思います。

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  佐々木正蔵の銅像(久留米大橋の南詰めと想定)

 取り壊される銅像とそれを見送る佐々木家の人々(昭和18年)

             佐々木正蔵翁

   佐々木正蔵の銅像は何処にあったのか?

 筑後川顕彰碑は昭和62年、久留米市制100年を記念して設置された久留米100年公園に移設されていますが、それまでは何処に設置されていたのでしょうか? この疑問に対して下の写真と地図がこたえてくれていました。
 雑草に囲まれた顕彰碑の説明に(久留米大橋横)と説明されています。
 また、当時の地図には国道3号線久留米大橋の南詰めの上流側に筑後川改修碑(三人碑)と記してあります。
 むかし、この場所には建設省の久留米出張所がありましたが、南側堤防を約30メートル川幅拡幅のために移動させたのに伴い現在の100年公園に移設されたと言うことになります。
 私は毎日明善校に通学するために横を通っていたのですが.....
 


 その−2.国土交通省筑後川河川事務所からの問い合わせ。



 ある時、国土交通省筑後川河川事務所から電話が入り、「ホームページの情報(筑後川改修記念碑に思う)を引用させて欲しい。」との依頼がありました。
 もちろん、「お役に立てるものであればご自由にどうぞ。」との返事をいたしました。
 ホームページを読まれた職員の方が、「直轄改修の経緯を振り返り、初心に返って取り組むべきではないか、是非、河川事務所の職員一同に紹介したい。」とのことでした。
 その後、河川事務所の所内報として編集され全職員に配布されたとのことでした。
 現職職員の皆様の真摯な取り組みに心から敬意を表したいと思います。職員の皆様、地域の安全と安心を守るために頑張ってください。





 (3枚の写真は所内報「ちくすい」と改修記念碑を紹介した記事)

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 その−3.田中政義翁の子孫からの便り


 10月のある日、自宅に電話があり、「川越(埼玉県)の田中と申します。」とのお話でした。
 知人の中にはたくさんの田中さんが居られますから「私とはどのような関係の田中さんでしょうか?」と訪ねたところ、「北野町の田中政義の子孫です。ホームページを読んで電話をしています。」とのことでした。
 用件の詳細は、「10月の末に従兄弟会で九州に行きますから是非あなたと会って筑後川改修のお話がしたい。」とのことでした。
 10月31日に宮の陣の家にご夫妻でご訪問を戴き、ふる里のこと、筑後川のこと、もちろん田中政義翁のこと等々の話に花が咲きました。
 最後に川向かいの100年公園の「餘澤千歳」 碑までご案内をして、その後宮の陣駅でお見送りをいたしました。おかげさまで、その日はほのぼのとした安らぎの一日となりました。
 その後、川越から丁重なるお礼状を頂き、フルネームが「田中政義」さんと言うこともわかりました。
 最近の激しい情報化の中にあって、ともすれば、情報に関するトラブルが取りざたされる昨今ですが、インターネット情報が運んできた楽しいハプニングのお話を紹介させていただきました。 

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             田中政義翁
 
 その−4 田中政義のもう一人の子孫

 「田中政義は私の曾曾爺さんです。」と言うのは田中慎一郎さん。大分県の土木部長から九州地整の企画部長、東北地整の副局長を経て現在河川情報センターの理事をして居られます。お父さんは田中宏平さんという方で九州大学の名誉教授、昭和54年農林省九州農政局が「筑後川農業水利史」という大作をまとめたときの編集委員長をつとめられました。
 私は昭和50年代から60年代にかけて今話題になっている八ッ場ダム工事事務所の所長をしていましたが、田中慎一郎さんは関東地方建設局の河川計画課長をして居られました。大学も役所も私の方が10年程先輩になります。
 田中さんが田中政義の子孫であるということを知り、「筑後川農業水利史には田中政義のことが詳しく紹介されているよ。」と多少?得意になって(先輩面をして)述べたところ、「あれは親父が書いたのですから。」という応答でした。




