上弦の月

>第一夜<

翌日、新聞を読んでいたシエルは、ふと一つの記事に目が留まった
内容はどこにでもあるような、若い女性が行方不明になったという話。新聞の片隅に、それこそ数行しか書いていないような記事
日付は昨日、場所は市内である事はわかるが、それ以上の事は書いていない
が、シエルは違和感に似た何かを感じていた。直感的な勘、とでも言おうか、とにかく『何か』としか言いようのない感覚
行方不明者イコール吸血鬼の被害者と結びつけるのはあまりに安易すぎるが、今回ばかりは何か漠然とした胸騒ぎを覚える
もちろんシエルとて遊んでいる訳ではない。いくら滞在延長の理由が額面どおりでないとしても死徒、もしくは死者の探索は毎日欠かしたことはない
しかし、今までに半年間繰り返してきた日常的な作業の中で、新たな死徒どころか死者にすら出会わなかった
それでも今回のこの事件の裏には何かありそうな、そんな予感めいたものを感じる

「…今夜から監視体制を強化しないと…」

例え自身のこの胸騒ぎが杞憂に終わってくれたとしても、それはそれで問題はない
これ以上、この街で吸血鬼による被害者を出さない事、それが最優先であり、ひいては志貴を守る事にもシエルがこの街に留まる理由にもつながる

「…遠野君は、状況に流されやすいですからね…」

昨日とはまた違った心境で、シエルはこの言葉をつぶやいていた

*** *** ***

夜、いつも通りに法衣姿に編み上げブーツを身にまとい、シエルは街中を巡回していた
もちろん、法衣姿のシスターが普通に巡回などしていたら目立つ上に怪しい事この上ないので、周囲の人間には『気にしないように』と簡単な暗示をかけつつ周囲を警戒する
夕方まで降っていた雨もやみ、雲も多少かかっていたが既に空にはうっすらと欠けそうな程に細い三日月が頭上高く上っていた
感覚を鋭敏にして探索を続ける
事件から半年以上も経った今、街中を騒がせていた吸血鬼騒動も既に忘れられたかのように賑う繁華街
が、その賑わいも時間とともに徐々に途絶え始めて、まばらになっていく

…昨日の今日では敵も警戒しているのかもしれませんね…

なんとなく今夜の探索も空振りに終わりそうな気がし始めた頃、そもそもの探索強化の理由があいまいな物だけにそんな弱気にもなる
そんな折、ふと大通りの電光掲示板を見上げると、日付は既に翌日に代わっていた
と、その視界の隅を何かが一瞬横切った
闇に沈み始めたネオン街の中で、一際目立つ白い影。ブロンドの髪が通り過ぎる車のヘッドライトを弾き返し、鈍い光を放つ
慌ててそちらに振り向くが、既にその人影は見当たらない
消えたと思われる方角の路地裏を探しても、街灯の上から街並みを見下ろしても、まるで蜃気楼ででもあったかのように影も形も確認できなかった

「………やはり放置していたのは、間違いだったんでしょうか…」

何か迷いを断ち切るように、シエルはギリ、と親指の爪を強く噛み締めた

*** *** ***

コツン…コツン…コツン…

足音を忍ばせながら、人気の無い薄暗い洋館の中を裏口に向って志貴は歩いていた
時刻は夜10時を回っている。遠野家のしきたりでは既に消灯時間を過ぎ、館内の出歩きすらも控えなければならない時間だ
幸い、半年前に翡翠にもらった裏門の鍵はいまだに志貴の手元にあるため、館内で見付かりさえしなければ外に出る事はできる
翡翠や琥珀の館内の巡回は2時間ごとなので、今の時間は誰かに見付かる可能性はきわめて低い、志貴はそう考え今を選んだ
が、残念ながら今回のその試みは外れたようだった
後数メートル、最後の角を曲がれば出口、というところで、その当の角からすっと音も無く誰かが姿を現したのだ

「わ、うわぁ〜っ!!」

突然の出来事に情けない声をあげ、志貴はしりもちをついてしまう
その志貴を腕組みをしたままの秋葉が冷たい視線で見下ろす

「あら、兄さん。奇遇ですね、こんなところで…こんな時間にどこにいらっしゃるおつもりで?」
「な、なんだ秋葉か…脅かすなよ、びっくりしたじゃないか」
「なんだとは失礼ですね。私は別に兄さんを驚かすような事はしているつもりはありませんけど?」

