1986年8月26日早朝、ニューヨーク市マンハッタンのメトロポリタン美術館裏にあるニレの木の下で、うら若き女性の遺体が発見された。彼女の名はジェニファー・レヴィン。18歳だった。
遺体は半裸で、シャツとブラジャーは首まで押し上げられ、スカートもめくられていた。パンティーは履いていなかった。死因は絞殺である。
やがて彼女のパンティーが50mほど離れた場所で発見された。おそらく彼女はこの場所で襲われて、一旦は逃げたものの追いつかれて、遺体があった場所で殺されたのだろう。ちなみに、強姦はされていなかった。
ジェニファーの前夜の足取りはすぐに割れた。未成年にも拘らず東84番街の「ドリアンズ・レッド・ハンド」というアイリッシュ・バーで飲んでいた彼女は、長身で二枚目な男と共に店を出たというのだ。その男がロバート・チェンバース(19)だった。
直ちに彼の自宅を訪問して面会を求めた捜査官は、一瞥するなり犯人であることを確信した。顔中が引っ掻き傷だらけだったのだ。その傷はどうしたのかと訊ねると、彼は飼い猫に引っ掻かれたのだと釈明したが、それはどうみても猫の仕業ではなかった。
チェンバースの供述は二転三転した。当初は共に店を出たことさえ否定していたが、目撃者がいることが告げられると供述を変えた。
「確かに一緒に店を出ましたが、途中で彼女が煙草を買いに行くというので、そこで別れました」
だが、ジェニファーは煙草を吸わない。そのことを告げられるとチェンバースは明らかに動揺し、そして、このように告白した。
「実は、彼女からセックスの誘いを受けたんです。私は誘いに乗りました。そして、共にセントラル・パークへと向かいました。彼女が求めたのは荒々しいセックス(rough sex)でした。彼女はパンティーで私の手を縛り、ペニスをいたぶりました。私は『やめろ!』と叫びました。しかし、彼女はやめませんでした。気がついたら、私は彼女の首を締めていました」
この供述を受けて捜査官はこのようにコメントした。
「長いことこの地区に勤めているけれど、セントラル・パークで女に犯されたと供述するのは君が初めてだよ」
マスコミはこの事件に飛びついた。なにしろ被害者は美人、容疑者はハンサムと来ている。しかも、容疑者はプレップ・スクール(名門大学への進学を目指す学校)の生徒で、少年時代にはカトリック教会で侍者を務めたこともある人物だったのだ。さながらテッド・バンディの再来である。マスコミはチェンバースのことを「プレッピー・キラー(Preppie Killer)」と命名し、連日のように報道した。
それは偏向報道だった。チェンバースの供述を真に受けて、あたかもジェニファーが「魔性の女」で、加害者たるチェンバースがその毒牙にかかった被害者の如く報道されたのである。その方が面白いからなのだろう。そして、そのような偏った報道は裁判にも影響を齎した。陪審員は評決に行き詰まり、司法取引を経た結果、チェンバースの刑は5年から15年の不定期刑に留まったのである。
しかし、実際にはチェンバースは「堅気」とはとても云えない人物だった。高校時代から窃盗の常習犯で、プレップ・スクールでも酒や麻薬で問題を起していた。成績は最下位である。世間は彼の見た目に騙されていたのだ。
2003年2月14日に釈放されたチェンバースは、翌年の2004年11月には麻薬所持の容疑で逮捕された。2007年10月にも同じ容疑で逮捕された。もはや彼のことを真面目な学生だったと思う者はいないだろう。
(2011年1月12日/岸田裁月) |