御蔵島の歴史的出来事

米軍射爆場候補事件   更新 2017年09月10日 
  ベトナム戦争にアメリカが参戦しようとしている1964年。水戸ではこれに備えて射爆訓練が行われていました。水戸では米兵による犯罪が発生して問題となっていただけでなく誤爆も大きな問題となっていました。すでに1945〜1963の間、事故件数で313件、死傷者20名が出ていました。しかし最も大きな問題は隣の東海村には原子力施設があり、もし原子力設備を誤爆してしまった場合、首都圏に大きな被害をもたらす危険性があったのでした(参考資料:衆議院 第46回国会科学技術振興対策特別委員会 第4〜第6号議事録 1964年 )。政府はこの代替地を求め、射爆訓練候補地として御蔵島に白羽の矢を立てました。射爆訓練に使用される爆撃機は、最高速度がマッハ2を超える超音速の核爆撃機F-105D サンダーチーフ。ベトナム戦争でのアメリカ空軍による爆撃(北爆)の75%はこの爆撃機によるものだったとされています。またこの爆撃機は単座(一人乗り)であり、操縦と爆撃を一人で行わなくてはならず、正確に爆撃目標を核攻撃するには技術習得が大変困難な爆撃機だったのです。それではいったいどの様な爆撃方法だったのでしょうか。

 F-105D が目標に核攻撃を行う場合の課題として、核爆発に自分がまきこまれないようにするため、逃げる時間を稼ぐ必要がありました。それを実現する方法がトス・ボミング(toss bombing)でした。トス・ボミングとはレーダーに探知されないように超低空で攻撃目標まで接近し、急上昇しそのまま縦旋回(Loop)をしながら核爆弾を投げ上げるように切り離し、そのまま縦旋回を続けて一回転して水平飛行に戻り、核爆弾がゆっくりと放物線を描いて落下し、ある高度で核爆発するまでの間に高速で離脱回避する爆撃方法でした。超低空で侵入することから米空軍ではラブズ(LABS:Low Altitude Bombing System)とも呼ばれていました。LABSのシステムにより核弾頭は自動的に切り離されますが、すこしタイミングがずれただけで、核爆弾はどこに飛んでいくか分かりません。つまり正確なアクロバット飛行技術と正確な核爆弾の切り離しタイミングが要求される爆撃だったのです。

水爆搭載を目的に作られたリパブリックF-105Dサンダーチーフ爆撃機。1964年、御蔵島はこの爆撃機の射爆訓練候補地となった。(写真は合成です)
射爆場反対運動で御蔵島の人や自然を守るのに貢献した植物学者の高橋基生博士の顕彰碑稲根神社拝殿にあります。
 御蔵島が射爆場候補地となった年から遡ること5年前の1959年9月6日、沖縄県の伊江島でも、このラブズ(LABS:Low Altitude Bombing System)と呼ばれる爆撃方法の訓練が行われていました。この日のラブズの訓練の際に模擬核爆弾MD-6が民間の畑に飛んで行ってしまい、この誤爆により28歳の青年が亡くなっていました(NHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」2017年9月10日放映)。核爆弾の投下訓練だったということはつい最近判明しました。

 つまり射爆場候補地となったこの頃から、御蔵島の人々の生活も、実は密かに核とは無関係ではなくなっていたのでした。吹き荒れる季節風の為に船の欠航が続き、外から情報が入ってこない状況下、不安な状況に置かれた村民を代表して、当時の広瀬助役と栗本郵便局長は防衛庁から正確な情報を得るため、1月の荒れた冷たい冬海に飛び込み、荒波に翻弄されながら沖で待つ定期船まで決死隊となって泳いで渡ったと言います。当然射爆場候補に対しては村人が村民大会を開き、猛烈な反対運動を展開。新島と三宅島の住民がこれを援護しました。 

 最終的に防衛庁は1964年5月、射爆場候補地建設を「御蔵島は適切でない」という見解から候補地を取り下げました。反対運動があった為かどうかは今ではわかりません。高度150mという低空でターゲットに接近し核爆弾を切り離すLABSの訓練地としては、御蔵島の切り立った地形は確かに適していないとも言えます。但しそれだけでも無いようです。F-105の米軍射爆場候補地の撤回が決定される直前の1964年5月9日、実はアメリカ空軍のアクロバットチーム(サンダーバーズ)でF-105の墜落事故が発生し、別部隊でも直後にF-105の墜落事故が発生し、以降F-105はサンダーバーズでの使用が全面中止となったのでした。そしてその事故の直後、同月中にF-105のアクロバット飛行技術が要求されるトス・ボミングの米軍射爆場候補が急遽撤回となったのでした。米軍のこうした技術的な問題による戦略の転換は公表されることはありませんが、その3か月後の1964年8月からベトナム戦争に投入されたF-105は、トスボミングによる本来の核爆弾を落とす機体としては一度も使われることはありませんでした。そしてあたかも大量に余ってしまったF-105Dの機体の消耗を急ぐかのように751機中436機がトラブルや撃墜で失われて行きました。そして射爆場候補地撤回の翌年の1965年には、F-105 を開発、製造していたリパブリック社もフェアチャイルド社に買収され、早々にF-105自体が開発・生産共に終了してしまいます。御蔵島の射爆場候補地撤回は、実はトラブル続きのF-105をトスボミングに使用することがパイロットの安全上問題となった事、またこれによりF-105の運用方法がトスボミングから通常の爆撃に変更になった事、これによりF-105を採用する必要性がなくなり米軍からその後の発注が見送らることとなった事と無関係とは言い難い背景があったのでした。

 高橋博士は植物学者として高山植物を調査するために御蔵島に渡島され、御蔵島が米軍射爆場候補地となった際には一早く植物学者として反対を表明されました。高橋博士はまず100年前に米国人船員と多数の中国人を島民が救った御蔵島バイキング号漂着事件を徹底調査し、米国人を救った日米友好の象徴とも言えるこの島が今や米国の爆撃練習場となろうとしている現状をAsahi Evening Newsに投稿されました。これをきっかけに米国でも広く報道されるようになりました。同時に日米友好の象徴として記念碑を作るプロジェクトを当時の米国司法長官だったロバート・F・ケネディー氏に提案し、ケネディー司法長官から賛同を得るなど幅広く活動されました。射爆場問題に関連した高橋基生博士の活動は、御蔵島の植物、動物を守るだけではなく、ヒューマニズムに基づく活動でもあったのでした。


参考資料:
・衆議院 第46回国会科学技術振興対策特別委員会 第4〜第6号議事録 1964年
・高橋基生博士著 西洋黒船漂着一件記 ノーベル書房 1969年
・「小さな島の大きな怒り 射爆場に反対する御蔵島」月間社会党(通号82) 1964年

(NHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」2017年9月10日放映
"Delivery of Atomic Weapons by Light Carrier Aircraft"1959 US Navy Training Film.