明らかに奇遇では起こり得ないだろう出会いに、志貴の目を冷たいままのまなざしで見つめながら秋葉は悪びれた風も無く言う

「ところで兄さん、先ほどもお聞きしましたが、こんな夜更けに一体どちらにおでかけですか?」
「いや、何、その…そう、受験勉強に少し煮詰まってきたんで、気分転換に…」
「それで使用人の勝手口しかないこちらに?」
「う…いや、ちょっと外を散歩でもしようかなぁ…とか…」

追い詰められる度、志貴の語尾が徐々に弱々しくなっていく
はぁ、とあきれたような諦めたようなため息を一つ、秋葉は表情を緩める

「わかりました。どうせ兄さんの事ですから、ここで部屋へ追い返したところでまた折をみて抜け出してしまうでしょうし、今日だけは特別です」
「…えっ?いいのか?」

予想だにしていなかった秋葉の返答は、志貴には願ったりだった
…が、秋葉の次の言葉に、志貴はまた頭を悩ませる事になる

「…ただし、今夜は私も一緒に行きます。半年前の時もそうでしたけど、兄さんが夜な夜な屋敷を抜け出して一体何をしているのか、そろそろ確かめないといけませんし」

確かによく見ると、秋葉はラフな部屋着ではなく外出用の服を着ていた。どうやら今夜は確信犯らしかった
恐らくここで頑として断ったところで、志貴の外出も禁止されてしまうだけだろう
志貴としては危険な目にあうかもしれない探索行に秋葉は連れて行きたくなかった。
が、今回は確実に危険があるかどうかもわからない。ただ、昨晩のアルクェイドの様子が何かおかしかった、具体的には急に鋭く目を細め真剣な表情になると

『志貴、今夜はこれでおしまいにしよ』

と一方的に別れを切り出され、志貴が何かを言う前に人並みの中へ足早に消えていってしまった事から、また何かこの街で起こっているんじゃないか、と思っただけだ
何もないならそれに越した事はないが、その辺の事もアルクェイドに少し詳しく話が聞きたかったというのもあった
しかし、半年前のようにアルクェイドと約束して街中を徘徊する訳でもないので、今日のところは秋葉をごまかす意味でも比較的安全そうなところを選んで本当に軽く散歩するだけでもいい
様々な思惑は複雑に絡み合った結果、最終的に志貴は秋葉の申し出にうなずく事にした

*** *** ***

「久しぶりですね、兄さんとこうして二人でゆっくり歩くのも」

遠野家の正門から続く下り坂をゆっくりと降りながら、ふとそんな事を秋葉が切り出した
限界まで引き絞られた弓のように輝く月光の元、全てが淡白く染まった世界
秋葉の表情は穏やかで、どこか神秘的なものを感じさせる

「そうか?毎日学校行くのに一緒じゃないか」
「…それは毎朝ギリギリまで起きてこない方のセリフですか?おかげさまで私、少しですけど足が速くなった気がしますよ」

秋葉は少し怒ったような口調で皮肉めいた事を口にした

「まったく、兄さんには情緒を重んじるという心が欠けていますね。もう少し風情というものを考えてもらいたいものです」

眼前に相手がいるというのに独白のようにぼやくと、空を見上げる
空には、三日月。月の光が弱いため、星々の瞬きも空一面に広がっている
平和な、何事ももない時間
が、そんな温和な時間は突然終わりを迎えた

ズキン…ズキン…ズキン…

目の奥から脳髄に直接打ち込まれるような激痛。鼓動の度に神経が逆撫でされるかのように電気信号が走り抜ける
久しく忘れていた、感覚

『…なん、だ?』

身体中の皮膚が粟立つ。背筋を冷たい汗が流れ落ちる、イヤな感触
意識が目の前で少しずつ焼き切れていく。思考がまるでまとまらない
視界が、赤く紅く朱く染まっていく

「…兄さん?」

先に坂を降りきっていた秋葉が、急に立ち止まった志貴を不信に思い、振り返る

「なっ!?」

言葉を、失う
志貴の鬼気迫る表情。何かを、いや何を狩るかためにか力が蓄えられていくような肢体
青く蒼く光を放ち始める、その瞳
『ソレ』は既に『遠野志貴』ではなく、『七夜志貴』なのかもしれなかった

