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ジョン・ノーマン・コリンズ
John Norman Collins (アメリカ)



ジョン・ノーマン・コリンズ


デヴィッド・レイクの家

 1969年7月29日、ミシガン州警察のデヴィッド・レイク刑事は、家族旅行から帰宅して、地下室の床に黒ペンキが塗られている部分があることを発見した。自分が塗った憶えはないし、家族の者にもいないという。旅行中に留守番を頼んでおいた妻の甥っ子、ジョン・ノーマン・コリンズの仕業だろうと彼は思った。

 翌日、警察に出勤したレイクは意外なことを知らされた。甥のジョン・コリンズが、巷を騒がせている連続殺人事件の最有力容疑者だというのだ。ピンときたレイクは、地下室のペンキを剥がしてみると、茶色い染みが現れた。血痕のように見えたが、鑑識によればニスだった。しかし、洗濯機の下から髪の毛が見つかった。レイクが散髪してやった息子の髪の毛である。そして、それは最後の犠牲者、カレン・スー・ベイネマンの性器の中に押し込められていたパンティの中からも発見された。やはり地下室が犯行現場だったのである。
 コリンズはニスの染みを血痕だと思い、ペンキを塗って誤魔化した。しかし結果として、そのことが警察を証拠に導いたのだった。皮肉なはなしである。

 コリンズの最初の犯行は2年前に遡る。1967年7月10日、ミシガン大学の学生だったメアリー・フレッツァーが行方不明になった。遺体が発見されたのは8月7日のことである。手足を切断されて野原に放置されていた。葬儀には友人と名乗る男が現れて「遺体の写真を撮らせて欲しい」とトンデモないことを云い出した。遺族はもちろん拒否したが、思えばその男こそがコリンズだった。

 ほぼ1年後の1968年7月1日、やはりミシガン大学の学生だったジョーン・シェルが行方不明になった。5日後に発見された遺体は、強姦された上に47ケ所もめった刺しにされていた。彼女が行方不明になる直前にコリンズと一緒にいたことが目撃されていた。しかし、コリンズはその時刻には母親と一緒にいたと主張した。警察はアリバイを認めて、それ以上は追求しなかった。

 1969年3月21日、やはりミシガン大学の学生、ジェーン・ミクサーの遺体が共同墓地で発見された。銃で撃たれた上、ナイロンのストッキングで絞殺されていた。強姦されていなかったのは月経中だからだと思われた。

 4日後の3月25日、今度はまだ16歳のマラリン・スケルトンの遺体が発見された。彼女は麻薬常習でたびたび警察のお世話になっていた札付きの不良少女だった。鈍器で殴られ、頭蓋骨が陥没していた。そして、膣には木の枝が突っ込まれていた。

 4月16日には、まだ13歳のドーン・ベーソムの遺体が発見された。強姦された上に電気コードで絞殺されていた。

 6月9日、今度はミシガン大学の大学院生、アリソン・カロムの遺体が発見された。全身をめった刺しにされた上に喉を掻き切られ、頭部を銃で撃たれていた。

 犯人の凶行は次第に頻繁に、且つ残虐になっていった。7月26日に発見されたカレン・スー・ベイネマンの遺体はこれまでの中で最も酷かった。性器を中心に切り刻まれ、前歯が折られていた。胸部は酷くただれていた。アンモニアのような腐蝕性の液体をかけられたのだ。手首と足首には縛った跡があり、被害者は長時間に渡って拷問された末に殺されたことが窺えた。そして、人間の尊厳を貶めるかの如く、性器の中にパンティが押し込められていたのだ。

 もうこれ以上、このキチガイを野放しにするわけには行かない。警察は数々の目撃証言から、ミシガン大学の学生であるジョン・コリンズを最有力容疑者として絞り込んでいた。そんな折に冒頭の発見があったのである。更に、地下室の床からは本物の血痕も発見された。それは被害者の血液型と一致した。これが決め手となり、コリンズは終身刑を宣告された。

 コリン・ウィルソンは、コリンズとテッド・バンディの類似性を指摘している。共になかなかの二枚目であり、実生活でも女に不自由していなかった。にも拘わらず、女を強姦して虐殺する道を選んだ。常人の理解を越えているが、彼らの中ではこの方程式は成り立っていたのかも知れない。その理屈は、おそらく彼らにしか判らない。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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