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ラッキー・ルチアーノ
Charlie "Lucky" Luciano
a.k.a. Salvatore Lucania (アメリカ)



ラッキー・ルチアーノ


マイヤー・ランスキー


フランク・コステロ


ベンジャミン・シーゲル

 ラッキー・ルチアーノ、本名サルヴァトーレ・ルカーニアは、従来のマフィアを一新し、アメリカ流のビジネスライクに再構築した、いわばギャング界の新人類である。これまでのように縄張りを巡ってドンパチするのはやめて、互いに協力し合って儲けようやと提唱したのだ。そして、全国のマフィアを組織化し、その最高幹部の座についた。まことに頭のいい男である。やってることはトンデモねえが、彼の生涯を眺めていると素直に「すげえ」と声を上げてしまう。


 1897年11月24日、シチリア島で生まれたサルヴァトーレ・ルカーニアは、1906年11月に両親と4人の兄弟と共にニューヨークに移住する。父親は定職につけずに日雇い労働者として働いた。云うまでもないが、極めて貧しい生活だった。
 英語がヘタなために学校には馴染めなかったルカーニアは、愚連隊に加わって、ユダヤ人の子供を相手にカツアゲする毎日だった。
「アイルランドの野郎から守ってやるから金払いな」
 子供たちはしぶしぶと1セントを支払ったが、中に1人だけ頑に応じないチビがいた。マイヤー・ランスキー。後にルチアーノのブレインとなる金儲けの天才である。
「おい、お前も払えよ」
 ルカーニアが片言の英語で凄むと、チビはこうやり返した。
「くそくらえ」
 面食らったルカーニアは、思わず吹き出してしまった。チビの度胸に感心したのだ。
「いい度胸だ。お前のことはロハで守ってやるよ」
 この時、史上最強の犯罪コンビが誕生した。後にルチアーノは2人の出会いをこのように語っている。
「たちどころに相手のことが判ったんだな、お互いにね。あれは2人が片時も忘れたことのない大切な瞬間だった」

 ランスキーが成績優秀だったのに対して、ルカーニアは無断欠席の常習犯としてブルックリンの補導学校に入れられて、そこで4ケ月過ごした。学んだことは泥棒とスリのノウハウばかり。そりゃそうだろう。まわりはワルばかりなんだから。
 やがてシチリア人ばかり10人ほどのギャング団を結成した彼は、盗みとゆすりを繰り返した。ローワー・イーストサイドにはこうしたお子さまギャング団がいくつも存在し、互いに鎬を削っていた。その中の1つのリーダーがフランク・コステロ、本名フランチェスコ・カスティーリャである。ルカーニアはコステロに一目置き、彼らとは友好を保っていた。

 1916年、19歳のルカーニアは麻薬の密売に手を染めるほどのワルに成長していた。かっぱらい程度ならば警察も眼をつぶるが、麻薬となれば話は別だ。かくして逮捕されたルカーニアは、ハンプトン刑務所に半年間ぶち込まれる。この経験はかなり応えたようだ。
「もう2度と逮捕されまいとその時に誓った」
 以降のルカーニアは慎重に事を運ぶようになる。

 シャバに出たルカーニアがまずしたことは、マイヤー・ランスキーを一味に加えることだった。まだ15歳と若年だが、腕っ節が強くて度胸もある。そして、なによりも頭が良かった。彼が仲間になれば百人力だ。
 快く仲間入りしたランスキーは1人の少年を連れて来た。そのユダヤ人の少年は、11歳にしては大柄で、暴れ出すと止まらないので「バグジー」と呼ばれていた(「キチガイ」のスラング)。もうお判りだろう。この男こそ「ラスベガスを作った男」、ベンジャミン・シーゲルである。
 さらに、銃器不法所持の罪で服役していたフランク・コステロが仲間に加わる。かくしてギャング史上最強のチームがここに結成された。

 ちなみに、フランク・コステロはカスティーリャという本名の通りにイタリアの出身(但し、シチリア島ではなくカラブリア地方)だが、自ら好んで「コステロ」というアイルランド名を使用していた。この通り名は後日、アイルランド系が牛耳るニューヨークの政界に喰い込むに当たって極めて有用だったという。
 また、サルヴァトーレ・ルカーニアも自らを「チャーリー・ルチアーノ」と名乗るようになっていた。


