『常磐の雪月花』




月が昇り始めた頃――

「柊!」

橿原宮の自室に思わぬ来客が駆け込んで来て、柊は立ったままで読んでいた竹簡をそのままに顔だけをそちらに向けた。

「我が――」

半ば呆けたまま返事をしようとして、その口を閉ざす。
そして柊は入口に立っていた千尋の傍に駆け寄り、そのまま通り過ぎて外へと出た。

「・・・賊は、いないようですね」

言いながらも周りの様子を窺いながら、肩を上下させている息の荒い千尋に報告する。
戦場を駆け回っていた千尋がこれほど息を上げるくらいだ、相当急いで走ってきたのだろう。

「追っ手は巻いたようです」
「え、追っ手がいたの?」
「?」

きょとんとした顔で答えられ、しかし柊には他に千尋が駆け込んで来た理由が思いつかない。

「違ったのですか?」

仕方なく素直に尋ねてみると、ようやく柊の言わんとしていることがわかったのか、千尋が「あっ」と声を上げて、次いで頭を振った。

「違う違う。追われて走ったんじゃなくて、急いでいただけ!」
「私に急用でしょうか」
「そう! 急用。柊、明日までに貴方の欲しいものを考えて!」
「・・・は?」

一難去ってまた一難。再び疑問の渦に押し戻される。

「何かない? 何かない?」
「は・・・あ、何かと・・・おっしゃられましても。一体何故そのようなお話に?」

ここも素直に聞くが得策だろう。急用ならば尚更に。
そう心して尋ねた柊に、反して千尋は待ってましたとばかりに笑顔になった。

「えっとね。風早と太陰暦と太陽暦の話をしていてね、太陰暦は2月29日が毎年あるんだって」
「ええ、そうですね」
「だったら2月29日生まれの人も珍しくないねって私が言ったら、風早がそういえば柊がそうですよって言って・・・。
もう、ぎりぎりになって思い出すんだから、明日じゃない」
「ああ・・・そういうことでしたか」

口を尖らせて「風早ももっと早く思い出してくれたらよかったのに」と言う千尋に、柊は苦笑しながら答えた。
何故風早が前もって言わなかったのかを解ってしまったから。
こんなふうに楽しげに他の男のために何かしようとしている姿を見る期間を、最小限にしたかったのだろう。
後は用意する時間を減らして、手の込んだことをさせないようにという思惑もありそうだ。

「私が生まれた日も祝って下さるとは、光栄です」
「あ、そうだよ。柊には前に誕生日祝いの話をしたんだから、その時教えてくれればよかったのに」
「申し訳ございません。あちらの世界の習慣でしたから、自分も対象とは思いませんでした」
「あ、そうだったんだ。そっか、私がこっちでもやるよって言っておけばよかったね。失敗したあ・・・」

本当に自分の落ち度と落ち込む千尋に、柊は今度は自嘲の笑みを浮かべた。
実際のところ柊は、自分の誕生日を告げたならば千尋が祝ってくれるだろうということは判っていた。
けれど、これ以上の幸福を望むことに引け目を感じて言い出せなかったのだった。

(自分の都合を悩む以前に、私は私以外からその日を聞いた貴女がどのような行動を起こすかを考えるべきでしたね)

ようやく息が整ってきた危ういほど真っ直ぐな姫を見つめる。

(・・・いや、考えたところで私の誕生日を祝うために息を弾ませてやって来るなど、結局予測外でしたか)

正直を言えば「何もいらない」あるいは「何でも良い」となってしまうのだが、それではこの何事にも一生懸命な姫は納得しないだろう。
そしてあまりに容易に用意出来るものでも然り、時間がなかったからだと思うだろう。

(・・・では、これで行きますか)

