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マルゲリート・ファーミー
Marguerite Fahmy (イギリス)



マルゲリート・ファーミー

 コリン・ウィルソンは著書『情熱の殺人』の中でこのように述べている。
「この前年に英国の陪審は、明らかに無実の女性、イーディス・トンプソンを絞首刑に処していた。そしてこの年には、明らかに有罪の女性を無罪放免にしたのである。人生とはこんなものかもしれない」
 その「明らかに有罪な女性」が、このマルゲリート・ファーミーである。

 エジプトの「大金持ちのどら息子」を殺害したマルゲリートは、もともとは田舎町の貧しい娼婦だった。娼館のおかみ、マダム・デナールに見込まれて、ひと通りの身だしなみを教わることでパリの高級娼婦に成り上がったのだ。そして、1919年に「金持ちのどら息子」チャールズ・ローレントを射止めるも、一女をもうけるやすぐさま離婚。「大金持ちのどら息子」アリ・ケマル・ファーミー・ベイに乗り換えたのだ。
 そりゃ単なる「金持ち」よりも「大金持ち」の方が乗り心地はよかろう。

 とにかく、アリの大金持ちっぷりは半端じゃなかった。お小遣いは年10万ポンド。ベンツ1台、ロールスロイス2台、ビュイック1台、ルノー1台、プジョー1台、小型のオープンカー数台にバイク5台、モーターボートも数台所有していたというから、典型的なクルマ馬鹿だ。当時21歳の彼はプレイボーイとしても鳴らしていたが、そんな彼がどうして11歳も年上の、しかも子持ちでバツイチのマルゲリートを娶ったのか? そのワケがよく判らない。それほど美人でもない(左の写真は写りのよいものを選っている)。よっぽど床上手だったとしか思えない。

 とにかく1922年7月に結婚したマルゲリートは、イスラム教に改宗したものの、その生活は高級娼婦の頃と変わりなかった。肩を出したドレスを身につけ、毎晩のようにパーティーに出掛けた。
「パーティーに行くなとは云わない。しかし、ショールだけは羽織ってくれ」
「イヤよ。暑苦しいし、私の魅力が台なしよ」
「いいから羽織れ!」
「だからイヤだって云ってるじゃないの!」
 2人は毎日のようにいがみ合った。
 やがてマルゲリートの浪費も争いのタネに加わる。とにかくブランド品を買い漁るのだな、このアマは。いくら大金持ちとはいえ、連日のように散財されては堪らない。アリはカルティエとヴィトンの店に電報を打つ。
「もうツケで売るのはやめてくれ」
 1923年7月9日のことである。まさかその晩に殺されるとは、夢にも思わなかったことだろう。

 その日、ロンドンのサヴォイ・ホテルに滞在していた2人は、夕食の席でいつものように口論を始めた。やがてマルゲリートがフランス語で叫ぶ。
「黙らないと、このボトルで頭を殴るわよ!」
 やれやれ、まただよ。気を利かせたバンド・リーダーが「お好みの曲を演奏しましょうか?」と声をかけると、
「音楽なんか聴きたくもないわ! 今夜にでもこの男に殺されるかも知れないのよ!」
 部屋に戻ってからも2人のいがみ合いは続いた。あまりの大騒ぎに従業員が注意するほどだった。そして午前2時頃、3発の銃声が鳴り響いた。何事ぞと支配人ともども駆けつけると、床に倒れたどら息子の頭からは血がだくだく。そばにはマルゲリートが「おや、まあ」ってな風情で立っている。だらんと下げた右手には、まだ煙を立ち上らせている拳銃が握られていた。

 誰がどう見てもマルゲリートは黒である。ところが、帝都ロンドン随一の辣腕弁護士、エドワード・マーシャル・ホール卿の手にかかれば黒が白になるのだから驚きだ。ミラクルというほかない。
 しかし、このたびの彼の戦法は頂けない。被害者がエジプト人であることを悪用し、陪審員の人種的偏見に訴えたのである。曰く、被害者は甚だしい男尊女卑の教えのもとに育った云々。曰く、被告人を殴る蹴るは日常だった云々。曰く、性的倒錯も著しく、被告人はアナル・セックスを強要されていた云々。つまり、マーシャル・ホールは「見目麗しい白人女性が肌の浅黒い野蛮人に蹂躙されていた」との幻想を陪審員に植えつけたのだ。
 その上で、銃は暴発したのだと主張した。あくまで威嚇するつもりで銃を向けたら暴発したというのだ。
 んなわけあるかい。3発も暴発するもんか。
 ところが、陪審員は信じてしまった。否。信じたわけではないのだろう。最終弁論におけるマーシャル・ホールのこの一言が利いたのだ。
「陪審員の皆様。ドアを開けて、この西洋の女性が外に出て行けるようにして頂けませんか」
 陪審員はわずか1時間の審議で無罪を評決。もしマルゲリートが白人ではなかったら、こうはならなかった筈である。恐ろしいことである。

 かくして無罪放免を勝ち取ったマルゲリートは、今度は250万ポンドにも及ぶアリの遺産獲得に果敢に挑んだ。自らが殺してしまっているので相続権がないことは云わずもがなだが、子供がいれば相続できる。しかし、彼女はアリの子は身籠っていない。そこで、カメルという薮医者に2500ポンド支払って、偽の出生証明書を作らせた。この悪事が露見するとチェコのボヘミア地方に逃げ延び、エジプト人の妻役などで映画に出ていたようである。1971年にパリで死亡。享年80というから長生きだ。人生とはこんなものかもしれない。

(2007年5月23日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『情熱の殺人』コリン・ウィルソン(青弓社)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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