1975年、《ゴッドファーザー・パート2》に続く企画として、再び《地獄の黙示録》が持ち上がった。 「オリジナル脚本を書くには最低半年はかかる。しかし、《地獄の黙示録》なら手直しだけで企画が進められる。それでゴー・サインを出したんだ」(コッポラ)。 それだけではないだろう。名声と富を手にした今、この未曾有の企画に挑戦したかったに違いない。あのオーソン・ウェルズが断念した企画を実現するんだと。しかし、コッポラには超大作を指揮するだけの準備はまだ出来ていなかった。 「コッポラは直感で演出する。現場で即興的に生まれてきたものを映画に取り入れる。こうした方法で作られた映画は往々にして面倒に陥る」(ジョージ・ルーカス)。 つまり、コッポラは撮影直前になって思いつきで脚本を書き直すタイプの演出家なのである。従って、綿密なスケジュールの下に製作されるべきスペクタクル巨編には向かないのだ。 「彼から毎朝配られる予定表には時々「シーン未定」という記入があった。私たちは何を撮るか判らずに集合した」(フレデリック・フォレスト)。 とにかくも《地獄の黙示録》は総予算1300万ドルでスタートしてしまった。ゾエトロープ社は外部の干渉を恐れて資金を自社調達、コッポラは私財をすべて抵当に入れた。 |
キャストはカーツ役にマーロン・ブランド、これを追うウイラード大尉にはハーベイ・カイテルが決定した。 |
1976年2月から始められた撮影が早々に遅れた理由はもう一つある。撮影1週間にして主役のハーベイ・カイテルが解雇されたのである。 「俺は自分を誰にも売り渡したくなかった。ただそれだけさ」。 新鋭俳優として注目されていたカイテルのハリウッドでのキャリアはこれで終わった。《レザボア・ドッグス》でブレイクするまでは、彼はインディペンデントで糊口をしのぐことになる。 |