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テッド・バンディ
Theodore Robert "Ted" Bundy (アメリカ)



テッド・バンディ

 かのコリン・ウィルソンは著書『現代殺人百科』の「テッド・バンディ」の項を次のように書き始めている。
「テッド・バンディは殺人者としては異例に属する。法廷に彼が現われた時、そこで彼を初めて見た者は我が眼を疑った。何かとんでもない間違いが起こっているのではないか。それほどにバンディは犯罪とは無縁の好青年に見えた。しかし、セックス殺人において、彼が何か記録のようなものを作ったことは確かである」
 バンディは結局、30人の殺害を認めて死刑となった。しかし、その被害者は100人を超えると信じられている。そして、彼の経歴を見れば判るが、この頭脳明晰にして容姿端麗の男こそ、史上最悪の連続強姦殺人犯なのである。


 セオドア・ロバート・バンディ、通称テッド・バンディは1946年11月24日、バーモント州バーリントンで、21歳のルイーズ・コーウェルの私生児として生まれた。父親の素性は、今なお謎とされている。
 厳格なメソディスト派のコーウェル家にとって、娘が何処の馬の骨だか判らない男の子供を産むことは言語道断であった。しかし、教義では堕胎は許されない。招かれざる客であったテッドは結局、祖父母の子として育てられた。母のルイーズは「年の離れた姉」として育てられたのである。
 祖父のサム・コーウェルが気性の激しい人物であったことは、多くの研究書が指摘しているところである(バンディの激しい気性は祖父譲りと明言するものさえある)。家庭内暴力も絶えなかったそうだが、テッドは虐待されることなく可愛がられた。テッドも「父」として祖父を愛したが、やがて現実を知ることになる。10歳ぐらいの頃、いとこから「父なし子」呼ばわりされ、その証拠に出生証明書を見せられたのである。
 たしかに、おかしな家庭だった。テッドが4歳の時に「姉」はジョン・バンディという男と結婚したが、テッドの姓もバンディになったのだ。こうした出生を巡る事情がテッドの心に暗い影を落としたことは間違いない。テッドは自分を私生児として産み、そして、そのことを隠そうとした母が許せなかった。

 小学校に入学したテッドは、とにかく頭の切れる生徒であった。しかし、優秀な成績にもかかわらず、教師たちの評判は芳ばしくなかった。通信簿で毎回のように狂暴な性格を直すように注意された。級友によれば、テッドは普段こそは温和しいが、いったん逆上すると何をしでかすか判らなかったという。
 ハイスクールでは目立たぬ存在で、ガールフレンドはいることはいたが、恥ずかしがりやのテッドは手を握ることさえできなかった。しかし、その内面ではどす黒い情念が形成されつつあった。彼は夜な夜な自宅を抜け出し、女子寮に出向くと着替えを覗き見、せっせと自慰に耽った。
 テッドにはもう一つの病気があった。盗癖である。彼は我が家のつましい収入では到底手が届かない高級品を平気で盗んだ。
 彼は力に飢えていた。力を持つことが、すなわち私生児としての出生のハンデを埋めるものだと堅く信じていた。そして、この飢えを充たすためにテッドは、自らこうありたいと願う虚構の自画像を思い描いた。裕福なテッド。上品なテッド。賢いテッド。人気者のテッド…。この虚構の実現にとって最大の妨げとなったのは、出生を巡る現実であった。出生のハンデを埋めるために作り上げた虚構が出生のために実現されないというパラドックス。テッド少年は苦悩し、より一層の力を欲する。そして、この悪循環の末、遂に自らの欲望にのみ従い行動する人間になり果てたのである。

