ジェノサイド直後の現場で
「新年おめでとう」のたれ幕を外す関係者 |
彼の生涯を振り返ると、たしかに同情の余地がないでもない。しかし、だからと云って彼の女性蔑視の態度が正当化される謂れはない。このような男が存在するから田嶋先生が怒るのだ。
マルク・レピンは1962年、ケベック州モントリオールでガミル・ロドリゲ・ガルビとして生まれた。父親のラチド・リアス・ガルビはアルジェリア出身の金融マンで、かなりの高額所得者だった。しかし、その哲学は極端な男尊女卑であり、妻のモニクは毎日のように虐待された。そんな家庭で明るい子が育つ筈もなく、ガミルは友達のいない陰のある子に育っていった。
ガミルが7歳の時に両親は離婚した。母親を虐待した父親を心の底から憎んでいた。だからこそ、彼は母の姓を名乗り、父が与えた名を棄ててマルクと改名したのである。しかし、それと同時に母親の、ひいては女性の無力を嘆いていた。女はなんと頼りない生き物であることか。彼は女性を蔑視し始めた。
自活しなければならなくなったモニクは看護婦の仕事に復帰した。熱心な彼女はやがて婦長に任命されたが、忙しさにかまけて息子に構ってやれなくなった。哀れなマルクは母親に棄てられたと思った。女性に対する憎悪の萌芽がこの時に芽生えた。
内向的な少年だったにも拘らず、男っぽさを求めていたレピンは軍隊に志願した。17歳の時のことである。しかし、不採用となったのは先の遺書の通りである。
21歳の時にはモントリオール大学工学部のエコール・ポリテクニークに入学を志願したのだが、またしても不合格となった。ウェイターのアルバイトをすれば、ニキビが不潔だとの女性客のクレームを受けて裏方に回される。皿洗いをすれば皿を割る。注意されれば喰ってかかる。クビになれば不当解雇だとがなり立てる。かくかようにして女性への謂れなき憎悪を募らせて行ったのである。彼をクビにした上司も、その後釜に座ったのも女性だったのだ。
子供の頃から機械いじりが好きなレピンは、やがてモントリオールの専門学校でコンピューター・プログラミングの授業を受け始めた。優秀な生徒だったようだが、人付き合いはまったく出来なかった。そして、或る日突然に退学した。どうしたのかと思っていたら、ほどなくして新聞の一面を飾る彼の顔に仰天した次第である。
1989年12月6日、モントリオール大学エコール・ポリテクニークの教室に乱入したレピンは、ライフルを構えて叫んだ。
「女は左に、男は右に分かれろ!」
学生たちは何かのジョークかと思ったらしい。失笑が漏れると、レピンは天井に向けて発砲した。一同は眼が点になった。
「俺はフェミニズムと戦っているんだ!」
女学生の一人が言葉を遮った。
「ちょっと待って。私たちは普通の学生よ。フェミニストじゃないわ」
間髪入れずにレピンは彼女に目掛けて発砲した。
私はジェノサイドには興味がないので結果だけを云うと、14人の女性が死亡、男性を含む13人が重軽傷を負う大惨事となった。レピンも頭蓋骨を撃ち抜いて自殺した。この男についてはこれ以上、何も云うべきことはない。
ゴミみたいな男である。
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