浩斗の部屋に、柚麻はだらだらと今日もいる。
髪ゴムを解いて、今日は持ってきた本を読んでいる。窓から差し込む日差しによって、色素の薄い髪が余計に茶色く見えた。ソファを背もたれにし、時折指がページをめくる以外にはほとんど動かない。
それを見ながら、浩斗はぼんやりとこの前の告白は一体なんだったのか、と考えた。
もちろん忘れているわけではないと思う。けれど、ほとんど変わらない関係。
変化があったとすれば、たまに柚麻が見せる表情だけ。嬉しそうな、それでいて寂しそうな表情。見るたびに抱きしめたくなるが、それはできなかった。
そういえば、それどころかあの日以来、まったく触れていない。
逆に、柚麻からじゃれついてくるとか、甘えてくるとか、そういう様子はなかった。
それが余計に浩斗を躊躇させる。さすがに触っただけでは、理性がとぶとは到底思えない。しかし、だからといって、一線を越える勇気は持てなかった。
なにせ、相手はまだ12歳だ。
柚麻が好きなのを自覚した瞬間から、通常の恋愛は捨てたつもりだったが、こだわりはそれでも捨てられないのかもしれない。
ため息がでそうになって、あわててそれを飲み込んだ。ごまかすために、キッチンへ逃げる。
キッチンへ行った浩斗を気配で察し、柚麻は視線を上げた。
ふう、とため息をつく。
何をいまさら緊張しているのだろうか。今日なんか本まで持ってきたりして、逃げ道に使っている。居心地が悪いわけじゃない。この場所が落ち着かないわけじゃない。
浩斗が、嫌いなわけじゃない。
ただ、何となく。……どうしたらいいのかわからないだけ。
そういえば、会話もあまりしてないような気がする。
何を話したらいいのかわからなくて、柚麻からは話しかけられない。反対に、浩斗から話しかけてくることもほとんどない。
もしかして、嫌なのかもしれないと思う。あの時は勢いで言ってみただけで、よく考えたら柚麻のことなど何とも思ってないのかもしれない。
なんといっても、相手はもう大人で。
通じた気持ちが本物ならば気にならないと思ってたけど、実はこの壁は結構高かったのかもしれない。
足音がして視線を本に戻す。どこを読んでいたのかわからなくなって、そのページの最初から眺めはじめた。
キッチンから戻った浩斗は、両手にマグカップを持っていた。
一つは浩斗自身のブラックコーヒー。そしてもう一つは、うすいピンクのラインが入ったうさぎのカップ。
一人暮らしの男、それも大学生の部屋に置くにはあまりにも不似合いだけれども、その持ち主の手にはぴったりと納まる。
「ほら、カフェオレ」
「ありがと」
視線を上げて目を輝かす柚麻に、浩斗は笑顔を見せた。その笑顔に、柚麻は嬉しくなる。
こんな時は2人とも、何も変わってないんだ、と思う。
あの頃のまま、彼はそこにいて、彼女はそこにいて。
ちょっと気だるそうな彼女に、彼はカフェオレを淹れる。
今なら、この気持ちを正直に言えるだろうか。
今なら、正直な気持ちを伝えられるかも。
『もう少し、そばにいてもいいですか?』
しかしその言葉は、マグカップを渡す時に触れた指先のせいで、泡となって消えた。広がる動揺をなんとか顔に出さないでおくことだけはお互いに成功する。
けれど、指先が熱い。そして、その熱は指に留まらず、体中に広がっていく。
それはとてもとても、甘い温度だった。
こんな時、今までとは違う、としっかりと感じる。
意識して触ることなんてまったくなかったけど、たまに触れることはあった。
たとえば、今日みたいにマグカップを渡す時、指先が触れるなんて何度もあった。
嬉しい、と思うことはあったけど、こんなに甘い気分にはならなかった。
(幸せ)
浩斗はソファに座りながら、柚麻はカップを両手で抱えながら、笑みがこぼれる。相手が同じことで幸せを感じているとは思わない。
それどころか、2人同時に思う。
――こんなことで。
(こんなのことで、幸せになってることは秘密にしておかないと)
幸せになっているのは自分だけだと、相手に知られてしまうのは何だか悔しい。
大人の余裕を。
女の余裕を。
相手に見せつけるまで、知らせない。
(付き合うなんて初めてじゃないのに、余裕のひとつも見せないとかっこ悪いだろう)
(だって、浩斗はいっつも余裕ばっかりなんだもん。子ども扱いされないためにも余裕をみせないと)
それが不器用な恋愛を、よけいに不器用にさせる原因だけど、彼と彼女は気づかない。
余裕なんて、自分の気持ちをさらけだした時に得られるのに、それがわかるのはいつになるのか。
「ねぇ」
「ん?」
(声のかけかた、大丈夫だったかな)
(返事の仕方、普通だったよな)
そんなことを考えることさえ、不安と嬉しさが入り混じる。
余裕のない恋。
いつか、余裕のある恋になればいいと思うけれど。
けれど、とても幸せ。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ正直になれば、きっともっと幸せになれるのよ。
少女の手の中で、うさぎはぼんやりとそう思った。
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