間もなく一つの考えを思いつき、思考の海から戻る。
自分の欲しい物を考えるのは困難だが、千尋のことを考えるのならば比較的話は簡単だった。

「それでは、明朝までには考えておきますので、今夜はもうおやすみになられますよう。お部屋までお送り致します」
「絶対だよ!」
「はい、必ず」

答えて、千尋と連れ立って部屋を出る。
道中幾度か千尋に念を押されてその都度答え、千尋を部屋まで送った柊は楽しげな笑みを浮かべながら再び自室に戻った。



翌朝、千尋は執務室の机に広げられた見覚えがあるが見慣れないものを前にして固まっていた。

「えっと・・・これ、何?」

問題のブツ――真新しい一巻の竹簡を持ってきた隻眼の男に尋ねる。

「クロスワードです」
「・・・また、流暢な横文字が飛び出したね」

あまりに意表を衝かれて、言いたいこととは別の台詞しか出てこない。

「えーと、えーと・・・そう、柊、ちゃんと欲しいもの考えてきた?」

それでも何とか聞くべきことを言葉にして、千尋は机を挟んで向こうに立っていた柊を見上げた。

「はい、考えてきました」
「! 何? 何?」
「はい、それを解かれました後にお伝えします」
「え? ・・・えええええっ!?」

またも飛び出した予期せぬ言葉に千尋は大声を上げて、それから弾かれるようにして再度竹簡に目を落とした。

「本日我が君が復習なさる予定でした歴史書を元に作成してあります。ただ読まれるだけでは退屈かと思いまして」
「え、あ、そう・・・なんだ」

話半分に返事をしながら、必死でカギと升目を交互に見る。

(結構問題多いんだけど!)

復習問題だから解けない問題はないのだろうが、他の仕事の時間も考えると順調に解けたとしておそらく昼過ぎになる。

「それでは私は仕事に戻ります。解けましたらお呼び付け下さい、キーワードを伺いますので」
「キーワード!?」

またまた流暢な横文字が出てきたが、突っ込んでいる場合ではない。
千尋は升目に隈なく目を通し、そこでアルファベットのA〜Eを発見した。

「! ・・・あ、いない」

さすがにここは突っ込みたいと思い顔を上げるも、残念ながら柊はすでに退出してしまった後だった。
仕方なく改めて竹簡を見る。
柊が欲しいものを考えてきたというなら、本当に考えてきたのだろう。
下手をすれば「何もいらない」あるいは「何でも良い」で話が終わってしまいそうな男だ、折角のこの機会を逃す手は無い。

「・・・よし、頑張ろう」

千尋は気合を入れ、前に習った時のメモを棚へ取りに行くため、椅子から立ち上がった。



「と、解けた・・・」

最後の問題の答えを書き終わり、千尋は達成感からくたっと机に突っ伏した。
けれど窓の外に月が見えて、すぐさま身を起こす。

「気付かなかった、もう夜だよ! えっと、キ、キーワード・・・キーワード・・・」

A、B、C・・・と、指で辿って行く。

「ハ、ナ、ミ・・・花見酒! うん、合ってるよね!」

ちゃんとした単語になっている。きっとこれで合っているはずだ。
千尋は柊に会いに執務室を飛び出した。

「! って、ちょっと待って」

そのまま柊の部屋に行こうとした足に急ブレーキをかける。

(花見酒・・・)

そして先程現れたキーワードを反芻して、それから千尋はぽんっと手を打った。

「それだ! 欲しい物がそれなんだ!」

行き先変更、足を厨房に向けて駆け出す。
幸い夜なので人の往来がない。千尋は前日同様全速力で回廊を駆け抜けた。
もぬけの殻の厨房に入って、中は暗いがそこはそれ、気合で目的の物を見つけ出す。

「えっと、私に献上されたとかいうの、たぶんこれ・・・だよね」

貰ったのはつい最近だったが、お酒には興味がなかったのでうろ覚えだった。

「うー、違ってたらその時謝ろう!」

自信はないが時間はもっとない。千尋は酒瓶を小脇に抱えて再び廊下に飛び出した。



「キーワードの解答おめでとうございます、我が君」

昨夜以上の慌てっぷりで駆け込んできた千尋に、自室の入口に立っていた柊は苦笑しながら労いの言葉をかけた。
一方千尋はとても返事を出来る状態でない。ただ無言で手にした酒瓶を柊に差し出してきた。

