愛の証明 04
情婦、つまり愛人。
いやアリスは別にエリオットと結婚しているわけではないし、よくよく考えれば会話の脈絡からしておそらく、アリスよりも彼女の方がエリオットとの付き合いは長いはずだ。
そう考えると、この表現はちょっと正確では無いのかもしれない。が、
(……それ以外にピッタリな表現が思い浮かばないわ)
大人のカンケイ。
うん、そんな雰囲気。
(そういえば、最初エリオット出かけるのを嫌そうにしていたわよねー……それって、もしかして)
つい先日、エリオットの部屋で交わしたやり取りを思い返す。エリオットにしては珍しく、アリスにせがまれても外出を渋った理由。それはもしかして、彼女がこの辺に住んでいたからなのだろうか。
アリスに内緒で通っている女がいる後ろめたさとか、バレたら困るなーなんて理由だとしたら……。
エリオットだっていい年をした男だ。マフィアの男といえばなんとなくそういうイメージもある。そういう相手がいたって不思議じゃない。
と、そう思うのに、胸がちくちくして痛い。ぐるぐるとよくわからない感情が渦巻いて、その重さに息苦しくなって窒息してしまいそう。
(あー……嫌だわ。完璧に嫉妬じゃない)
エリオットには自分だけを見ていて欲しい。たとえそれが遊びだろうと何だろうと、一瞬でもエリオットが別の人のものになるのは……辛い。
ああ、自分の乙女っぷりに涙が出そうで、我ながら笑いが止まらなくなりそう。
滑稽で、無様だ。
でも、それが分かっていても、この感情を消せない。
――このまま、二人を視界に入れ続けることは、できなかった。
「エリオット。私、あっちのお店見てるわね」
「え? アリス? ちょっ……」
一方的に言い残してアリスはエリオットを置き去りにした。
逃げ出した。
「な、なんだ……?」
いきなりその場に1人残されたエリオットは、目を丸くするばかりである。
「……あなた、本当に鈍いわよね。あなたのことからかおうとしたのに、すっかり彼女さんだけ苛める格好になっちゃったじゃない……」
「いじっ……!? お前、一体アリスに何を……!」
「今、目の前で、全部見てたでしょうが」
ぼそっと呟いた女に、思わず襟首を掴まんばかりの勢いで身を乗り出したエリオットだが、ぴしゃりと言い放たれて黙り込む。
「あ……ええと……?」
「それより」
困惑顔のエリオットだが、それを無視して女は表情を一瞬、深刻げに硬くする。
「1人にしちゃ、まずいんじゃないの? だって、この辺りって……」
「……ああ。わかってるよ。またな」
その意図する意味が分からないエリオットではない。頷いて、挨拶もそこそこにすぐアリスを追って駆け出す。
この外出だって最初は迷ったのだ。それでも、自分が一緒なら決してアリスを危険な目になど遭わせはしないと、そう思ったからこそ――それなのに、束の間だろうと離れてしまっては意味が無い。
もうここは、帽子屋ファミリーのお膝元ではなく、奴らのテリトリーに近いのだから。
角を曲がり、小さな路地に滑り込み、アリスは壁に寄り掛かりながら溜息をついた。
醜い自分。エリオットの笑顔。こちらを射抜いてくる視線――。
「だぁぁぁもうー……」
暗い感情に沈むな。言い聞かせて立ち上がろうとする。この場にすっかり座り込んでしまったかのようにずるずると、重く沈んで動けない自分を叱咤する。しかし、すぐには動けそうになかった。
溜息よりも深呼吸に近いほど、大きな大きな息を吐き出し、アリスが何気なく空を見た時だった。
――足音と、不穏な気配がしたのは。
「だ……」
れ、と投げかけようとした声は途中で途切れた。一気に距離を詰めた足音の主が、アリスに腕を伸ばして来たからだ。
直感する。これは危険だ。逃げなければ。
アリスは彼らに背を向けて、先程まで歩いていた通りへ飛び出そうとする。襲われた時、逃げるならより人の多い場所へ。それが基本だと教えてくれたのは――。
「失礼」
だが、そんなアリスの行く手を新たな黒い影が遮った。黒いスーツにサングラス、それから……。
「っ……」
走る衝撃に息が詰まった。みぞおちを突かれたのだ、と思った次の瞬間には口に布が押し当てられる。ふわり漂う独特な香りに、薬品が染み込まされているのだと悟った時には、もうアリスの意識は闇に落ち始めていた。
「急げ。三月ウサギに見つかる前に引き上げるぞ」
遠のいていく意識の中で、ぼんやり聞こえた言葉がアリスに、自分が襲われた理由を教えてくれる。エリオットをこう呼ぶ彼らは、おそらく帽子屋ファミリーとは敵対する別の組織――マフィアの構成員。アリスを捕らえ、その喉元にナイフを突きつけることで、弱点を人質にとって何らかの交渉を有利に運ぼうという狙いに違いない。
でも……。
(エリオットは私を――)
微かに浮かんだ言葉が形を成す前に、アリスは完全に意識を失った。
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