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      筑後川中流三堰について            今村瑞穂(9)
     (注−1.ここで言う三堰とは大石、山田、恵利の三堰を言う。)

     
    目  次

     1.三堰之碑(大石堰)  
 
    2.堀川紀功碑(山田堰)  

    3.床島堰記(恵利堰)

    4.筑後中流三堰と樺島石梁

     5.小説になった五庄屋の偉功

     6.中村哲さんの講演を聴く

     7.校歌になった五庄屋



 筑後川中流夜明けダム下流には藩政時代(1700年代半ば)に三つの堰が建設され、現在でもその機能が発揮され、広い範囲の浮羽、朝倉、久留米地域の水田を潤している。
 今年のはじめに全国的立場から水資源の管理に取り組んでいる知人から「筑後川を案内して欲しい。」との依頼があり、久留米から日田まで中流域の水利用を中心に共に現地調査を行った。好天に恵まれ早春の筑後路のさわやかな風を肌に感じながら、あらためて藩政時代の郷土の指導者の威徳に触れ、その恩恵の偉大さに接することができた。
 これらの三堰については、最上流の大石堰と最下流の恵利堰は有馬藩、中流の山田堰は黒田藩に属するものである。それぞれに携わった責任者(主に地域の複数の有力な庄屋)の偉功を称える石碑が設置され、神社が建立されるなど現在もなお地域の人々に崇められている。
 公共事業が無駄遣いの象徴的な見方をされている風潮の中にあって、三堰の歴史は、公共事業を実施する側、公共事業の恩恵を受ける側からも、本当の公共事業とは何かを考えさせられるきっかけを与えてくれるような気がしてならない。

                                      今村瑞穂(9)



 三堰之碑(大石堰) (注−2.ここで言う三堰とは袋野、大石、長野の三堰を言う。)


 筑後川は諸史にあらわれ、実に天下の大水なり。我が米府の東辺にて河に随って邑するものを、生葉郡となし、其の次を竹野郡となし、又た其の次を山本郡となす、三郡を合して国は総べて称して上郡という。上郡の地は河の近くして水は乏し、農耕は利あらず、民は大に苦しめり。
 郡人に夏梅村庄
屋次兵衛。清宗村庄屋平右衛門。高田村庄屋助左衛門・今竹村庄屋平左衛門・菅村庄屋作之丞というがあり、皆乞う慷慨にして器幹あり、相謀りでおもえらく、河を堰かば必ず水を得ん、水を得ば貧は憂ゆるに足らずと。
 既にして又おもえらく築鑿の事は大難なり、府に請うといえども必ずゆるされざらん、
然りといえども、郡は今将に枯滅せんとす、郡が枯滅すれば、死するにしかざるなり、等しく死せば大功に死せんと、議合えり、すなわち血をすすりて相誓い、死を決して将に府に請わんとしたり。
 近
隣の諸庄屋等之を聞き相奮って身を投じ、其の員に入らんと請いしに、五庄屋はきかずして曰く、後れたり、員は益すべからざるなりと。諸庄屋は皆大に怒り、将に別に上書して以て其の事を阻まんとしたれば、郡中は?々たり。五庄屋は皆吉井大庄屋田代氏の管下に属せり。田代氏の同職なる石井氏は、田代氏と同閭にして相善し、之を聞きて大いに憂之、すなわち二人相共に喩解すること多方にして、和は成りたり。
 是に於て寛文初年を以て、五庄屋及び諸庄屋の某々すべて十三人は連署して府に
もうして曰く、水来らずば極刑に就かんと、府は大いに之を壮なりとし立どころに其の請いをゆるす。
 五庄屋は唱首なるを以て、ために五人の磔具を作り、之を村口に立て、勢は必ず罰せんとするに
在りて、以て衆を励ましたり。是に於て衆気は百倍し、急に大堰を大石と長野の二所にたてたるに、水勢は猛く流れ、万派は意の如く、ついに美田一千四百余町を得たり。
 府より其の功を賞して、物を
賜いしこと差あり。五庄屋を賞するには年税各々二百石を免ぜんことを以てしたるに、皆拝して曰く、水を得んことは小人の素願なるが賞を受くることは欲する所に非ざるなりと、辞して受けざりしかば、人は益々其の義なること 高しとしたり。
 其の後八年にして郡に又袋野理の挙あり。袋野は郡の最東の地に在り、田代名は重栄と其の千名は重仍とは相与に久しく河水の別に堰くべぎを相し、十二壬子に上議して府にもうしたれば、府よりゆるされたり。
 すなわち堰をの瀬に作り、巌をうがつこと千間、匿溝を造りて以て大に水を取りしかば、また美田数百町を得たり。此の堰と大石と長野の堰は、国中にて之を上郡の三大堰と稱せり。三堰とも皆奇功にして雄大、鬼作に非ざれば即ち神造にて、絶えて人力の及ぶ所には非ざるなり。
 上郡はもとやせ地なり、寛文は今によりて百六・七十年、上郡が今に至りても、沃土膏壌と稱せらるる者は、三堰にて水を得つつあるを以てなり。上郡の吏民が大に国になすことありたるは、何ぞそれ盛んなるや。袋野には宝暦の碑ありてすでに立てり、大石と長野には未だ立てし石あらず、今年重栄の玄孫なる重陟、及びかの五庄屋の後えい等石を大石壇上に立てんとし、余に碑文を製せんことを請いたり。
  銘して曰く。一国の大利を起して、万歳の鴻美を垂れたり、数子の偉功は、水のごとく遠く山のごとくたかし。
                   文政10年丁亥冬11                                石梁樺島勇七公礼撰
         
