熱血漢  鬼平さんの
家族の求心力 と 組織の求心力
私には娘が一人いる。小学6年の秋に私が幕張に単身赴任した際、私の父母に預けて以来同居することがなくなった。祖父母のところで我がまま放題に育ってしまったか、その祖父母も高齢になりいろいろと体の不都合も出てきているにも関わらず、学校に遅刻しそうなときのアッシー君(車での送迎)にしている姿にこれから先どのような大人になるのかと深く考え込んでしまうこともしばしばあった。

求心力は友達であり家族ではないのか、友人からの人望は厚いが祖母の言うことはあまり聞かない。単身赴任で離れていたことによる親の愛情不足のせい…とも思うが、時に赤の他人のような気さえするときもあった。子とは言え、当然、一人の独立した人格ではあるが、祖母への依頼心は子供のまま、パラサイト症候群というのか、祖母は「最近の子はみんなそんなようなものらしい」と私より理解を示してたものだ。そのためか、かろうじて家族の求心力は祖母にある。家族はやはり気心の知れた者で成り立つ…というのが私の考えであるが、エイリアンのような理解を超えたものが存在する…というのが悩みの種であった。

ところがである。昨年秋、私の父がガンで余命半年と宣言され入院した。娘はなんとその祖父の見舞いに行ってくれたり、看病疲れで寝込んだ祖母を病院に車で連れて行ってくれたりしているのである。年末の仏壇磨きもしてくれた。それまでは仏壇磨きは年末の私と祖母の仕事であったが、娘は「ばあちゃんの手が痛そうだから、わたしが代わりに全部やる」と言ってビカビカに磨き上げてくれたのだ。

娘に対する私の見方が変わった。家族への思いやりは忘れてはいなかった、と。
育て方が間違っていたか、と悩んでいた祖母も、私や家内もすこしホッとした。家族のために何か役立つことを娘は自分なりに考えてくれているようなのだ。何ほどでもないことでもとても嬉しいものだ。親馬鹿かな…と思わぬでもないが。

家族と似た存在に企業組織がある。組織は個の考え方より組織のウィル(収益拡大)を大事にする。そのウイル(企業利益)を考えざる者は淘汰される…というのが本来の姿であろう。バブル崩壊前、伸び行く経済成長の中で会社は「生産性」をより重要視し、労働組合は「生き甲斐・働き甲斐」を重視した時代であった。

そのような時代背景の中で、人々にはゆとりがあった。仕事にも生活や余暇に。今の疲弊した日本とはまるで違う。遥か昔のような気さえする。仕事の3K(汚い・きつい・危険)が嫌われ、別の3K(高収入・高学歴・もう一つは忘れた)がモテはやされた時代だ。おおよその人々は、企業経営の行く末より、次の年のベースアップや賞与への関心が高く、自分の果たすべきミッションより人よりヘンに目立たぬよう気を配り、出る杭にならぬよう腐心する一方、他人との比較において自らの幸せ度(人並みであること)を確認しようと頑張っていた。
「個」より「大衆」の時代、誰もが落ちこぼれになることを恐れ、人並み以上であることは望んでも人並み以下であることを毛嫌いした時代が嘗ては存在した。

今はどうだろうか。明日の暮らし、リストラの行く末、年金の未来、ボーナスは出るのか、定年のあと年金が支給されるまでの間の仕事の当て…など、語り尽くせないほどの悩み・不安を抱え、大多数の者は嘗てのようなゆとりを持ち合わせていない。
故に「当然、今の自分の仕事に対する忠誠心・求心力は高まる…はず」と考えられるはず。常用労働者が減り、派遣社員やパート労働者が激増している…世の中では当然、常用労働者は派遣社員達より自分の仕事により一層励むようになっている…はず…。だが、現実にはそうではないように思う。派遣社員の働きぶりを見てもすぐにサボる、手を抜く、叱るとすぐ仕事を止める、平気でスキルシートにウソを書く、派遣の「三種の神技」といわれる「ワード・エクセル・パワーポイント」を使える…とスキルノートに書いていても、実際には使いこなせない者がかなりいる。

こんな時代だからこそ、自分の仕事、ミッションを大事にすべきなのに、今もなお自分がラクをすることを考えたり、気に入らない仕事はしない、屁理屈をこねても拒む…という"恵まれた環境"を謳歌する者が少なからずいる。自分の属する社会なり、企業組織なり、家庭というものに対して、いかに自分が貢献できるか、自分の成すべきことは何か、今の自分には何ができるのか…を考えて、今こそそれらを果たすべき時なのに。

価値観の多様化と言えば聞こえは良いが、結局は自分の義務よりも、権利や人の迷惑を省みない自由を主張する者によって、世の中が流されて行っている観がある。自分のなすべきこと・義務などを考える者などもはや死滅してしまったかのような当世に、何かしら寒々としたものを感じることがしばしばある。自分が自分の属する家族・企業組織・社会のために何ができるか、何をなすべきか、それこそが自分の"存在感"ではなかろうか。この存在感こそ、こうした時代を乗り切るための必須のアイテムではなかろうか。

…と肩に力を込めて生きてきた私も、そろそろリタイヤした時のことを考えるべき時期にきている。ここにきて思う。そのように肩に力を入れっぱなしで生きてきた私だが「これで良かったのだろうか」と。少し心境に変化が生じ始めている。徐々にではあるが、片ひじに込めていた力を抜いていこうかと思い始めている。自分自身を追い込んでまで釈迦利器になってもしょうがないかな…。仕事を楽しむ…ぐらいの気持ちでやっても大丈夫かな…などと考え始めている。

誰かが言った「プロジェクトエックスに出たいと思ったら、誰か死人が出そうなプロジェクトに関わることだ。誰かが美しく死なねば絵にならない」と。公益企業や企業横断的なグループならばPJ−Xの材料にもなろうが、一私企業ではなかなかそうはいかない。
カッコ悪くても、地道でもいい、ほんのわずかな足跡でも残せればそれでいい。まずは自分自身の有終の美を飾るにはどうしたら良いのだろう。結果が出せればなお良し、結果が出せないときでも自分を追い込まずに満足を見出そう。そう自分に言い聞かせ始めている。
社会・経済が厳しくなり、誰しも自分の明日の生活防衛を考えざるを得ない時に、自分は逆に突っ走るのを止めて、遅ればせながら自分の仕事や生活にゆとりをもって取り組んでみたいと考えているのだ。

これは今の時代への反発かも知れない。キリギリスを笑い飛ばしたいアリさんの気持ちかも知れない。これまで組織的には十分義務を果たし成果を出してきた。自分にこれ以上期待するな、これからは、自分のために生きるのだ、家族のために生きるのだ…という一種の反動かも知れない。もしかすると、自分では気づかないけれども、第二の人生に向けカミシモを外すための準備をしよう…ということなのかも知れない。
いずれにせよ、いろんなパターンを演じ分けてみるのも面白いのではないか。矛盾するが、そうすることで返ってよい仕事ができそうな予感もある。

娘は十分親不孝をし、それで十分満足したのか家族に対する求心力と思いやりを示し始め、親である私は子不幸・妻不幸を詫びつつ、企業組織への求心力を転換して、敢えてゆとりある仕事のしかたに切り替えようとしている。「求心力」とは、自分の目標物がもつ魅力である。今私のこころを惹きつけるもの、それは家族ひとりひとりのつながりと、それを裏打ちする仕事を楽しむことである。
果たしてどういう結末が待っているのだろうか、時間はもう少々残っている。
まだこれからだ。


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2003/1/27