 まずは強盗団としてスタートしたルチアーノ一味は、すぐにギャンブルを仕切った方がリスクが少なく、実入りもいいことに気づいた。何よりも当たったのが、ランスキーが考案した「ナンバーズ・ゲーム」だ。いわば「数当て宝くじ」で、価格はわずか数セント。カジノに出入りできない貧乏人にも一攫千金の夢を与えたのだ。
「ナンバーズ・ゲーム」でかなりの収益を上げたルチアーノは
「バイマネー・バンク(Buy-Money Bank)」と称する基金を設立した。いわば「賄賂銀行」である。臭い飯に懲りていたルチアーノは、賄賂をバラ蒔くことで先手を打ったのだ。運用を任されたのは人当たりの良いコステロだった。

 このようにルチアーノ一味は極めて合理的に事を運んだ。ルチアーノが指揮を取り、参謀のランスキーが策を練る。それを実行に移すのがコステロで、トラブルが起こればシーゲルの出番だ。やがて禁酒法が施行されると、ルチアーノ一味は膨れ上がった。手下も増えた。
 ヴィト・ジェノヴェーゼ
 カルロ・ガンビーノ
 アルバート・アナスタシア
 ルイス・レプケ
 ダッチ・シュルツ
 どいつもこいつも後世に名を残す大悪党だ。



在庫を川に棄てるビール製造者

 禁酒法はどうしてかくも莫大な利益をマフィアに齎したのか?
 考えてもみて欲しい。それまでは合法だった数億ドル規模のビジネスが、1920年1月17日午前0時1分を境に違法となってしまったのだ。そして、それがそっくりそのまま裏社会に流れ出た。儲からない筈がない。もうウハウハである。
 しかし、動く金が大きければ大きいほど、縄張りを巡る抗争が絶えない。互いに足を引っ張り合い、やがて闇市場は供給不足と価格の高騰に見舞われる。
 当時まだ31歳になったばかりのルチアーノは、参謀のランスキーに相談した。

「どうしたらいいと思う?」
「密造酒事業を全国規模で組織化するより他ないな」
「組織化?」
「全国の親分を一堂に会して、縄張りの取り決めを行うんだ。まず、ナショナル・コミッションを創立して、密輸酒の公平な割当を保証する。その上で平和協定を結ばせるんだ。うちはコステロのコネで密輸酒に関してはかなり押さえている。だから、優位な立場で事を運べる筈だ」
「なるほど」
「禁酒法の寿命はそう長くはない。撤廃されれば、またドンパチが始まる。そうならないための布石がコミッションだ。その長になるのが、チャーリー、お前だよ」

 かくして1929年5月
、ニュージャージー州アトランティックシティに全国の親分どもが集結した。フィラデルフィア、ボストン、クリーヴランド、デトロイト、ロングアイランド。もちろん、その中にはシカゴのアル・カポネもいた。彼はつい3ケ月ほど前に「聖ヴァレンタイン・デーの虐殺」をやらかしたことで親分どもの顰蹙を買っていた。

「カポネのように今後も抗争を続ければ、官憲どもも黙っちゃいない。取り締まりが強化されることは眼に見えている。これからは共存共栄の時代だ。もう身内同士でドンパチやる時代は終わったんだ」

 概ねの賛同は得られた。具体的なコミッションの創立については見送られたものの、この会合がマフィア近代化の第一歩となったことは間違いない。




サルヴァトーレ・マランツァーノ


ジョー・マッセリア

 さて、この頃のルチアーノは、地元ニューヨークの大親分サルヴァトーレ・マランツァーノジョー・マッセリアの縄張り争いに悩まされていた。
 マフィアの伝統を重んじるマランツァーノは、ユダヤ人とコンビを組むルチアーノのことをよろしく思っていなかった。そのことを知っていたルチアーノは、マッセリアの傘下に入ることを選んだ。しかし、決してマッセリアを信頼していたわけではない。自らを「ジョー・ザ・ボス」と名乗るこの男は、粗野で癇癪持ちの、どうしようもない大馬鹿野郎だった。
 この両名をどうしたら始末できるのか、ルチアーノは考え倦ねていた。