 凶悪な殺人者としてのテッド・バンディは、図らずしも1人の女性により完成される。弟のグレンは語る。
「兄をおかしくしたのはスティファニー・ブルックスだ。あの女にさえ会わなければ、兄は殺人鬼にはならなかったかもしれない」
 1965年、奨学金を得てワシントン大学に進学したバンディは、やがて背が高く、長い黒髪の美人、スティファニー・ブルックスと恋に落ちる。サンフランシスコの裕福な家庭に育った彼女は、その容姿といい、家柄といい、学歴といい、まさにバンディの理想とする女性であった。バンディは彼女に夢中になった。そして、早々に婚約を交わした。
 しかし、彼女と釣り合いがとれたのは、あくまでバンディの虚構の自画像とであった。現実のバンディは、貧しく、粗野で、我が儘な私生児だった。
「彼女と私はまるで高級ブティックのソックスと安売り店のローバックのようなものだった。まるで釣り合わなかったんだ」
 バンディの子供っぽさに嫌気がさした彼女は、夏の終りに婚約を破棄した。キャンパスに戻ったバンディは、失意あまり学業も手につかず、遂には退学を余儀なくされる。
 この時、バンディに克服されるべき明確な目標が誕生する。
「いつかあの女を跪かせてやる」
 そして、その後のバンディの行動はすべて、この「髪の長い女」へのコンプレクスに支配されることとなる。
 バンディは彼女を跪かせるために、例の虚構の自画像を、とにかく外見だけでも一つ一つ積み上げていった。マナーを磨き、服装に注意を払い、社交的となった。そして、政治の道に進んだ。ワシントン州の共和党員となったのだ。つまらない仕事だったが、極めて勤勉に働いた。上院議員の中にもバンディの知性や行動力に感銘を受けた者は少なくない。
「彼ならきっと知事にまで登りつめるだろう」
 人々は口々にこう噂した。
 多くの恋愛を経験して実践を積んだバンディは、いよいよ問題の「髪の長い女」、スティファニー・ブルックスと再会する。彼女はバンディの変わりように驚き、熱い関係は再燃する。ほどなく2人は婚約を交す。
 ところが、バンディは燃え上がるだけ燃え上がらせた炎をそのままにして、プイと別れを告げてしまう。彼女が電話で釈明を求めても、彼はニベもなく受話器を置くだけだった。
「自分があの女と釣り合いが取れることを証明して見せたかっただけなんだ」
 この時、テッド・バンディは完成した。



バンディの犠牲者たち

 事件はバンディがスティファニー・ブルックスを跪かせた1974年1月、ワシントン州シアトルから始まった。

 1974年 1月31日 リンダ・アン・ヒーリー(21)失踪
       3月12日 ドナ・ゲイル・マンソン(19)失踪
       4月17日 スーザン・ランコート(18)失踪
       5月 6日 ロバータ・パークス(22)失踪
       6月 1日 ブレンダ・ボール(22)失踪
       6月11日 ジョージアン・ホーキンス(18)失踪

 彼女たちはみな、髪が長かった。

 7月14日、22歳のドリス・グレイリングは、ワシントン州サマミッシュ湖畔で夫と待ち合わせていた。そこに腕にギブスをして包帯で吊った二枚目が近づいてきた。車にボートを積むのを手伝って欲しいというのだ。彼女は駐車場までついて行った。そこにはフォルクスワーゲンが停めてあったが、ボートは家に置いてあるから一緒に来て欲しいという。待ち合わせの時間が迫っていた彼女は丁寧に断わった。男も感じよく微笑んで礼を云った。数分後、彼女は先ほどの二枚目がブロンドの女の子を伴って歩いているのを目撃した。ジャニス・オット(23)である。男は「テッド」と名乗り、ボートをどうとか云っている。ははあん、これがあの男の手口か。うまくやるじゃない。
 翌日の新聞を見た彼女は震え出さずにはおれなかった。ジャニス・オットは再び生きて姿を現わすことはなかった。
 ジャニスが消えた数時間後、デニーズ・ナスランド(19)もまた同じ湖畔で消えていた。
 私もいろいろな殺人者を知っているが、一日のうちに、しかもほんの数時間のうちに2人の女性を犯して殺した元気な男をバンディをおいて他には知らない。その意味で彼の犯行は前代未聞であった。

 さあ、その日のうちに全米が「テッド」に震え上がった。3千件以上の通告が警察に殺到した。「犠牲者の1人は首をちょん切られ、もう1人は釜ゆでにされたらしい」などとデマを飛ばすお調子者も現われて、サマミッシュ湖畔はてんてこ舞いの大騒ぎになった。

 この時期のバンディはシアトルの法律事務所に勤めていた。事件当時、同僚のキャロル・ブーンはバンディの顔が「テッド」のモンタージュ写真にそっくりだと云ってからかった。これをバンディは愛想よく受け流していた。
 しかし、これを冗談で済ませなかった者もいた。当時バンディと同棲していたメグ・アンダースは、バンディこそが「テッド」ではないかと疑い始めていた。彼の机の引き出しを探すと、中からギブスと包帯が発見された。彼女は通報したが、警察の相手にもされなかった。彼女の恋人は、通報を受けた何千人ものうちの1人に過ぎなかったからである。

 9月に入って狩猟解禁になると「テッド」の埋蔵物が山奥で続々と発見された。例のサマミッシュ湖畔で消えた2人は、シアトル連続失踪事件の被害者たちと一緒に埋葬されていた。このことから一連の失踪事件はすべて「テッド」の犯行であることが判明した。
 しかし、その時には舞台は既にユタ州ソルトレイクに移っていた。バンディがワシントン州知事の推薦状を得て、ユタ大学の法科に入学したのである。