…コロセ

志貴の頭の中に、また例の声が響いた

コロセ…コロセ…コロセコロセ…コロセコロセ…コロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセ
コロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセ

「…う、るさイ」

苦悶の中、うめくように志貴がつぶやく
玉のような汗が、額から頬へ、頬からあごへ、あごから路面へとぽたりぽたりと伝い落ちていく
たまらず、膝を屈する志貴

「兄さん!大丈夫なんですか兄さんっ!!」

秋葉が駆け寄ってくる

「だ…いじょうぶ…だ…ただの、いつもの、発作だから」
「そ、んな…シキはもう、いないのに、いないはずなのに、どうして…」

呼吸を整え整え、なんとか言葉を返す志貴に、秋葉は愕然としたまま何も出来ずに一人ごちる

コツ…

と、秋葉の耳に、そして呼吸を荒らげていた志貴の耳にも靴音が響いてくる。あまりに生気の感じられない、死んだ靴音
果たして現れたのは、どこか虚ろな表情をした、会社員風の男だった
その男は一見しておかしかった。明らかに視点の定まっていない瞳。そして何より、その首は90度以上横に倒れていた
まるで、頚椎は既に折れていて、筋と皮だけでつながってでもいるかのように

『あ、れは…?』

志貴は『アレ』に見覚えがあった。半年前、幾度か遭遇した事のある、人外の魔性…いや、人のなれの果てと言った方がいいか
白濁寸前の意識の中、志貴は意識を集中させる。やはり身体中に『線』が、というよりも、男の身体が『線』で黒く塗り潰された。
吸血鬼によって生と死の狭間に迷い込んでしまったモノ、死者だ
ギッ、と耳障りな音をたてて、男が二人の姿をその虚ろな眼窩にとらえたらしかった
ゆっくりと近付いてくる。その遅さが、逆に逃れようの無い死神のレクイエムを連想させた

「…っ!このっ!!」

激しく敵意を燃やして、秋葉が見知らぬ男…いやモノを睨みつける
キィィィィン…と甲高い音を立てて周囲の空気が急激に張り詰めていき…

「あきはっ!!」

志貴は咄嗟に注意を自分に向けるべく大声で叫ぶと、秋葉を道の端に突き飛ばした
と同時に、死者は今までの緩慢な動きが嘘のような素早く正確な動きで今まで秋葉がいた場所に躍りかかっていた
秋葉を突き飛ばした志貴の左腕を、死者の爪がかすめる
が、その瞬間、志貴の右腕に握られた七夜の短刀が既に死者の『点』を貫いていた
悔しげにそのあごをカクンカクンと鳴らしながら塵となり、空へと還っていく死者
志貴はふぅっ、と胸の中にたまっていた息を吐き出す。不思議と、既に頭痛は無い

「兄さんっ!なんで!?」

立ち上がった秋葉が非難の色の濃い質問をぶつけてくる。直情的で、いつもの秋葉らしからぬ、直球的な質問
志貴はもう一度大きく息を吐いた後、

「バカか、お前はっ!お前はあんな得たいの知れないモノまで『呑み込む』つもりなのかっ!?」
「あ…」

秋葉はまず怒鳴りつけられた事に驚き、そしてその言葉の内容を理解すると、更に言葉を失った
しゅんとしてうつむく秋葉

「…でも、あの時は咄嗟で…とにかく兄さんを助けたくて…」
「あ、まぁ、その気持ちはありがたいんだけどな」

言って照れくさそうに頭をかく

「とにかく、いいか、秋葉。これからこういう事が何か起こるかもしれないけど、自力でどうしようもなくなるまでやたらな事ではお前のその『檻髪』は使うなよ
頼むから『お前』でなくなったお前を相手にするのは、勘弁させてくれ」

その言葉にコクン、と素直に頷く秋葉
志貴は3度目になる大きな息を吐き出すと、ズボンについた砂埃を軽く払った

「…散々な散歩になっちゃったけど、そろそろ帰ろうか、秋葉」

街中では再び何かが起きてて物騒なようだし、と心の中でつぶやいて、志貴は秋葉と共に自宅への坂を登り始めた

>>> 続く >>>