 それは1929年10月17日のこと。ルチアーノはスタテンアイランドの倉庫でマランツァーノと密会していた。
「お前はどうしてマッセリアみたいなチンピラの軍門に下る? 私の配下になるなら幹部に取り立ててやると約束しただろう? それなのにどうして?」
「いえ、うちにはうちの事情がありますので」
「ユダヤ人か? いいんだいいんだ。私は一向に構わないよ。私はそんなに融通の利かない男じゃない。但し、1つだけ条件がある」
 マランツァーノは声を潜ませて云った。
「お前の手でマッセリアをバラすんだ」
 ルチアーノは直感的に「こいつは罠だ」と悟った。こいつは俺にマッセリアを殺らせておいて、俺まで殺るつもりだ。ルチアーノは云い返した。
「へっ、バカ云いなさんな」
 その時、ルチアーノの後頭部に鈍器が振り下ろされた。いつの間にかマランツァーノの手下どもに取り囲まれていたのだ。
 しまった。油断した。
「チャーリー、こんな真似はしたくはなかったんだが仕方ねえ。今すぐやめてもいいんだぜ。お前さんがおとなしく云うことを聞くってえならな」
 この時、ルチアーノはランスキーとの出会いを思い出した。俺が脅した時、あいつは何て云った? そうだ。あいつは勇敢にも、こう云ったんだ。
「くそくらえ」
 そう云い放つなり、ルチアーノはマランツァーノの股間を思いっきり蹴り上げた。
 ムヒョ〜ッ。
 き、きっさまあ、なにすんねんといきり立ったマランツァーノは、ナイフを手に取るとルチアーノの顔から胸から滅多矢鱈に斬りつけた。
「バラしてもいいぞ。そいつはもう用済みだ」
 こう云い捨てるとマランツァーノは現場を後にする。続くのは彼の部下による地獄の「かわいがり」だ。
 ボフッ。グフッ。ゲフッ。ヌフッ。
 ズブッ。バフッ。エフッ。バスッ。
 ドフッ。ズスッ。ビスッ。エグッ。
 ギフッ。バズッ。モムッ。デヘッ。
 かようにさんざっぱら痛めつけられたルチアーノは、倉庫の路地裏に捨てられた。
 ところが、ルチアーノは死ななかった。巡回中の警官に発見されて、九死に一生を得たのである。
「なんてラッキーな男だ」
 かくして、チャーリー・ルチアーノは「ラッキー・ルチアーノ」と呼ばれることになるのだった。


 ルチアーノはその晩の出来事を誰にも明かそうとしなかった。そして、虎視眈々と復讐の機会を窺っていた。彼が取った手段は、さながらハメットの『血の収穫』の如く、はたまたその翻案である黒澤明の『用心棒』の如く、マランツァーノとマッセリアの対立を煽り、共に疲弊させることだった。
 まず彼が眼をつけたのは、ブロンクス界隈を仕切るトム・レイナだった。レイナはマッセリアの配下にいたが、マランツァーノに寝返る動きを見せていたのだ。ルチアーノはヴィト・ジェノヴェーゼに命じてレイナを暗殺させた。そして、裏切りを察知したマッセリアの仕業であることをマランツァーノに臭わせたのだ。
 次なる標的はマッセリアのボディガード、ピエトロ・モレッコだった。ルチアーノはアルバート・アナスタシアに命じてモレッコを暗殺させた。そして、マッセリアにはマランツァーノの仕業だと吹き込んだのだ。
 逆上したマッセリアは、シカゴの盟友カポネに頼んで、マランツァーノ配下のジョー・アイエロを暗殺させた。
 次に狙われたのはマッセリア自身だった。アジトから足を踏み出したところをマランツァーノが放った刺客に銃撃されたのだ。しかし、ガードの固いマッセリアを殺害するには至らなかった。

 こうした小競り合いが延々と続いた。「カステランマレーゼ戦争」と呼ばれた一連の抗争による死者は60人近くにも及んだと云われている。その多くがルチアーノによる演出だったことは云うまでもない。
 マッセリアがかなり疲弊していることを悟ったルチアーノは、いよいよその首を取る決意をする。マランツァーノをブロンクス動物園に呼び出すと、
「あんたの云うことを聞くよ。マッセリアを殺る」
「そうか。やっと決心してくれたか」
 ルチアーノの右の瞼は、あの時の切り傷のために腫れ上がったままだった。
「あの時、そう答えてくれれば、そんなことにならなかったのになあ。悪かったなあ」
「いや、そんなことよりも、ランスキーのことは」
「ユダヤ人か? いいんだいいんだ。シチリア人でなくても構わないよ。大いにやってくれ。但し」
 マランツァーノは声を潜ませて云った。
「必ずマッセリアをバラすんだ。いいな」

