上弦の月
>第二夜<
翌朝志貴は、珍しく秋葉が目覚める前に家を出ていた
昨晩は突如現れた死者の事を考え、結局のところ一睡もできなかった
丁度いいとばかりに、秋葉にとやかく言われる前に外出をする事にしたのだ
行き先は特に決めていなかったが、行かなければいけないところは2ヶ所あった
『…まずはアルクェイドのところかな?』
今この街で、吸血鬼といって真っ先に思いつくのは当然アルクェイドだった
もちろん志貴とて、アルクェイドが今回の犯人だとは思いたくない
だが、半年前ならいざ知らず、そうそう吸血鬼が同じ街に集まってくるとも思えなかった
…ネロの時のような、アルクェイドを狙う刺客というのなら話は別だが、それとてやはりアルクェイドに聞いてみるのがてっとり早いだろう
そして一昨日のアルクェイドの不可解な行動にしてみても、何があったのかは本人に直接聞く必要があった
『こんな事聞いたら、きっと『志貴は私の事そんなに信用できないの!?』ってまたへそ曲げるんだろうなぁ…』
思いながら、決して寝不足のせいだけで重くなった訳でない足を公園の方向へと向けて歩き出した
*** *** ***
「ねえ琥珀、兄さんは相変わらず寝ているの?」
いつもより30分ほど遅れて、秋葉は居間で食後の紅茶を楽しんでいた
さすがに秋葉も、昨日の事が気になってあまりよく眠れなかったらしい
幸い、今日は日曜なのでそんなに大きな問題はなかったのだが
「志貴さんですか?まだ眠ってらっしゃるんじゃないですか?ねえ、翡翠ちゃん」
「いえ、志貴さまは朝早くお出かけになられました」
『えっ!?』
いつものように淡々とした表情で語る翡翠の言葉に、二人は驚きの声をあげた
「はぁ…すごいですね、志貴さんも。いつもはあんなにおねぼうさんなのに、やる時はやるんですねー」
純粋に驚きつつもどこか嬉しそうな琥珀とは裏腹に、秋葉はどこか釈然としないものを感じていた
志貴の寝坊振りは一日や二日で治るものではない。秋葉ですら最早諦めているのだ
それが何故、昨日の今日でいつもと違った行動をとるのか。それは逆に、昨日の事があったからとしか秋葉には思えなかった
もちろん、琥珀にも翡翠にも昨晩の事は話していない
危ない目にあったなんて話せば余計な心配をかける事になるから、というのが志貴の言い分だった
が、それは何かあった時、万一の時には巻き込みたくないという志貴の本音を隠すための建前だろう
「琥珀、今日、私の予定は特になかったわよね?」
「え?ええ、秋葉様は今日はゆっくり志貴さんと過ごされるつもりだったんでしょう?残念でしたね、あてが外れてしまって」
「私も今日は少し所用ができたので外出します。留守の間の事はいつも通り任せたわよ」
悪意はない琥珀の言葉を聞こえなかったように聞き流し、秋葉はカップに残った紅茶を口に含んだ
*** *** ***
「先に言っとくけど、私じゃないわよ」
ドアを開けるなり開口一番、何も聞く前からアルクェイドはそう先制してきた
アルクェイドは明らかに不機嫌そうだった。その原因が自分にあるのか、志貴自身は計りかねていたが
ただ、やはり来る途中に多少は考えていた展開なので、少しばかりの負い目はあった…少しばかり早過ぎる展開だが…
「…参ったなぁ、もう志貴のところに行っちゃったんだ…今回は巻き込みたくなかったのに」
志貴から視線を逸らせて、独り言のようにブツブツと少し険しい顔で考え事をするアルクェイド
その言動に、志貴はアルクェイドの機嫌の悪いのが自分のせいだけではないらしいと判断した
「巻き込みたくないって…やっぱりお前、何か知ってるのか?」
「え?私そんな事言った?」
そらぞらしいほどにとぼけた素振りでごまかそうとするが、困った風に視線が泳いでいるのを志貴は見逃さなかった