 1974年10月 2日 ナンシー・ウィルコックス(16)失踪
      10月18日 メリッサ・スミス(17)失踪
      10月31日 ローラ・エイミー(17)失踪

 彼女たちはまたしてもみな、髪が長かった。

 11月8日、キャロル・ダロンシュはショッピング・センターで二枚目に声をかけられた。私服警官だという彼は、職業的な口ぶりで彼女の車が盗難未遂にあった旨を告げた。彼女は何故にその車の持ち主が自分であると判ったのか不思議に思ったが、確認のために彼に従った。車には鍵がかかっていた。盗難にあった形跡はなかった。彼は容疑者の首実検のため、署まで来て欲しいという。見たこともない男の首実検など無意味だとも思ったが、彼女は素直に彼の車に乗り込んだ。ところが、車は署とは反対の方向に向かっている。彼女は初めて恐怖心を抱き、私服警官を名乗る男の顔を見た。二枚目は悪魔の形相に変貌していた。それはまるで、昔観た映画『ジキルとハイド』のようだった。ハイド氏は路地裏で車を停め、アイスピックで脅すと手錠をかけた。しかし、幸いなことに、彼女は既に車のドアを開けていた。ハイド氏の股間を蹴り上げると、彼女は反対車線に躍り出た。そこに偶然、車が通りかかった。彼女はこれに飛び乗り、難を逃れた。それはさながら『悪魔のいけにえ』のラストシーンのような脱出劇であった。

 同じ日の夕方、27km離れたビューモント高校で、教師のジーン・グレアム(24)が二枚目にドライブを誘われた。彼女は取りあわなかったが、学生のデビー・ケント(17)は誘いに乗ってしまったようだ。デビー捜索の過程で警察は、手錠の鍵を校庭で発見した。

 スキーのシーズンともなると、バンディはコロラド州にも出張した。

 1975年 1月11日 カリン・キャンベル(23)失踪
       3月15日 ジェリー・カニンガム(26)失踪
       4月 6日 デニーズ・オリヴァーソン(25)失踪
       4月15日 メラニー・クーリー(18)失踪
       7月 1日 シェリー・ロバートソン(24)失踪

 その間、本拠地ソルトレイクでも髪の長い女が続々と消えていた。そして、順繰りにその亡骸が発見された。いやはやまったくバンディの欲望は、底が知れなかった。



バンディのいくつもの顔

 1975年8月16日早朝、バンディはソルトレイクで遂に逮捕された。それはまったくの偶然によるものだった。交通違反をしたバンディの車を調べた警官が、アイスピックにスキーマスク、数本のロープに手錠一組というキャロル・ダロンシュの事件に符号する物件を発見したのである。
 バンディはその日のうちにも保釈金を払って釈放されたが、ジェリー・トンプソン刑事はバンディこそがダロンシュ事件の犯人と確信していた。
「しかし、あんな二枚目が女を誘拐する必要があるのかねえ」
 同僚の刑事が水を差した。
 えっ? 二枚目?
 トンプソンはシアトルで起こった「テッド」の事件を思い出した。ひょっとしたらバンディが「テッド」なのかも知れない。調べてみればなるほど、彼がソルトレイクに移り住んでからは「テッド」はシアトルに現われていない。
 これは予想以上の大捕り物になりそうだぞ。
 トンプソンは早速、バンディの身辺調査を開始した。

 トンプソンは初めての大物を相手に、慎重に捜査を進めた。これに対してバンディは、自分に容疑がかけられていることを承知の上で、警察との知恵くらべを楽しんでいるようだった。尾行者をからかう余裕さえ見せ、家宅捜査も平然と許した。
「あなたもなかなかのやり手ですな」
 彼はトンプソンを嘲笑った。
「このまま頑張れば、そのうち出世するかも知れませんよ」
 トンプソンはこの家宅捜索で、コロラド州の地図を押収した。そういえば、コロラドでも類似の連続殺人事件が起きている。
「おまえは最近、コロラドに行ったことはあるか?」
「何を云い出すんですか。一度も行ったことありませんよ」
「じゃあ、これは何だ」
「友人の忘れ物ですよ」
「しらばっくれるな!」
「いいですか、刑事さん。あなたは証拠らしい証拠を何一つも掴んではいないんですよ。そんなことで私を有罪に出来ると思ってるんですか?」
 こんな挑発的な言葉に応えるかのように、
トンプソンは地道に証拠を固めていった。キャロル・ダロンシュとジーン・グレアムにも協力を願って首実検を行った。結果、2人ともバンディを選び出した。これを受けてトンプソンは、バンディをキャロル・ダロンシュの誘拐及び殺人未遂の罪で告発した。

