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マルク・レピン
Marc Lepine (カナダ)



マルク・レピン

 語りベの立場から云わせて頂ければ、70年代から急増し始めた無差別大量殺人、いわゆる「スプリー・キラー」はつまらない。あらすじがいつも同じだからだ。ワンパターンなのだ。
 大量殺人者の多くは、己れを「ひとかどの人物」だと信じている。しかし、その実際はちっぽけなゴミなのだ。そのギャップに彼は苦しみ、己れを認めない世間に毒づき、思い知らせてやろうと牙を剥くのだ。それは復讐であり、売名でもある。多くの命と引き換えに彼は歴史に名を残し、己れが「ひとかどの人物」であることを証明するのだ。だから、彼らについて語ることはそれこそ思う壷なので、出来ることならやめるべきだ。しかし、彼らの惨めな生涯を晒しものにすることで追随者を抑止する効果もあるかと思う。
 これだけは云っておかなければならない。
 殺人者をアイドル視してはならない。彼らはいずれも正視に耐えないほどに惨めな落伍者なのだ。マルク・レピン(25)が書き残した遺書を見よ。

「これを書くのに15分しか時間がない。誤字脱字はお許し願いたい。
 まず断っておかなければならないのは、私が今日、自ら命を断つとすれば、それは経済的な理由からではなく(その証拠に私は有り金が底をつくのを待っていた。そのために定職にもついていない)あくまで政治的な理由に基づくものである。私は今、私の人生を常に破滅に導いたフェミニストどもにアド・パトレス(筆者註:「先祖の元への召喚」という意味のラテン語らしい)を送りつけることにした。7年前から私の人生は暗澹たるものだった。もううんざりだ。あの口喧しい女どもに引導を渡してやることを決意した。
 私は若い頃、軍隊に志願したことがある。合格していれば、武器庫に忍び込んでロルティに先んじることが出来た筈だ。ところが、連中は非社会性を理由に私を拒絶した」

「ロルティ」とは、1984年にケベック州議会に乱入し、3名を殺害、13名に重軽傷を負わせたドニ・ロルティのことである。遺書は続く。

「私が学業に打ち込めなかったのは、こうなる運命を予期していたからだ。それでも私はよい成績を修めた。レポートも出さず、一夜漬けなどしなくても。メディアは私のことを気が狂った殺人鬼と呼ぶだろうが、私は己れを合理的で学識のある人物だと理解している」

 うんざりするので、少し省略する。

「フェミニストどもは常に私を怒らせてきた。連中は女であることの利点を享受しつつ、男の利点をも奪おうとしている。
 フェミニストほど虫のいい連中はいない。奴らは男がこれまで蓄積してきた知恵の恩恵を蒙っていることには眼をつぶる。そして機会さえあれば男に取って代わろうとしているのだ。そんな力量もないクセに。
 先日、世界大戦の最前線で戦ったカナダ人の男女を賞賛する声を耳にした。はあ??? 女は前線に派遣されてさえいなかったのだぞ。いずれシーザーの女軍やらガレー船を漕ぐ女奴隷やらの戯言を耳にするかと思うと頭が痛い。連中はそのうちに歴史上の戦士の半分が女だったと云い出すだろう。しかし、事実は違うのだ。勇敢に戦ったのは男だけなのだ。これが私のカースス・ベリー(筆者註:「開戦理由」という意味のラテン語らしい)である」

 この後に、彼が殺したい19人の女性の名前が並ぶ。それはコラムニストであったりTVキャスターであったり労働組合幹部であったりした。いくつかの名前の横には電話番号が記載されており、彼が暗殺計画に着手していたことが窺える。

「時間不足のために、この急進的なフェミニストたちは生き長らえている。
 アレア・ヤクタ・エスト(筆者註:「賽は投げられた」の意味のラテン語らしい)」

 負け犬の典型のような惨めったらしい遺書である。己れが如何にインテリであるかを誇示し、犯行を政治的なものと主張しているが、その文面からは「女に怨みがあるおバカさん」としか思えない。しかも、実際に殺したのはフェミニストでも何でもない普通の女子大生なのだ。彼はその大学の入学に失敗し、「女のために落とされた」と逆恨みして犯行に及んだのである。情けなくて涙が出る。



ジェノサイド直後の現場で
「新年おめでとう」のたれ幕を外す関係者

 彼の生涯を振り返ると、たしかに同情の余地がないでもない。しかし、だからと云って彼の女性蔑視の態度が正当化される謂れはない。このような男が存在するから田嶋先生が怒るのだ。

 マルク・レピンは1962年、ケベック州モントリオールでガミル・ロドリゲ・ガルビとして生まれた。父親のラチド・リアス・ガルビはアルジェリア出身の金融マンで、かなりの高額所得者だった。しかし、その哲学は極端な男尊女卑であり、妻のモニクは毎日のように虐待された。そんな家庭で明るい子が育つ筈もなく、ガミルは友達のいない陰のある子に育っていった。
 ガミルが7歳の時に両親は離婚した。母親を虐待した父親を心の底から憎んでいた。だからこそ、彼は母の姓を名乗り、父が与えた名を棄ててマルクと改名したのである。しかし、それと同時に母親の、ひいては女性の無力を嘆いていた。女はなんと頼りない生き物であることか。彼は女性を蔑視し始めた。
 自活しなければならなくなったモニクは看護婦の仕事に復帰した。熱心な彼女はやがて婦長に任命されたが、忙しさにかまけて息子に構ってやれなくなった。哀れなマルクは母親に棄てられたと思った。女性に対する憎悪の萌芽がこの時に芽生えた。

 内向的な少年だったにも拘らず、男っぽさを求めていたレピンは軍隊に志願した。17歳の時のことである。しかし、不採用となったのは先の遺書の通りである。
 21歳の時にはモントリオール大学工学部のエコール・ポリテクニークに入学を志願したのだが、またしても不合格となった。ウェイターのアルバイトをすれば、ニキビが不潔だとの女性客のクレームを受けて裏方に回される。皿洗いをすれば皿を割る。注意されれば喰ってかかる。クビになれば不当解雇だとがなり立てる。かくかようにして女性への謂れなき憎悪を募らせて行ったのである。彼をクビにした上司も、その後釜に座ったのも女性だったのだ。
 子供の頃から機械いじりが好きなレピンは、やがてモントリオールの専門学校でコンピューター・プログラミングの授業を受け始めた。優秀な生徒だったようだが、人付き合いはまったく出来なかった。そして、或る日突然に退学した。どうしたのかと思っていたら、ほどなくして新聞の一面を飾る彼の顔に仰天した次第である。

 1989年12月6日、モントリオール大学エコール・ポリテクニークの教室に乱入したレピンは、ライフルを構えて叫んだ。
「女は左に、男は右に分かれろ!」
 学生たちは何かのジョークかと思ったらしい。失笑が漏れると、レピンは天井に向けて発砲した。一同は眼が点になった。
「俺はフェミニズムと戦っているんだ!」
 女学生の一人が言葉を遮った。
「ちょっと待って。私たちは普通の学生よ。フェミニストじゃないわ」
 間髪入れずにレピンは彼女に目掛けて発砲した。
 私はジェノサイドには興味がないので結果だけを云うと、14人の女性が死亡、男性を含む13人が重軽傷を負う大惨事となった。レピンも頭蓋骨を撃ち抜いて自殺した。この男についてはこれ以上、何も云うべきことはない。
 ゴミみたいな男である。


参考文献

『大量殺人者』タイムライフ編(同朋舎出版)
週刊マーダー・ケースブック71(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)


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