私の最初の持ち家は1954年29歳の時で、230平方bの土地に建物100平方bの一戸建て住宅である。当時の仙台市近郊では、サラリーマン持ち家の普通の広さだったかもしれない。

勤め先の仙台市からJRで3っ目の名取駅、そこから徒歩7分の近さ。国道4号線も近く、買い物等のお出かけにも大変便利であった。大阪で生まれた長男と、この近所で生まれた7ヶ月目の長女が、約11年に亘り生活することになった所である。

今振り返っても家を買う動機が何だったか思い出せないが、資金繰りをあれこれ考え意を決しての18年の住宅ローン返済でスタートすることになった。

当時は順調に昇給もしてきていたし、ここ2年間は、2万円以上のベースアップが続いている。概ね3年間を我慢すれば、それ以降は現在より楽になり、何より夢のマイホームが、しかも20歳代で手に入る、そんな夢のプランだった。

しかし諺が教えるように巧く問屋が卸してくれないもので、家の契約が終わった頃、店のトイレットペーパーが一気に買いだめされた、あのオイルショックが世の中を襲い、我が家は長いローン地獄で苦闘する羽目になってしまった。

昇給が1/4に激減し、3年我慢すれば・・の予定が単純計算でも10年以上の我慢になってしまった。”貧すれば鈍する”と言う言葉を、生活の中で実体験した思い出の時期である。

こんな中、運良く38歳の時に東京に転勤になった。この頃、転勤すると5年間は会社が社宅を斡旋してくれるので、これでしばらくは助かる事になる。家の方も転勤の話を聞きつけて、近所の人から貸して欲しいと直接申し入れがあった。少々高くても良いと言う。何か判らないが、これで心配事は概ねクリアー出来た。(後で聞いた話だが、この家庭は子供4人いる為に簡単に貸してくれる所がなかったようだった)

そして平成6年、消防署からの連絡で、この貸していた家が火事に遭った事を知らされた。地元仙台のテレビニュースでも簡単に報道された様だが、居間から出火し全焼だった。

寝耳に水。予期しない電話に”誰も怪我人はいませんでしたか?”とつい殊勝な応答をしてしまったが、直ぐ保険の事に気がついた。

6ヶ月前のこと、保険会社から小さな2枚折りのはがきが届いた。内容は18年ローンの完済通知と同時に火災保険期間も満了するので、継続・更新の催促であった。10年間継続の最適保険料も記載されていたが、多分大した金額ではなかったと思う。

家内と相談し「家がもう古くなっている」,「長く貸しているので、転勤で戻っても家は建て替えたい」,「火事は滅多にあう事もないであろう」等と話しが一致した為、未契約のまま放置しておいたものである。

従って、家が火事に遭いながら、金銭面の保証が全くない寂しい状態を迎えてしまった。既に転勤後の社宅扱い期限も過ぎ、北浦和に一戸建てを14万円/月で借りていたが、名取の家賃収入を織り込んでのもので、この収支バランスも崩れる等、全く予想もしていない展開を一気に迎、しばし呆然としていた。

18年も保険料を払い続けたのにその期間は何もなく、何で今なのと腹立たしい思いがなかなか消えなかった。だから保険会社だけ儲けるんだと更に保険が嫌いになった。

こんな折りのお袋の一言、「そう言うのを後の祭りと言うんじゃ」。この年齢になっても、何でお袋には子供扱いなのだろう。グサリと来る一撃を、遠慮なしである。”そんな事はわかってるわい”と言い返したいが言えない、何とも悔しさが混じる思いであった。

 
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雑談


我が家の火事の原因は
タバコ
だったようですが
出火原因順位は
以下の通り。


        (件数)
1.放火     7,482
2.タバコ    6,415
3.コンロ    5,503
4.放火疑い  5,357
5,焚き火    3,541
6,火遊び    2,194
7.ストーブ    1,940
8.屋内配線   1,397

{出展}
1999 消防庁「火災年報」
後 の 祭 り
       人生、頑張ってやってきているが、それでも何かと「失敗」が多い。
       むしろ「失敗」=「後の祭り」の連続だったと言っても言い過ぎにはならない程で、
       お袋から失笑された2つの「失敗」を思い出した。
1,我が家が火事に
01/8/14