 1931年4月15日、ルチアーノはマッセリアのアジトで密談していた。その内容とは「マランツァーノの幹部を20人まとめて暗殺して起死回生を図る」。
「刺客はうちで手配する。その代わりにニューヨークでの密造酒事業はうちがすべて支配する。この条件を飲んでくれれば、すぐにでも実行に移すよ」
 ルチアーノのこの提案に、背水の陣のマッセリアは上機嫌だ。
 密談が終わった頃には正午をとっくに回っていた。ルチアーノは云った。
「前祝いに昼飯でもどうだい? うまいレストランを知ってるんだ」
 大食漢のマッセリアがこれを断る筈がない。2人は「ヌオヴァ・ヴィッラ・タンマーロ」というイタリアン・レストランに出向くと、遅めのランチを楽しんだ。メインはロブスターのトマトソース煮。
「なるほど、こりゃうめえな」
 マッセリアの胃袋は大満足だ。デザートを終えて、2人がトランプに興じる頃には午後3時を回っていた。ここでルチアーノが中座する。
「ちょっと小便」
 アズ・スーン・アズ、4人の黒服がレストランに乱入する。
ヴィト・ジェノヴェーゼ、アルバート・アナスタシア、ジョー・アドニス、そしてバグジー・シーゲル。
 タタタタタタタタタタタタタタタタタタタタン。
 計20発の銃弾が放たれ、うち6発がマッセリアの体内にめり込んだ。
 あっと云う間の出来事だった。トイレから出て来たルチアーノは、
「あれまあ」
 と、呆然とする演技をするだけだった。


 次はマランツァーノを始末する番だ。ルチアーノは密かに全国の親分衆と連絡を取り、マランツァーノ討伐の許しを得ていた。
 当時のマフィアの趨勢は、既にルチアーノ流のビジネスライクに変貌しつつあった。故に古きシチリアの厳しい掟を重んじるマランツァーノは煙たがられていたのだ。だから、ルチアーノが「殺ってもいいかな?」とお伺いを立てれば「どうぞどうぞ、ご自由に」ってな調子だったのだ。
 一方、マランツァーノはマランツァーノで、ルチアーノを幹部に取り立てつつも、その暗殺を画策していた。やがて、殺し屋のヴィンセント・コールがマランツァーノに2万5千ドルで雇われたとの情報がルチアーノの耳に入る。いよいよ来やがったか、あのジジイめ。眼に物を見せてやる。

 ルチアーノのもとにマランツァーノからの呼び出しの電話があったのは1931年9月9日のことである。
「ああ、チャーリーかね。仕事の件で話し合いをしたいので、明日の午後2時にうちの事務所まで来て欲しい。ヴィト・ジェノヴェーゼも一緒に頼む」
 ほう、ヴィトと一緒にバラす気だな。
 実はルチアーノは既に綿密な暗殺計画を練っていた。4人のユダヤ人ヒットマンを雇い入れ、国税局査察官として振る舞わせるために2週間に渡って教育していたのだ。間違いのないようにマランツァーノの顔を憶えさせ、事務所の間取りも記憶させた。教育係はランスキーだ。ルチアーノはこの準備のために8万ドルも費やしたと云われている。
 翌日の9月10日午後2時少し前、計画は澱みなく実行された。令状と共に4人の査察官がマランツァーノの事務所に押し入り、ボディガードどもの身体検査をしてチャカを取り上げる。そして「聞きたいことがある」と2人の査察官がマランツァーノを別室に連行、すぐさまナイフを胸に突き刺した。唯一の誤算は、マランツァーノがなかなか死ななかったことだ。6回に渡って突き刺しても、喉を切り裂いても抵抗を続け、頭に4発の銃弾を撃ち込むことでようやく動かなくなった。

 この事件が全国に報道されると、人々は口々に「シチリアの晩鐘の夜」の噂をした。すなわち、マランツァーノが殺された同じ日に、旧世代のマフィアの親分が何十人も血祭りに上げられたというのだ。ところが、実際にはそのようなことはなかった。ニューヨークを制したルチアーノに反旗を翻す者は1人もいなかったのだ。
 かくして若干33歳のルチアーノは合衆国マフィアの頂点に君臨した。アトランティックシティに続くシカゴでの2度目の会合で「コミッション」が実現し、ルチアーノがその「取締役会長」の座についたのである。しかし、抜け目ないルチアーノは己れの権力を誇示することなく、その投票権は他の委員と平等であることを強調した。或る親分がルチアーノに上納金を差し出すと、彼は丁重に断った。
「そんなことしてもらっちゃ困る。俺たちはみんな平等なんだから」
 この言葉を聞いたアル・カポネは「こいつ、頭がおかしいんじゃないか?」と思ったという。たしかに、カポネなら喜んで金を受け取ったことだろう。しかし、だからこそカポネは全国制覇できなかったのだ。器が違うのだ。




