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ピーゼンホール・ミステリー
The Peasenhall Mystery (イギリス)



誰がローズを殺したのか?

 1901年1月22日にヴィクトリア女王が崩御し、いよいよモダンな時代に突入する。しかし、世相がガラリと変わったわけではない。当初はまだヴィクトリア朝の慎ましやかな倫理観が支配していた。そんな中でスキャンダラスな話題を振り撒いたのが、この「ピーゼンホール・ミステリー」である。

 1902年6月1日、イングランド東部サフォーク州の小さな町、ピーゼンホールでの出来事である。その日の朝早く、クリスプ家で住み込みの女中をしていたローズ・ハーセント(23)の遺体が、洗濯物を届けに来た父親により発見された。喉を切り裂かれ、ナイトドレスが半ば焦げている。傍らにはランプと割れた薬瓶。中身はパラフィン油だった。犯人は遺体を焼こうとしたのだろうか?
 ローズの部屋からはこのような手紙が発見された。
「今晩12時に貴方の部屋でお会いしたい」
 消印は5月31日。つまり犯行の当日である。この手紙の差出人が犯人である可能性が高い。動機は痴情のもつれだろう。そこで容疑者として浮上したのがウィリアム・ガーディナー。彼はローズとの不倫が噂されたばかりだった。

 三十代半ばで6人の子持ちの大工ウィリアム・ガーディナーは熱心なメソジスト派の信者で、日曜学校の教師をしていたことから「ホーリー・ウィリー」の綽名で知られていた。そんな「ホーリー・ウィリー」が聖歌隊の一員だったローズと噂になったのは昨年のことである。2人で空き家にしけ込むところを町内の若い衆に目撃されていたのだ。
 若い衆たちが忍び寄って聞き耳を立てると、衣擦れと共にあんあんあんと心地よい喘ぎ声が聞こえてくる。
「たまんねえなあ、おい」
「おれ、ちょっと勃っちゃったよ」
 あんあんあんあんあんあんあんあん。
「おっ。そろそろフィニッシュか?」
 絶頂を告げる一際高いああんの後にしばしの静寂。やがてローズが口を開いた。
「今度の日曜日はこれをお話しされるといいわ」
「えっ?」
「創世記第38章、オナン、地に洩らしたり」
 この一連の目撃談が若い衆により広められて、「ホーリー・ウィリー」の綽名は立ち所に「オナン=膣外射精」になってしまった。小さな町では大スキャンダルである。教会のエライさんが調査に乗り出したほどだ。ガーディナーは噂を否定し、
「開かないドアを2人であんあんあんと開けていたのです」
 などと苦しい弁明をしたが信じてもらえず、厳重注意を云い渡されたばかりだったのだ。そこへ来てこの事件である。彼が疑われたのも無理はない。検視解剖によりローズの妊娠が発覚したことも彼に不利に働いた。
 更にまずいことに、現場に残されていた薬瓶にはガーディナーの息子の名が記されていた。これが決定的な証拠となりガーディナーは逮捕された。

 裁判ではガーディナーに不利な証拠が続々と提出された。
 まず、ガーディナーが所持していた折り畳みナイフには血痕が残っていた。彼は兎の血だと弁明したが、結局いずれかは判然としなかった。当時の英国ではまだパウル・ウーレンフートによる血液識別法が普及していなかったのだ。
 また、犯行の翌朝にガーディナーが自宅の裏庭で焚き火をしていたとの証言も飛び出した。初夏に焚き火とは不自然である。血に染まった衣類を焼却していたのではなかったか?

 これに対して弁護人は、妻によるアリバイ証言を軸に、薬瓶の件をこのように弁明した。
「あの瓶にはもともと樟脳油が入っていました。奥方が風邪を引いた子供たちのために処方してもらったものです。そして、ローズも風邪を引いたと云うので、奥方自らが彼女に貸し与えたのです」
 そして、殺人ではなく事故だったと主張したのだ。つまり、ランプと薬瓶を持ったローズが階段でこけて、割れた薬瓶で喉を切り、ランプの火がナイトドレスに燃え移った…。
 あり得ない話ではない。ローズの遺体は階段の下にあったのだ。
 有罪に傾いていた陪審員が揺らぎ始めた。結局、意見が割れて評決に至らなかった。再審も同じ結果で検察は訴追を断念、ガーディナーは釈放された。

 ローズは殺されたのか? それとも事故だったのか?
 この点、コリン・ウィルソンは、ローズには他にも愛人がいた可能性を示唆している。
「ローズの部屋から極めて卑猥な小唄が発見された。これはローズに恋い焦がれていた隣室の若者が書いたものであることが明らかになった。ローズは恥ずかしがり屋の娘などではなく、猥歌でも平気で保存しておくほどのあけすけな田舎娘だったのだ」
 つまり、殺人だったとしてもガーディナーが犯人とは限らないのである。

(2007年1月10日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『情熱の殺人』コリン・ウィルソン(青弓社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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