                  男小助孝継書


  大石堰
  大石堰HPへのリンク

 大石堰から取水され、ほとばしる水
 
 大石堰横の神社、
 鳥居には 数子之偉功 水遠而山高 と記してある。

 大石堰横の神社境内にある三堰碑

 五庄屋を祀った長野水神社
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   堀川紀功碑(山田堰)

 利して用ふれば則ち天地棄物無く、之を利せざれば則ち萬物皆く贅疣たり、千歳川の豊筑の間に在るも亦一害物たり、其利して之を用ひたるは、寛文年中より始まる。
 初め渠を開きて水勢を岐ち以て民
田に注ぎ、名づけて堀川と日ふ。享保7年福岡藩の奉行川崎傅次郎、麻生四郎衛門と言ふ者、更に地形を相し上流三十余歩の処に於て、巨巌を鑿開して以て水門を為る。口径五尺、門扉水の増減に随って閉闔す。 民皆之を利とす。宝暦9年、大川奉行十時源助、之を増広して十尺と為す。郡奉行寺田某更に属吏森喜作と大庭村の荘屋古賀十作とに命じて、水利堤防の事を掌らしむ、寛政中、十作の従子古賀百工と言ふ者、大いに之を修補す。
 今に存する所の山田の石塊は即ち其の遺蹟なり。是に至って水
勢増々加はり、滾々として上座郡山田、菱野、古毛、田中、多々連、長渕、入地、大庭、石成、下座郡の中島田、福光、鵜木、片延、中村十有四カ村に注派し、潅漑する所の田、四百八十七町九段有余歩にして、其利大なり。明治七年洪水堰を攘つこど、二千五百余坪、国庫金一万七千余円を発し、福岡県属某々等に命じて以て之を修理す。
 十八年洪水又二千六百八十余坪を攘つ。郡長山田正修、郡吏調円吾をして役を董せ
しむ。郡民又委員八名を公選して以て之を輔け、七ヵ月にして工を竣る。夫寛文以降、民の利を享くること今に二百二十有余年、口碑の傳ふる所、野乗の載する所、将に湮滅せんとす。
 今や有志者相謀
って碑を渠口に建つ。前人をして不朽ならしむるに庶幾からんか。銘に曰く。稲田青々、維れ水の利するところ。渠水滾々、維れ誰が賜ぞや。於戯古人、労にして恵を垂る。之を貞aに勒して、以て後世につなぐ。