素直なほどに感情が表に現れるのがアルクェイドの魅力でもあるのだが、それがいつでも彼女自身の味方をするとは限らない
「とにかく一昨日の事といい、少し話があるんだけど、いいか?」
「ま、仕方ないか…そっちへ行ったって事は、一応話しておいた方がよさそうだし」
悩む気配すら見せずにアルクェイドは即断し、志貴を部屋の中へと招き入れる
志貴は誘われるままに部屋の中へと入っていった
*** *** ***
「…あ、れ?」
ピンポーン、という軽快なチャイムの音で、うつらうつらしていたシエルの意識は一気に覚醒した
昨晩も遅くまで、というよりは今日の早朝まで巡回をしていたためか、少しうたた寝をしてしまっていたようだった
残念ながら、昨晩もその成果はまるでなかったのだが…
ちらりと鏡をのぞき込んで、寝癖などがない事や、きちんと私服に着替えている事を確認すると
はーい、今いきますよー、と少し間延びした感のある声をチャイムの主にかけながら玄関に向った
「あらあら…珍しいお客さんですねー」
「どうも、御無沙汰してます、シエルさん」
ガチャリと音を立ててドアを開けた先には、予想外の客人…秋葉の姿があった
物腰や言葉使いは丁寧に見えるが、相変わらず秋葉はシエルに対して静かな敵意を放っている
「どうしたんですか?遠野君ならうちにはきてませんけど?」
「いえ、今日は兄さんの事ではなく、シエルさんに少しお話をうかがいたくて参りました…少しよろしいですか?」
突然の来訪に何が用件なのか予想すらできないが、別に害はないだろう、とシエルは秋葉を部屋の中へ導きいれた
「…で、私に聞きたい事ってなんですか?」
キッチンから、お茶を入れた湯飲みを二つ載せたお盆を片手にシエルが戻ってくる
先ほどまで物珍しげに部屋の中を見回していた秋葉は、今は興味を失ったのか黙って座っていた
「シエルさん、吸血鬼というものを信じますか?」
どうぞお構いなく、と紋切り型の前置きをしてから、秋葉は唐突に本題を切り出した
いつもなら平然と受け流したであろうその言葉に、シエルは一瞬とはいえ反応してしまった
それだけ焦燥が募っていたのかもしれない
当然ながら秋葉がそれを見逃すはずはなかった。ふぅっ、と軽く息を吐き出してから続けた
「やはりそうなんですね?学校中の人間に見境なく暗示をかけるような人ですから…」
秋葉の言葉には少しばかりトゲが感じられる
「こういう非日常的な事には多少は詳しいかと、少々カマをかけてみたんですけど」
意地の悪い微笑を浮かべる秋葉を、シエルは真剣な瞳で見つめ返した
「…何故、『吸血鬼』と?」
今度は秋葉の方がピクリとする番だった
秋葉にしてみても、『私が人の血を吸う鬼だからです』などと答えられる訳もない
一瞬の逡巡
互いに互いの腹を探り合う、緊張した時間
「吸血鬼といえば、そういった魔物の中では有名だからですが、それが何か?」
「…まぁ、いいでしょう。今更隠しても仕方がないようですので、秋葉さんにも少しお話しておきましょうか…秋葉さんにも全く関係が無い、とは言い切れませんので」
居住まいを正すシエル
「私の本業は、御存知のように学生…今ではもう卒業してしまいましたが…ではなく、教会の、わかりやすくいえばエクソシストです。
もっとも、私の専門は悪魔憑きを祓う事ではなく吸血鬼の封印・抹消ですが
この街に来たのは、とある吸血鬼を滅ぼすためでした…貴女も知っていますよね?遠野シキです」
「兄さんがっ!?」
驚く秋葉に、一度は同じ勘違いをしていたシエルは苦笑しつつ首を軽くふって応える
「いえ、遠野君ではありません。貴女の実の兄だった遠野シキです。幸い、彼は遠野君によって『殺され』はしましたが」
その件の事情は秋葉もよく知っている。志貴がシキを倒した現場に秋葉も居合わせたのだから
いや、遠野の血に絶えきれずに反転したシキを滅ぼそうとした現場に志貴が現れた、という方が正しいのか
