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「ヴァンプ」の時代が終わり、代わって登場したのが「イット・ガール」ことクララ・ボウである。
 クララはヴァンプのおどろおどろしい人工美とは対照的に、健康的なセックスを売り物にした。彼女の初期主演作は南海もので、半裸のシーンがふんだんに盛り込まれていた。そして、1927年の《イット》(日本語で云う「あれ」、すなわちセックスそのものの意)の大ヒットでクララは「イット・ガール」としての地位を不動のものとした。
 クララは同時に「フラッパー」の元祖ともなった。チャールストンの陽気なリズムに合わせてはしゃぎまくるオツムの軽い女の子。それが「フラッパー」だった。20年代に台頭したモダニズムは彼女たちにフリーセックスをもたらした。古い因習に囚われない彼女たちに、まだピューリタニズムに支配されていた世間は眉をひそめた。

 クララの私生活は、映画と同様「あれ」そのものであった。彼女は多くのスターたちと寝た。その中にはまだ新人だったゲイリー・クーパーや、驚くべきことに希代のドラキュラ俳優ベラ・ルゴシもいた。かかりつけの医師ピアソン博士を寝取り、博士の妻から妻権侵害を理由に3万ドルの慰謝料を搾り取られたこともあった。
 性豪クララの武勇伝の一つに、南カリフォルニア大学のフットボール・チーム全員を順番にお相手したという物凄いエピソードがある。この大男の中には後のビッグ・スターがいた。チームのタックル、マリオン・モリソンは数年後、ジョン・ウェインの名で映画デビューを果たした。


 クララはギャンブル狂としても有名であった。毎晩のようにカードを興じては大金をスっていた。リノのカジノでは大失敗をした。彼女は一枚100ドルのチップをいつものように50セントだと思っていた。結局、大負けした彼女は2万4千ドルの小切手に署名をさせられた。翌日、彼女は小切手の決済を拒んだ。カジノの用心棒がオフィスに乗り込み、睨みを効かせて脅迫した。
「ないものは払えないっていってんだよッ」。
 クララは居直った。事実、彼女は連日の豪遊が祟ってオケラだった。
「なにおぉ、このアマッ。俺をナメっと承知しねえゾッ」。
「おや、そうかい。どおするってえのかい?」。
「払わねえなら、てめえのツラに硫酸ぶっかけてやらあッ」。
 この脅し文句を切っ掛けに刑事たちがなだれ込む。賢明なクララはいざという時のために、刑事たちを隣の部屋に待機させていたのだ。哀れ用心棒は恐喝の現行犯で逮捕され、クララは借金を免れた。しかし、新聞はクララの支払拒絶を書き立てた。彼女の人気に陰りが見え始めた。


 

 ここでウォール街が大暴落する。日々のパンを求めて行列する人々にとって「フラッパー」は既に過去のものであった。
 トーキーの到来も彼女の足を引っ張った。ロングアイランドに大邸宅を構える上流階級の奔放な娘。これがサイレント時代のクララに観客が抱いたイメージだった。そんな彼女の口から発せられたのは下品なブルックリン訛りのアヒル声。観客は幻滅した。
 こんなエピソードもある。クララの初トーキー作品でのこと。音響マンはこのブルックリン娘の威勢のよさを知らず、目盛りを下げておかなかった。クララは開口一番、元気よく叫んだ。
「ねえ、みんなッ」。
 途端、録音室の真空管がすべて吹っ飛んだ。

 やがて、彼女の女優生命を葬る事件が勃発した。1930年、クララの秘書デイジー・デヴォーが彼女の過去4年間に渡る男性遍歴をスキャンダル誌に売り渡したのだ。デイジー嬢は結局、クララの銀行口座から大金を着服していたことが発覚、監獄送りとなったが、クララは取り返しのつかない痛手を負った。この「淫売」の排斥運動が各地で頻発(それはでぶ君以来の熱狂ぶりだった)、パラマウントは已むなく契約を御破算にした。
 失意のクララはカウボーイ俳優レックス・ベルと結婚、ネバダの牧場に隠居した。ここでアルコールと睡眠薬の日々が続く。やがて神経衰弱を起こして入院、その後の人生のほとんどをサナトリウムで送った。
 いやはやなんとも。