「確かに。我が君からの贈り物、頂戴致しました。有難うございます」

礼を言って受け取れば、千尋がこくこくと頷く。
柊はその上気した頬に手を伸ばし、

「では、中へどうぞ」

そっと撫でた。

「?」

まだ話せない千尋が目だけで問いかけてくる。
柊はその問いに答を――正確には問われる前から用意していた答を千尋に返した。

「貴女が『花』でございましょう。私の望みが花見酒にございますれば」
「そ、そっか。花まで気が回らなかった・・・」
「貴女以上の花はありません。私には貴女が気付いて下さらなくて幸運でした」

何食わぬ顔で言いながら千尋を部屋へと招く。
千尋が酒の方だけを持ってくることは判っていた。
『花見酒』と聞いて思い浮かべるのは、庭などに咲いている花を眺めながら酒を嗜む光景だ。
普通、花まで持ってくるという発想には至らない。・・・ここにいる素直な姫はそのことに気付いていないようだが。

「えっと、座ってるだけでいいの?」
「はい」
「そ、そう・・・」

勧めた円座に千尋がちょこんと座り、柊が手酌するのをじっと見てくる。

「姫も飲まれますか?」
「う、ううん、いらない。・・・美味しい?」
「はい、真に」

そわそわ
そんな擬音が聞こえてきそうなほど千尋が落ち着きなく視線を動かす。
そして――

「あの、他に何か出来ることない?」

そして、柊の真の望みに辿り着くキーワードを、彼女は口にした。

(これで本当に、全問解答ですね)

表情を悟られぬよう、空になった杯に口をつけたまま目だけを千尋に向ける。

「そうですね・・・月、花、とくれば雪でしょうか」

それから柊は静かに離した杯を側の床に下ろした。

「雪? 雪持ってくる?」

柊の新たな欲しい物に、千尋が嬉々として話に飛びつく。

「あ、雪兎とか作ってくる?」
「いえ・・・」

飛びつき過ぎて飛び越えた千尋に、笑いを噛み殺しながら遠慮する。
大の大人の男に雪兎を贈ろうなど、本当にこの姫は次に何を言い出すかわからない。

「ひゃっ」

柊は身を乗り出してきていた千尋の身体を引き寄せ、その活発な唇を己のそれで塞いだ。
大人しくなったそれをゆっくりと解放しながら、けれど逆に身体の方は自分の膝の上に載せ、一層捕らえる。

「心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花」
「え?」

和歌の意味が解らず首を傾げた千尋の後ろの床に、鮮やかな衣が広がる。
それは千尋が纏っていた衣の一枚で、その上にさらに一枚の衣が重なる。

「え? え?」
「初霜と見紛う白菊の花に、ならばいっそ雪になっていただきたく・・・」

花びらがまた一枚床に落ち、柊の前に雪のように真っ白な襦袢が現れる。

「柊!?」

さらに襦袢に手を伸ばして、ここでようやく状況に気付いた千尋に、柊はその手を掴まれた。

「・・・柊」

けれど掴まれた手が拒絶されることはなく、いやそれ以前に掴まれたというより重ねられたといった方が正しかった。

「我が君」

意図を確かめるように尋ねる。主語も述語もない問いで。
だがそれで十分だった。

「お誕生日おめでとう・・・柊」

花が綻ぶ。
月に照らされた、雪のような花が。

「・・・貴女を咲かせ、溶かしたい」

解放された手を柊は桜色に染まった頬に伸ばし、そこから雪白の首筋へと滑らせた。

「そして、貴女が人であることを確かめたい・・・」

花であって、雪であって、しかしそのどちらでもないことを確かめたい。
手折られることがなく、消えることもないことを。

「うん・・・確かめて」

消え入るほどの声で、けれど柊の心の奥まで届く声で千尋が囁く。
雪に似た衣を取り払う。
そして柊は、愛しい人となった千尋を抱き締めた――















紫羽さんの別館『月親』でフリーになっていたのを喜び勇んで拉致してきましたvv
流暢に横文字を使う柊に笑わせて頂きつつ、柊の誕生日のために一生懸命な姫がまた可愛くて。
最後の甘い雰囲気も余すところなく素敵でした。
さすがは紫羽さん!柊の魅力全開ですねvv