   明治21 香月恕経 撰
          関 秀磨 題併書

 この碑の裏面には次の文字がある。

  明治十八年郡民公選委員

  工事掛  古賀茂七郎  朝倉 孝雄  長野 信平  星野次郎平  大内十三郎  加藤啓五郎

  仕役係  林 譽八郎  森部 隆造
     


 山田堰遠景

山田堰HPへのリンク

 山田堰近景

 堀川用水の始点(この下流に三連水車有り)
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  床島堰記(恵利堰)

 
この堰は、正徳2年(1712)、梅巌公(有馬則維)の時つくられた。はじめ、御井郡諸村は農地は肥えているけれども用水に乏しい悔みがあった。稲数村庄屋清右御門(中垣)、八重亀村庄屋新左衛門(秋山)、鏡村庄屋六右衛門(高山)などは意気と知略のある人物で、まえにも筑後川の水について検討し、これを堰によって潅漑用水とする計画をもっていた。 
 しかし大河を相手とする大工事であるため、そのまま数年を経過したが、ある日のこと、どうにもじっとしておれず、「明君といわれる殿様が上におられるいまこそ、この永久に人民の利益となる大事業の好機である」と意見が一致した。
 そこで具体的計画をつくって藩の重役に呈出すると、これは藩主に差しだされた。梅巌公は英明な方で藩政に力を尽くしていたが、一見してこの計画を見て壮快な事業だとされ、野村宗之丞・草野又六にこの役を担当させ、清右衛門など三人をその補助にあてられた。このほか当時藩職についていてこの工事に関係のあったものに家老・総奉行以下いろんな人々がいた。
 草野又六は名を実秋と称し、かれも以前から筑後川に堰を築くことを考えていた。優れた人物で度胸が大きく、実務的仕事の才能も高かった。かれが当時藩のため農業を開発して利益を図った仕事は数々あった。
 一体にこのときの工事に役割をあてがわれた人々はみなひとかどの傑出した者ばかりで、まことに人選の妙を得ていたといってよい。命令をうけると、皆の気持はぴったりと一致しふるって事にあたり、さかんに夫役の徴集にもあたった。さきに藩に呈出していた計画書にもとづき、床島村に長い水道を開通し筑後川に石を積み堰を築いて河流をふさぎ、このため溢れた河水を数子間の長さ西の方に引いた。
 怒り、沸騰するように豊かな水が水路を流れていった。また水道の口近くに地を堀りけずってこれに石を数きつめ、余った水流を河にみちびくようにした。その流れの様子は遠くから望めば天から龍が降るように勢いがある。ここを通って舟は本流にくだってゆくのであるが(舟通しと呼ぶ)、翻々と波濤の中を舞うように動くのが見られる。
 一体にここには大小4個の堰があるが、水道と称せられるのは1個である。その下流は多くの支流に分岐し、その高低曲折にはよく調和があり、水を蓄えるにも減じるのにも立派な工夫が施されており、まったく当初の計画には狂いがなかった。工事は1月21日に始まり、4月13日に終了した。その日数はわずか80日余りであった。
 人夫は延べ20万人余、金銭は約500余万文を使い、要した大石の数は何万個か数えることができなかった。堰のため石を河中に入れる工事は2月晦日に一斉に開始されたが、背にになって投げ入れる者、船から投げる者など人夫が雲のように集って働き、規律正しく行動し、賞罰の定めを厳重にしたためにみな勇んで行動しその有様は河水の力と人の勇気との競争のようで、見る者の魂を奪うようにいさましい光景であった。
 事業が成功したおかげで、水利の恵みをうけた村は約40村、約1500町歩の良田が得られた。正徳年間といえば今から約100年(文化14年から数えて)前のことでもう大分古い時期である。水道の恩恵下にある住民はいま豊かな暮しをおくり、仕事も楽にできる状況のもとで、床島堰こそ神の授けものといって感謝しているが、この工事を計画・指導した数人の先覚者の功績が、国家と住民のために偉大なものであることを後世の人々は知るべきである。
 