「ただ、吸血鬼に『汚染』された地域を完全に浄化するには時間がかかります。吸血鬼は血を吸う事で僕を増やす…小説なんかで有名なアレです
僕となったもの…私たちは『死者』と呼んでいますが…は、ねずみ算的に仲間や被害者を増やしていきますから、それを完全に駆除するには時間がかかるんです
今回は先に『親』が滅んでいるので死者を駆逐すればそれで終わりですが、普通はそこから『親』探しもしなければなりませんし」
そこまで語ると、シエルは胸元をギュッと強く握り締め、歯を鳴らした
過去の凄惨な記憶を思い出しているのかもしれない
がそれも束の間、ふぅ、と軽く息を漏らして身体の緊張を解き、秋葉の表情から話を理解しているのかをうかがう
どうやらついてきているらしい、と判断し先を続けた
「幸い、今回この街でのケースでは死者の大量増殖なんて事態は防げました
『親』が先に滅んでいた事もありますが、
この街には何の偶然か、吸血鬼を駆除できる能力を持つ存在が3人もいましたから、徹底した『死者狩り』を行う事でその難は逃れえたんです」
その3人とは、当然シエル・アルクェイド・志貴であったが、その事は秋葉には言わない
死者狩りに任務が移行してからは志貴はほんとど関与していなかったのも理由の一つではあるが、
何より志貴を兄として以上に慕っている節の見受けられる秋葉に、その事を話すのは得策でないと思われたからだ
実は秋葉も『檻髪』によって死者を破壊する事など造作もない事だったが、その事をシエルは知らないし、秋葉も告げるような真似はしない
「さて、ここからは私の推測なんですけど…貴女が突然吸血鬼の話を持ち出すなんて、もしかしたら秋葉さん、最近死者、もしくは吸血鬼そのものを見たんじゃありませんか?」
今日話がある、というのその事なのでは?と遠回りせずストレートに続けるシエルに秋葉は薄く笑って頷いた
「ええ、御察しの通りです。昨晩その『死者』と思われる化け物に襲われかけました…幸い兄さんに『助けて』もらえたので難を逃れる事はできましたが」
やはり、と一人ごちてからシエルは続けた
「実はここのところ、あまり大騒ぎにこそなってませんが、この街に奇妙な行方不明者が増えてきているんです
新聞や警察ではただの行方不明としか扱ってませんが、私が個人的に少々調べたところ、
行方不明の届け自体は家族からのものですが、その発端は全てたまたま訪れた古い友人だとか親類によるものらしいんです
不思議に思いませんか?同居している家族が、他人に指摘されて初めてその事に気付く、なんて」
「何か人為的なものを感じるというのですか?…例えば暗示をかけてる首謀者がその裏にいるとでも?」
意地の悪い言い様で秋葉が口をはさむ
シエルはその悪戯っぽい悪意に気付き、くすりと笑うと表情を真面目な方向に戻した
「正直なところ、今この街には親になりうる異端が潜んでいます。それを排除するのが私の仕事であり、私がここにいる理由の一つでもあります
秋葉さんも、十分に気を付けて下さい…貴女も昨日見たという『モノ』にはなりたくないでしょう?」
ええ、そうですね、と優等生的な答えを返しながら、秋葉はおおよそ予想通りの事態が進行していた事を感じていた
異端の血は異端を呼ぶ。異端同士の邂逅
志貴は吸血鬼や死者の事を知っている様子だった
そしてその行動が昨日の出来事に触発されたのが明白である以上、おそらくは七夜の力を用いて吸血鬼狩りをするつもりなのだろう
街を守るため、自分の大切な存在を守るため。自分自身を犠牲にして
秋葉には、それが耐えられなかった。何か自分に出来る事はないかと考えてみる
いや、考えるまでもなかった。自分には『檻髪』がある…
シエルのアパートを辞した時には、既に秋葉は不退転の決意を固めていた
>>> 続く(Now Writing…) >>>