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 フランスの啓蒙家、ボルテールに《カンディード》という小説がある。これはライプニッツあたりの楽天主義批判を目的に著されたものだが、とにかくも主人公カンディードに降り掛かる災難の数珠繋ぎが圧巻で、今日ではむしろブラックユーモアの古典としての意義を有している。
 フランシス・フォード・コッポラ監督
《地獄の黙示録》の舞台裏がまさにこの《カンディード》であった。悲惨に継ぐ悲惨の数々。悲惨のスペクタクルとでも云おうか。これほどに悲惨な舞台裏を私は知らない。では、いったい何があったのか?。順を追って紹介することにしよう。

《地獄の黙示録》は、ジョセフ・コンラッドの小説《闇の奥》を映画化したものである。
《闇の奥》は数多くの映画作家に製作を断念されてきた「曰く付き」の作品であった。最初に挑戦したのはオーソン・ウェルズ。そもそも《闇の奥》はウェルズの最初の映画になる筈だった。しかし、製作費を恐れたRKOが降り、企画は結局《市民ケーン》に変更された。
 脚本を担当したジョン・ミリアス曰く、
「映画関係者ならば《闇の奥》を評して口を揃えてこう云うだろう。この本は誰も歯が立たない。オーソン・ウェルズでさえ諦めた。しかし、若い脚本家ならこう思う。ならば俺が挑戦してやる。もちろん、私も挑戦した」。


 1969年、コッポラは「ハリウッドに属しない映画会社」を目指してゾエトロープ社を設立。早速、野心に燃えた若者たちの間で《闇の奥》の企画が持ち上がった。
 ミリアスは原作では象牙商人だったカーツを軍人に設定、舞台もコンゴからカンボジアに移し、大胆にもベトナム戦争の映画に焼き直した。エリート軍人だったカーツはジャングルの魔力に屈して発狂、原住民の王となり大虐殺を繰り広げていた。カーツ暗殺の指令を受けたウイラード大尉は4人の部下を率いて川を遡る。道中でウイラードが見たものは、亜熱帯の地で静かに発狂していくアメリカ人たちの姿であった.....。
 企画の段階では監督はジョージ・ルーカス。彼らはベトナムの戦場で撮影することを考えていた。

「ちょうどテト攻勢が始まった頃だった。友人たちは徴兵を逃れようとカナダに移住したり、結婚したりしていた。そんな時に俺たちは機材担いでベトナムに行くことを考えていたんだ。これを聞いた映画会社の重役に怒鳴られたよ。このバカッ、みんな死ぬゾッてね。それでベトナム行きは諦めた」(ジョン・ミリアス)。

「いろいろな会社にこの企画を持ち歩いたけど、皆から冷たくあしらわれた。戦争の真っ最中にその戦争の映画などもってのほかだというわけさ。圧力と面倒を恐れたんだ」(ジョージ・ルーカス)。

「みんなが戦争反対を叫び、各地で暴動が起きている時だった。そんな時にこんな企画を取り上げると思うかい?。映画会社のお偉いさんにそんな勇気はないさ」(ジョン・ミリアス)。

 かくして《闇の奥》の企画は文字通り、闇の奥へと消え去る。


 数年後、コッポラは偶然にも《ゴッドファーザー》の監督を務めることになる。マフィアの弾圧を恐れて監督のなり手のなかった企画のおはちが回ってきたのである。パラマウントもこの企画には大して期待していなかった。マフィア映画は当らないというジンクスが当時のハリウッドにはあったからだ。ところがどっこい、蓋を開けたら史上空前の大ヒット。コッポラは一躍、時代の寵児に躍り出た。
 当時の《刑事コロンボ》にはこんな台詞がある。

「私の若い頃はギャング映画に夢中でねえ、ハンフリー・ボガードやらジェームス・ギャグニーやら、とにかくそんなポスターを部屋中にベタベタと貼ったもんさ。それが私の甥ときたら何のポスター貼ってると思う?。映画監督のコッポラさ」。

 コロンボが嘆くのも無理はない。コッポラはお世辞にもハンサムとはいえないブ男である。しかし、彼は今や、低迷していたハリウッドの救世主であった。そして、金持ちとなり、次第に傲慢になっていった。プロデューサー、トム・スタンバーグは云う。

「コッポラは、これは今も変わっていないと思うが、自分が映画を作ると宣言すれば、金が自然と集まってくると思っていた」。

 それほどに当時のコッポラは天狗になっていたのである。