                  文化十四年三月 
     府学明善堂教授 樺島公禮誌



 恵利堰全景

 恵利堰HPへのリンク

 大堰神社

 大堰神社内の石碑

   明善堂教授石梁樺島の字が見える。

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   筑後中流三堰と樺島石梁

 樺島石梁は江戸に遊学して12年、寛政7年(1795)42歳の6月、若君のお供をして帰国した。寛政8年(1796)2月、講談所再建の監督を命ぜられ12月に完成し「明善堂」と名づけられた。
 当時の学問所では、身分による席順がやかましく、些細なことで争いが絶えず、激しい反対もあったが、「学問の府の中まで必要以上に格式を持ち込むのはいけない。学問によって礼儀正しくなれば席は自ずから定まる」という理由で、石梁は断固として学校本来の立場を堅持した。
 石梁の教育方針は「ひろく諸書を熟読し、一身を修むるは勿論、和漢古今の治乱興亡を考え、人情物態を暗んじ、天下国家の制度沿革を講じ置、まさかの時ひとかどのご奉公あらん事専要の事なるべし」と実用の学問を奨励した。
 また、樺島石梁は、漢文和文の才能に長け、求められて数多くの碑に撰文を書いている。
 文化14年(1817)樺島石梁撰「床島堰碑」、文政10年(1827)樺島石梁撰文による「三堰碑」が建立されている。  
 床島堰は正徳2年(1712年)に建設されているから、完成後100年を経て「床島堰碑」は建立されたことになる。 さらに、大石堰に到っては寛文4年(1664年)の完成であるから150年後に「三堰碑」は建立されたことになる。  
 ところで、「三堰碑」は文政10年11月に建立されているが、石梁は同じ文政10年(1827)11月30日に74歳で没している。
 このあたりの経緯が碑の背面に男小助(石梁の息子の孝継)の補足文として記されている。

 吉井の大庄屋田代茂次郎は大石堰の脇に碑を建て以て祖先及び管下の五庄屋の功績をたたえたいと久しく思い続けてきた。去年の冬父石梁のところに来て碑文を起草して欲しいと請うた。
 石梁は病にかかっていたため「自分は病にかかっている。また、大石堰の工事誌があるのに何故に碑を改めて作る必要があるのだ。」と茂次郎の申し出を固辞した。
 茂次郎はあきらめきれずに、このことを公に願い出たが、公はそれはよいことだと許可を出し、石梁に対して碑文の起草を命じた。
 これを受け、石梁は熱心に起草文の作成に取り組み、11月上旬に完成したものの下旬にはついにこの世の人ではなくなってしまった。「三堰の碑」は実に石梁の絶筆となったのである。
 この様なことで、題字は本人が書いたが、文章は遺命により不肖息子の孝継が代わって書くこととなった次第である。         
                          文政11年8月 樺島孝継誌
 
 死の直前まで力を振り絞って力強い文章を起草した石梁の精神力には圧倒されるばかりである。
 
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樺島石梁にまつわるこぼれ話(樺島石梁とその子孫)

 樺島石梁肖像画とその子孫の写真を並べて見ました。いかがでしょうか?
 我々にとって遠い存在であった石梁が34会の仲間を通してみると身近に感じられまませんか?
  
