上弦の月

薄暗い部屋の中、灯りもつけぬまま窓際にもたれかかるように座って、シエルはぼんやりとガラス越しの景色を眺めていた
空一面に広がる灰色の雲海からは、休む事なく水のカーテンが降り続けている
頭上から押し付けられるような圧迫感のある曇天が、梅雨空特有の重苦しい雰囲気を部屋の中にまで浸透させる

「…はぁ」

今日何度目になるかわからないため息を無意識のうちにつき、窓ガラスにこつん、と額をぶつける
なんとなく、憂鬱な気分…その原因は梅雨空のせいばかりという訳ではない

ロアが消滅し、街が平穏な日々を取り戻してから半年ほどの時間が経った
埋葬機関としての新たな仕事がない訳ではないが、
建前として上部には志貴の保護観察及び市街の浄化を続けるという事でかなり無理矢理この街にとどまっている
が、この街にとどまったのはシエルだけではなかった

「…遠野君は、状況に流されやすいですからねー」

視線は宙を彷徨わせたまま、少し淋しそうに誰にともなく一人ごちる
シエルはこの春めでたく学校を『卒業』した
もちろん、元々正式に在籍していた訳ではないので今年も通う事はできたが、それは志貴に堅く止められてしまった
いわく、『そんな事したら、訳のわからない留学生がもう一人増えそうだからやめてくれ』という事だった
志貴はあえて名前を出さなかったのだろうが、そんな事をするような人間…正確には違うのだが…に、シエルも心当たりがあった
あの『お天気吸血姫』なら、本当にやりかねない
事実、あの事件中にも一度校内に入り込んできたという実績がある
なんとなればシエルの様な暗示も使わずに、そのまま居座りそうな気すらしてきた
昨年末には何を考えたのか志貴の妹も名門校から転入してきたという事もあり、志貴としてはあまり学校での頭痛の種を増やしたくないのだろう
そうわかったからこそ、シエルとしては少しでも一緒にいたいと思いつつも我慢するしかないのだった

*** *** ***

「…で、俺はどうしてこんなところにお前と一緒にいるんだ?」

シエルが一人物思いに耽っている頃、その当の対象であり学校で勉学に励んでいる『はず』の遠野志貴は、とあるマンションの一室のカーペットの上に疲れたように座り込んでいた
志貴に話し掛けられた当人は、むー、と少し不機嫌そうに眉根を寄せる

「なによ!それじゃまるで私が、無理矢理、力ずくで、志貴をここまで引っ張ってきたみたいじゃないの!」
「…朝目が覚めたら勝手に部屋に…それも窓から侵入してて、人が着替え終わるのさえ待たずに腕をひっぱってまた窓から外に出るような奴に言えた事か?」
「えー…だってしょうがないじゃない。そうでもしないと志貴、最近私の相手してくれないんだもん…」

さっきまでむくれていたのが、一転、少し拗ねたような、うらめしそうな顔を見せる
アルクェイドの表情はいつもくるくると、まるで猫の目のように目まぐるしく変わる
性格もさる事ながら、本当にネコみたいな奴だな、と志貴は今更ながらに思った

「だから、今年俺は受験生だからあんまりお前には付き合えないって言ってあっただろ?一年位我慢してくれよ…最近、シエルにだって全然会ってないんだぜ?」

刹那、ぎし、と部屋の空気が軋みをあげた
シエルの名を聞いた途端、アルクェイドの周囲の空間が陽炎のようにゆらりとゆらめく
鮮やかなまでの金色の光を放ち始めるその瞳に、志貴も一瞬息を呑んだ

「…シエルは関係ないでしょう?シエルは?私の前でシエルの話はやめてもらえないかしら?」
「………アルクェイド、それどこで覚えたんだ?」
「コミックバ○チ」
「…それは違うもんだと思うんだけどな」