 バンディはたちまち有名人となった。彼の経歴と風貌は犯罪者に相応しくなかったからだ。多くの人々が冤罪ではないかと訝しく思った。調子に乗ったバンディは
警察を罵り、自分を犯罪者扱いしたマスコミを非難した。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの『収容所群島』を携えて入廷し、自らの境遇をこの弾圧を受けたソビエトの作家に準えたりもした。
 しかし、陪審員は有罪を評決し、1年から15年の禁固刑が宣告された。



バンディの指名手配書

 警察がバンディをこれだけで許す筈はなかった。一連の連続殺人事件で告発する準備を進めていた。
 一方、バンディは自ら弁護の指揮をとると主張し 国選弁護人に対しては慇懃な態度で接した。検察官はこのように語っている。
「あんな生意気な奴は初めてだね。なにしろ弁護人に対してあれこれ指示するんだ。出廷する時は法律書を山ほど抱えて、まるで自分が弁護人でございと云わんばかりさ」
 いざ本番という法廷に法律書を山のように持ち込んだからといって役に立つものではない。むしろ法廷で法律書を参照しなければならない弁護人は無能者と云うべきであろう。思うに、これはバンディお得意のハッタリだろう。本を山積みにされると素人は「これはスゴイ」と錯覚してしまうものなのだ(ましてや、アメリカでは事実認定を行うのは素人たる陪審員である)。

 もっとも、バンディの弁護士気どりは、必ずしもハッタリだけが目的ではなかった。アメリカでは自分で自分の弁護を務める被告人には通例、一定の行動の自由が認められている。例えば、図書室での判例集の閲覧などが許される。バンディはこうした自由を利用して、脱走を企てたのである。

 1977年6月7日、バンディは予審のためにコロラド州ピトキン郡裁判所に護送された。彼はいつものように図書室に入って行った。手錠と足かせは外されていた。彼は図書室の窓を開けて9メートル下の地面に飛び降りた。3分後、一人の婦人が狐につままれた表情で裁判所に入ってきた。
「この辺じゃ当り前なことなの? 裁判所の窓から男の人が飛び降りるなんてことが」

 テッド・バンディ逃走のニュースは全米を駆け抜けた。付近の住民は野放しになった狂犬に怯え、お調子者たちはバンディの快挙にエールを送った。バンディTシャツが飛ぶように売れ、バンディ・バーガー(中身を開けると肉は姿かたちもない、つまり、中身が逃げ出してしまったハンバーガー)なるものも売り出された。ヒッチハイカーは冗談で「私はバンディに非ず」の看板を掲げた。全米が現代のビリー・ザ・キッドに熱狂した。
 しかし、バンディの逃走劇は、決してビリー・ザ・キッドのようなカッコいいものではなかった。街を抜けた彼はアスペン山中へと向かい、2日に渡って道に迷った挙句、ゴルフ場でキャデラックを盗み、シアトルに向かう途中で地元の保安官に呼び止められた。
「よお、テッド。元気かね」
 保安官はニヤリと笑ってこう挨拶した。

 バンディは厳重な護衛付きで拘置所に帰還した。以後、彼が監房から出るときは必ず足かせがはめられるようになった。
 やがてバンディのコロラド州での裁判は、その係属がアスペンからスプリングスへと移されることが決定した。これを知ったバンディは判事に向かって毒づいた。
「この私に死ねというのか!」
 スプリングス裁判所は、死刑判決が下る確率が高いことで有名だったのである。

 1977年12月30日、上の決定を受けてバンディは再び脱走を企てる。16kgも減量した彼は、独房の天井に弓鋸で開けた小穴から娑婆に抜け出したのだ。シアトル一帯には非常線が張られた。問題のメグ・アンダースは警察に保護された。しかし、肝心のバンディはというと、方向違いのフロリダに向かっていた。
 バンディはこの時、もう殺人から足を洗おうと考えていた。名前を変え、別の人間として人生を再スタートさせることを決意していた。しかし、彼の内なる欲望が、彼に平凡な生活を許さなかった。バンディは殺しの衝動をもはや制御できなくなっていた。