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        小説になった五庄屋の偉功
 
 五庄屋に関する記述は30年程前に林逸馬と言う作家による小説「筑後川」があります。勿論、樺島石梁の三堰碑の碑文が下敷きとなった長編小説です。
 新たに今年の9月、同じようなパターンで五庄屋をテーマにした小説が出版されました。見事な筑後弁で構成されており、時間の過ぎるのを忘れて楽しく読むことが出来ました。
 ホットな情報を早速(多少自慢げに)東京の仲間に紹介をしました。ところが、私の提供した情報の何倍もの蓬生さんに関する情報が返って来ました。自分の軽挙妄動を恥じると言うより、むしろ、たくさんの情報を頂いてますます元気が出たと言ったところです。頂いた情報の横流しも含めて若干の紹介をしたいと思います。
 作者は帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)、小郡の出身で明善の後輩です。本名は森山成彬、同級生の森山嘉威君の親戚かと思って確かめたところ、小郡市大保の隣組としての交流はあるけど親戚ではないとのことでした。(写真を追加致しました。)
 明善から東大仏文科に入り卒業後TBSに入っています。TBSは1年でやめて九大医学部を目指して受験勉強に入り明善大学(時習館)で模擬試験を受けていたそうです。昔習った先生に悟られたくなかったので帚木蓬生という偽名で受けていたと言うことです。帚木も蓬生も源氏物語の巻の名前から採ったと言うことです。
 全国的に有名な作家により取り上げられ我がふる里の歴史(五庄屋の物語り)も全国的になっていくのではないでしょうか。

 より詳しい人物紹介と書評は下記のURLからアクセスしてみて下さい。

 帚木蓬生に関する情報
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9A%E6%9C%A8%E8%93%AC%E7%94%9F   

 小説「水神」の紹介ページ
 http://www.asahi-net.or.jp/~wf3r-sg/nthahakigi3.html#suijin


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   森山嘉威君と談笑する帚木蓬生さん。(3年前)




   中村哲さんの講演を聴く

 11月22日(日)福岡市で中村哲さんの「アフガンに命の水を」と言うテーマで後援会があり、聴講してきました。

 ペシャワール会の中村さんについては今さら紹介するまでもないのですが、九州大学医学部を出てアフガニスタンの辺境の地で医療活動を続けている方です。
 医療に従事しながら医療以前の水や食料の調達が前提であることに気が付き、自ら土木工学を勉強しながら地域の人々(延べ60万人)と力を合わせて3000haの田畑を蘇らせたとのことです。
 この工事を実施するにおいては、ここで紹介した「山田堰」の構造を参考にしたということでした。
 山田堰と同じ形状の取水堰がアフガニスタンの川でその機能を発揮していました。
 また、日本の伝統的な工法である「蛇篭工」(じゃかごこう)や「柳枝工」(りゅうしこう)を適用して成果を上げたとのことでした。
 中村さんの話を伺いながら、五庄屋とともに堰や水路工事に取り組む農民の姿を連想しました。
 また、文化や価値観の異なる他国において心を通じ合わせることの難しさについても紹介されましたが、基本は相手の立場に立って考え行動すると言うことでした。
 
ペシャワール会公式ホームページへ繋がる(山田堰に似た堰の写真がある)

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   校歌になった五庄屋

   
五庄屋の偉功は小学校の校歌となって語り継がれています。

   千年小学校 校歌

            作詞 大和田 建樹
            作曲 田村   虎蔵

   1.村の名におう 千年川流れも清し 水深し 上り下りの 真帆 かた帆
     目もはるかなる 眺めかな

   2.堤に匂う 桜花 散るを惜しまで ますらおが 身を尽くしたる 真心は
     いぜきの音の 名に高し

   3.そよ風わたる 千町田に みのり豊けき うまし稲 その喜びを 穂にいでて
     歌うにつけて 思うかな

   4.この大御代に この里に 生まれいでたる その甲斐は 千年尽きせぬ いさおしを  
     立てん世のため 国のため 


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      石橋文化センターの近況  平成22年夏

 ブリジストン美術館では7月3日から9月5日まで我々の大先輩古賀春江の特別展示会が開催されました。
文筆家としてもその才能を発揮していた古賀春江のファンタジックな絵画表現と文章表現のコラボレーションに深い感銘を受けました。
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