相変わらずよくわからない知識を仕入れてくるアルクェイドに苦笑しながら、志貴は覚悟を決めたように軽く胸の中の息を吐き出した

「わかったよ…今更学校に行く訳にもいかないしな、今日は付き合ってやる」
「ほんとっ!?」

喜びよりも驚きの方が大きかったのか、目を大きく見開いた、本当に『きょとん』という擬音が似合いそうなアルクェイド

「なんだよ。そっちがイヤなら俺は別にいいんだぜ?」

少しだけ意地悪に志貴が言うと、アルクェイドはそのままの表情でブンブンと首を大きく横に振った

「だけど、本当に今日だけだからな!今日だって帰ったら秋葉に何言われるか…今度こんな事したら、それこそ絶交するからな」

帰宅後の事を考えたのか、軽く頭を抱えながら念を押す志貴に、今度は首をコクコクと縦に振る

「で、どうするんだ?何かしたい事でもあるのか?」
「えっとねぇ…」

人差し指をあごにあてて考えをめぐらすアルクェイドの顔は、今日これからの事を思ってか、満面の笑みに覆われていた

*** *** ***

チッチッチッチッ…
…カツカツカツカツ
チッチッチッチッ…
…カツカツカツカツ

時計が秒針を刻む音と堅い床の上を革靴が行ったり来たりする音が、玄関ホールに規則正しく響き始めてからしばらくが経っていた
時刻は午後4時を少し回ったところ。何もなければ志貴と秋葉が学校から帰ってくる時間である
もっとも、秋葉の方はその後いろいろな稽古事などで再度外出する事の方が多いのだが

「あら?翡翠ちゃんどうしたの?そんなに落ち着かない翡翠ちゃんなんて、すごい珍しい気がするけど」
「姉さん」

不意に西館の方から現れた琥珀に少しだけ驚いた表情を見せると、すぐに翡翠は平常を装った
が、その事をよくわかっているのか、琥珀は目を細めくすくすと口を抑えて笑う

「まあ、翡翠ちゃんがそこまで気にするのは志貴さんの事だけだと思うけど…もしかして志貴さん、また何かあったの?」
「えっと…」

かすかに頬を染め、翡翠は少し困った風に言葉尻を澱ませた切れの悪い返答を返す
実際、翡翠は志貴に何があったのかは正確には知らない。とはいえ、簡単に予想はつく
朝、いつも通りに志貴を起こしに部屋に向ったら、既に部屋はもぬけのからで窓が大きく開け放たれていたのだったのだ
とりあえず波風を立てないよう、秋葉には『志貴は諸用で先に学校へ向った』と伝える事にしたのだが

「私でよかったら力になるけど…どう?お姉さんに話してみない?ほらほら」
「でも…秋葉さまに知られると、少しまずいんだけど…」
「私がどうかして?」

突然背後から話題にしていた当の秋葉から声をかけられ、翡翠だけでなく琥珀までもが目に見えて驚いた

「二人とも、私に隠し事?何かよからぬ事でも企んでるんじゃないでしょうね?」
「秋葉さま…そんな隠し事なんて…」

困惑する翡翠に、ふふっと相好を崩す秋葉

「冗談よ…それより翡翠、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
「…はい、なんでしょう秋葉さま」

刹那脳裏によぎったイヤな予感が、一瞬のためらいとなって現れた
無表情のようであるが、こういうところで翡翠はとても素直に感情を表現してしまう

「確か、珍しく今日は兄さん先に学校に行ったって言ってたわよね」
「はい。それが何か?」

コホン、と軽く咳払いをして間をとる秋葉
最早何を言われるかはわかっていた。こんな単純な嘘でごまかせるはずがない
が、翡翠は志貴をかばうかのように、できるだけ普段どおりを装いあえてとぼけてみせた

「で、その兄さんが学校にいないっていうのはどういう事かしら?後でじーーーっくり聞かせて欲しいんだけど」
「………」

恨みますよ、志貴さま…、と心の中でつぶやきながら、わかりました、と翡翠は素直にうなずいておいた
と、琥珀が秋葉をなだめ始める

「まあまあ秋葉様。志貴さんだって何か考えがあっての事でしょうし、それに毎日毎日受験だなんだじゃ煮詰まっちゃいますよ。たまにはいいじゃないですか」
「ちょっと琥珀、そう兄さんを甘やかさないで頂戴。
 息が詰まる、というのはわからなくもないけど、だからといって学校を休んでいい理由にはなりません。
 だいたい、兄さんが学校に来ないんじゃ、何のためにわざわざあの学校に転校したんだかわからないじゃ…」

そこまで言い終えて、秋葉ははっと気付いたかのようにバツの悪そうな顔を見せ、コホンと咳払いを一つ

「と、とにかく!二人とも兄さんをあまり甘やかさないで頂戴。兄さんには遠野家の長男としてふさわしくなってもらうつもりですから」

クスクスと忍び笑いを漏らす琥珀や何も反応のないように見える翡翠にさっと背を向けると、秋葉は自室へと戻ってしまった

「よかったね、翡翠ちゃん。これできっと御咎めなしだよ」
「姉さん、秋葉様変わられたと思わない?」
「シキの事も無事片付いたし、反転衝動もだいぶ収まったでしょう?それに志貴さんだってちゃんといるから、秋葉様も肩の荷がある程度は降りたんじゃないかな?それより翡翠ちゃん、仕事仕事♪ほらほら」

翡翠は一度だけちらりと玄関のドアへ視線を送った後、琥珀に背中を押されたまま玄関ホールを後にした

>>> 続く >>>