法廷で吠えるバンディ

 1978年1月15日午前3時、フロリダ州立大学の学生ニタ・ニアリーは恋人に別れを告げると、裏口からこっそりとカイ・オメガ女子寮に帰宅した。ふと正面玄関から外を見ると、そこには1人の男が棍棒を握りしめて佇んでいた。ただごとではない。通報しようと電話に急ぐと、カレン・チャンドラーが血みどろでよろめき出た。頭を殴られている。キャシー・クライナーもやられていた。顎を砕かれている。マーガレット・ボーマンリサ・レヴィーは血の海の中で倒れていた。マーガレットは既に息絶え、リサも救急車の中で絶命した。
 信じられないことだが、バンディの夜はまだ終っていない。
 カイ・オメガの惨劇から1時間半後、数ブロック離れた別の女子寮に住むデビー・チカリッソは、隣室からの激しい物音で目を覚ました。時計を見るとまだ5時前だ。ルームメイトを起こして2人で聞き耳を立てると、何かを叩くような音に続いて、慌ただしい足音が聞こえてきた。2人は意を決して隣室の扉を開けた。そこにはシェリル・トーマスが頭を割られて 血みどろで倒れていた。

 バンディは何故、こんな大それたことをやらかしたのだろうか? 派手な行動は自分の居場所を教えるようなものだ。長い拘束からの解放感が彼の理性を狂わせたのだろうか?
 この点、バンディの犯行を忠実に再現したTVM『ダブル・フェイス』での解釈が注目に値する。
 バンディはもう殺人をやめたかった。しかし、自分だけではやめることが出来なかった。だから、誰かに止めてもらいたかった。フロリダ州は死刑判決が下る可能性が最も高い土地である。それを知ってバンディは、この地を選んで凶行に及んだ。
 つまり、彼は死刑になりたかったのである。
 私はこの解釈は真実に近いと考えている。それは意識的なものではなかったかも知れない。しかし、無意識に自己破壊願望が働いた蓋然性はかなり高い。何故なら、バンディは今回初めて物証を残したからである。そして、これがバンディの致命傷となった。その物証とは、リサ・レヴィーの臀部に残された歯形だった。

 女子寮での惨劇を繰り広げたバンディは、しばらくは偽名でその地に潜伏していたが、誰も自分がバンディと気づかないことに業を煮やしたのか、車を盗むとシアトル方面へと向かった。そして、最後の犠牲者たるキンバリー・リーチ(12)を手にかけた直後に逮捕された。
 この捕り物はちょっとした見ものだったらしい。派手なカーチェイスの末に追い詰められたバンディは両手を挙げて降参した、と思いきや警官に足払い。もう1人が発砲すると、バンディは彼の顎にアッパーを食らわせた。いや、まるで映画のようだが、しかし、多勢に無勢。かくして希代の殺人鬼は御用とあいなる。連行される途中でバンディは、発砲した警官にこのように語りかけたという。
「あの時、あんたに撃ち殺されていればよかったよ」

 バンディの裁判はテレビ中継された。まるで我々がオウム真理教に見入ったように 合衆国市民全員がバンディの裁判に注目した。
 彼はマスコミをフルに利用した。数々のインタビューに応え、自叙伝を出版し、シアトル時代の同僚、キャロル・ブーンとの結婚というゴシップまで提供した。しかし、彼がいくら無実を訴えようとも、その言動は嫌疑を増すばかりだった。
 彼は法廷で感情の赴くままに笑い、怒り、そして暴れた。リサ・レヴィーの臀部に残された歯形の写真が提出されると、彼は法律書を抱えて退廷しようとした。
「もうこんな茶番にはつきあっていられない」
 これを警備員が止めると突然暴れだした。そして、傍聴席に向かって喚きたてた。
「あんたたちは俺を殺したいんだろう! そうなんだろう!」

 1979年7月23日、人々の期待通り、バンディは死刑を宣告された。判決に際してのカワート判事の発言が有名である。
「からだには気をつけなさい。このような人間性の浪費を見たのはこの法廷にとっても悲劇でした。君は頭のいい青年です。立派な法律家になったかも知れない。君がこの法廷に弁護士として立っていればどんなによかったかと思う。私は君に敵意はまったく持っていない。これは信じて欲しい。しかし、君は道を間違えた。からだには気をつけなさい」
 バンディはこれをどんな気持ちで聞いていたのだろうか。
 いずれにしてもバンディは、監獄でもいろいろと暗躍した末に(未解決連続殺人事件の捜査協力を申し出て、少しでも生き長らえようとした)、1989年1月24日、電気椅子により処刑された。42歳だった。
 その処刑を伝える新聞の見出しには「殺人鬼は笑みを浮かべて死んだ」とある。いかにも彼らしい死にざまである。


参考文献

『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック4(ディアゴスティーニ)
『連続殺人者』タイムライフ編(同朋舎出版)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『大量殺人者の誕生』エリオット・レイトン(人文書院)
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


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