ハリウッドの有名女優、セルマ・トッドの死は公式には事故死とされているが、殺人の可能性が濃厚である。不審な点が多く、その背後にはマフィアの影がちらついている。
セルマ・トッドは1905年7月29日、マサチューセッツ州ローレンスの政治家ジョン・ショー・トッドの娘として生まれた。1921年にミス・マサチュセッツに選ばれるも、芸能界に進む気などさらさらなく、教師になったというから大した才媛だ。
そんな彼女に転機が訪れる。父の友人の劇場支配人が「こんな別嬪さんを教師にしていたんじゃもったいない」と、パラマウントのプロデューサー、ジェシー・ラスキーに彼女の写真を送りつけたのだ。ラスキーはたちまち彼女に惚れ込んでしまった。頭もいいようだし、いい女優さんになるぞ!
「あなたには持って生まれた素質がある。是非ニューヨークにあるパラマウント俳優学校に入学したまえ」
しばらくは思案していたセルマだったが、父に背中を押されるかたちで俳優への道を志した。
極めて熱心な生徒だったセルマは、めきめきと頭角を現していった。6ヶ月後の1926年3月にはすべての課程を終了し、パラマウントと1年間の契約を結ぶ。デビュー作『魅惑の若者』(サム・ウッド監督)でコメディエンヌとしての天賦の才能を発揮した彼女は、以後「アイスクリーム・ブロンド」の愛称で様々ジャンルの作品に出演した。
陽気な彼女の出演作はやはりコメディが多い。例えばバスター・キートンの『歌劇王』、ジョー・E・ブラウンの『爆裂珍艦隊』、ローレル&ハーディの『極楽浪人天国』。マルクス兄弟の『いんちき商売』と『御冗談でショ』にも出演している。私はこの2本でセルマ・トッドという女優に出会った。素晴らしかった。しかし、その時には既に彼女の悲劇的な死を知っていた。
スクリーン上では陽気に振る舞うセルマだったが、その実生活では金にうるさかったという。いつまでも出来る仕事ではないことを知っていたのだろう。引退に備えて不動産投資を始め、1935年にはサンタモニカとマリブを結ぶパシフィック・コースト・ハイウェイ沿いに「セルマ・トッドのサイドウォーク・カフェ」を開いた。共同経営者は映画監督のローランド・ウエスト。当時のセルマの愛人だった。
なお、セルマは一度結婚している。1932年7月、相手は芸能エージェントのパスカーレ・ディシッコである。そして1934年3月に離婚。理由は虐待だったという。しかし、二人はその後もたびたび会っている。まあ、同じ業界にいるのだから、会わないわけにはいかなかったのだろう。
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