御蔵島の歴史

江戸時代.2 
三宅島からの搾取時代
 1683年に始まった三宅島役人による巧妙な搾取、不当な支配の時代は続き、御蔵島の暮らしは壮絶となる。

御蔵島の廻船(独立の兆し)
 1724年、島の人口は増え、食料問題はますます深刻になった。そして南郷地方の農地開拓をしても農作物が足らなくなった。そこで島の外から買い入れる為の資金が必要となり、山の桑、ツゲ等を切って江戸に出荷して食料を得る為の船の購入を御蔵島の神主、名主、惣百姓代が代官所に申し出た。そして翌年にはこれが許可されて御蔵島は廻船を持つことになった。

御蔵島の独立
 1729年のこと、廻船を持った御蔵島は三宅島の属領ではなく、代官所の直轄になるように代官所に申し出た。これは一筋縄では行かなかったが、この時の神主加藤蔵人は、当時「絵島生島事件」で流罪にあって御蔵島に来ていた奥山交竹院に相談し、奥山交竹院は江戸城内の友人桂川甫筑に取り次ぎを依頼し、その結果、奥山交竹院の死後ではあったが、桂川甫筑の取りなしにより三宅島からの独立を果たした。

江戸商人と江戸幕府の搾取
 しかし・・・。その後も御蔵島の生活が良くなったとは言えなかった。しばらくは大島屋、島屋が問屋になっていたが、他の江戸商人たちがその利益をねたみ、幕府に働きかけて「島会所」という役場を設け、大島屋と島屋を排除したのち、売り上げを搾取しはじめ、島はまた苦しい時代が始まった。そして財政が苦しかった江戸幕府も、島の売上金を預かると称して、売り上げの払い戻しを一切受け付けず、幕府が崩壊するまで搾取し続けたのだった・・・。そして莫大な積み立ては幕府の崩壊と共に消えてしまった・・・。



参考文献
 高橋基生「西洋黒船漂着一件記」 ノーベル書房


奥山交竹院の墓(右) 左は利島の船頭・彦四郎の墓。御蔵島に操船技術を教えた為に三宅島で殺害された。
 
御蔵島の独立に貢献した三人(奥山交竹院、加藤蔵人、桂川甫筑)を祀った三宝神社