ダッチ・シュルツの暗殺現場

 そんなカポネが脱税で挙げられ、1933年12月5日に禁酒法が撤廃されると、いよいよマフィアにとっての冬の時代が到来する。収益自体はハバナへの投資等、賭博事業を強化することで確保できたが、取り締りが以前にも増して厳しくなったのだ。その背景には禁酒法の反省もあったのだろう。心ある者は禁酒法以前の汚職のない健全な国づくりのために躍起になっていた。特別検察官のトマス・E・デューイもその1人だ。

 幾人かの親分を脱税で挙げたデューイの次なるターゲットは、ルチアーノ配下のダッチ・シュルツだった。ブルックリンの密造酒事業を一手に引き受けていたシュルツは、金をバラ蒔くことで脱税については無罪となった。しかし、デューイは諦めなかった。殺人の容疑でシュルツを追いつめて行った。
 半ばノイローゼ状態に陥ったシュルツは、デューイの暗殺を企てた。これにはルチアーノをはじめとする「コミッション」全員がノーを出した。デューイを殺せば騒ぎが大きくなるだけだ。波風は立てるな。ところが、シュルツは聞く耳を持たなかった。
「残念だが、消えてもらうしかないな」
 デューイの暗殺に失敗して、殺人の容疑で逮捕されれば、シュルツは司法取引に応じてすべてをバラす危険があったのだ。
 かくして1935年10月23日、ダッチ・シュルツは3人の腹心と共に潜伏先のニュージャージー州ニューアーク「パレス・チョップ・ハウス」での会食中に、ルイス・レプケが率いる「マーダー・インク」の2人の刺客に襲撃された。シュルツは即死ではなかった。20時間にも渡ってワケの判らないことをボヤき続けた後、ようやく絶命した。


 標的を失ったデューイはいよいよ本命のルチアーノに眼をつけた。しかし、彼の「アリバイ」は完璧だった。殺人に関してはもちろんのこと、賭博にしても恐喝にしても脱税にしても、すべてにおいてワン・クッション置いている。彼が犯したあらゆる犯罪について立件することは不可能に思われた。
 ところが、盲点があった。強制売春である。売春に関してはルチアーノは手下の自由裁量に委ねていた。そのために穴が多かったのだ。つまり、ルチアーノは皮肉にも、己れがノータッチだった部分で起訴されるに至ったのだ。
 当初はルチアーノも高を括っていた。俺を売る売女などいないだろうと。ところがどっこい、デューイはちゃんと証人を用意していた。なんと68人も。いずれもデューイに「逮捕するぞ」と脅されて、已むなく協力した者ばかり。デューイはそれほどにルチアーノの投獄に執念を燃やしていたのだ。
 かくして、ルチアーノは強制売春の容疑で有罪となり、この罪としては異例の30年から50年の刑を宣告されたのだった。1936年6月6日のことである。

 ところが、ルチアーノは服役後も「取締役会長」であり続けた。刑務所の中ではやりたい放題。うまいもの食べ放題。面会に来た腹心に指示を出し、組織を指揮監督していた。ただシャバに出られないだけだった。
 ようやくシャバに出られるようになったのは第二次大戦のおかげである。連合軍のシチリア上陸を援護するようにパルチザンに指令を出したことの見返りに恩赦を獲得したのだ。その橋渡しをしたのは、当時ニューヨーク知事にまで上り詰めていたトマス・E・デューイである。かつての宿敵がその放免に手を貸したのだ。政治とは、そういうものなのであるなあ。

 1946年2月、故郷シチリア島に強制送還されたルチアーノは、すぐにでもアメリカに戻れると思っていたようだ。
しかし、そうは行かなかった。1962年1月26日に心臓発作で死亡するまで、遂にアメリカに渡ることは出来なかった。
 トンデモないことをしてきた男だ。しかし、そうせざるを得なかった。そうしなければ生きて行けなかった。そして、頂点に立った。そのことには素直に敬意を表する、ルチアーノ、あんたは大した男だ、と。

(2007年11月24日/岸田裁月) 


参考文献

『マフィアの興亡』タイムライフ編(同朋舎出版)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『20世紀全記録』(講談社)


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