講座01>共同制作の文学(1)

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 そういうわけでこれからキョン太の連句講座を始めます。ヘッダは「講座**>」にして、その右側に各回のテーマを書きます。で今回は連句が「共同制作の文学」であるということの意味なんかを書いてみようというわけね。まだこれから書いて行くことのアウトラインは決めてないので、何回かかるかわかりませんが、粘り強くROMしててくれれば、何とか連句の性格とか歴史、簡略なルールがわかって、実際に巻いて行くことが出来るようになれるように、というつもりで書いて行きますんで、息長く読んで下さい。

 勿論質問は自由です。出来れば「質問>」というヘッダを付けてUPして下さい。全部答えられる自信はないけど、答えられる限り答えるつもりですから。

 というわけで「共同制作の文学」ということですが、連句の一番基本的な性格はこれですね。長い歴史の中ではいろんな変化があって難しいルールが出来たりもしたけど、とにかく複数の人間が集まって一つの作品を作る、というのが一番の基本ですから、尻取りも一種の連句であると言えます。だから尻取りにちょっとカッコつけたものと考えれば、まず間違いではありません。

 そしてこの共同制作の文学であることがまた、近世つまり江戸時代以前には甚だ流行し、それが近代になってからはばたっと下火になり、またこれから未来にかけて甚だ有望な文学形式であることの理由でもあります。

 なぜかっていうと、江戸時代以前の日本の社会というのは、基本的に農耕社会だったわけね。農耕民族って言うのは基本的に一ヶ所に定住して、みんなで共同して農作業をしないといけないわけね。誰かが俺はみんなと違う、なんて自己主張したら、本人ばかりかまわりの人間まで食えなくなっちゃうので、個人の独立とか個性とかを主張するより、いかに回りとうまくやっていくか、ということを考えなくちゃいけなかったわけです。

 そういう共同で生活する人たちの間で共同制作の文学が流行ったのは、思えば当然でしょ?

 それが近代になって廃れたのは、これは要するに西洋から入って来た文明とか文化ってものを非常に素直に受け入れちゃったからね。西洋の文化というのは日本と違って個人主義を基本とする文化で、みんなが俺はみんなと違うんだぞと主張する文化だった。というより、今でも多分そうですね。

 文学もそうなんで、西洋的な考えだと、文学というのはほかの人間よりも文学的才能が優れた人間が書くから価値があるんで、だからいろんな人間が共同して一つの文学作品を作り出すなんて思いも寄らない。だから連句みたいな形式の文学はなかったわけ。なかったんだろうなあ?実は西洋文学には暗いので、本当のところはわからないんですが、多分なかったんでしょう。

 でそういう日本とは全然違った文化から生まれた文学理論を、西洋に追い付け追い越せ、そのためにはまず西洋の真似をしろ、といかにも日本人的に考えた明治の文学者達は、日本の過去の文学も西洋の理論を通して見ようとしたわけ。坪内逍遥・二葉亭四迷・夏目漱石・森鴎外なんていう明治の日本文学を支えリードした連中は、みんな西洋の文学を勉強したわけね。

 でたとえば源氏物語のような小説とも言えるものは、これは西洋にもあったからその基準で評価出来たわけね。和歌もまあ小さすぎるけど西洋にもある詩の一体と考えれば評価可能、歌舞伎や能といった演劇も可能、しかし連句は、そういう形式の文学が西洋にはないから、西洋の文学理論で評価出来ないわけよ。

 でそういう西洋の文学理論で評価出来ないものは、これが日本独自の個性的なものだから大事にしよう、なんて西洋的には考えなかった。非常に日本的に、西洋の理論で評価出来ないものは古臭い価値のないもの、と判断して捨ててしまったわけ。

 具体的に連句を否定したのは正岡子規という男で、彼は連句の中から発句の部分だけ取り出して、そこだけは詩だから芸術だけれども、脇句以下の部分は詩ではない、よって芸術ではないのでこんなもんこれから作る必要はない、というわけで、発句だけを独立させて俳句という名前にして、古くからあったようで実は新しい文学形式を成立させてしまったわけ。

 こういう悲喜劇は別に文学の世界だけに起こったわけじゃなくて、たとえば語学研究の世界でも起こった。日本語の研究は中世の歌論から連歌論を経て、江戸時代の国学者たち、中でも本居宣長とか石塚龍麿なんていう人達が立派な研究成果を挙げて来たわけね。でもそういう理論を発展させるのをやめちゃって、全部西洋語の理論を応用することにしたわけ。

 でも日本語と英語とかドイツ語とかって相当違う言語なんで、日本語の研究に西洋語の文法理論なんて簡単にあてはまるはずはなかったのよね。

 たとえば過去の助動詞。英語には時制というものがあるようで、過去のことを表わすにはbe動詞がwas とかwereになったりする。そこで日本語にも過去を表わす表現があるんだろうということで、「た」という助動詞がそれだと考えた。

 ところがどっこい日本語には西洋式に過去や未来を表わす言葉なんかない。「た」というのはその昔は「たり」という形だった、今言うところの完了の助動詞。たとえば、「春が来た」というのは過去じゃなくて、春が来て今も春の状態が続いていることを表わすわけね。

 その昔「き」「けり」という助動詞があって、これが今過去の助動詞と呼ばれてるけど、これまたもともと過去を表わすわけじゃなくて、たとえば「けり」は気付きの「けり」とか言われているように、今までそうであった状態に初めて気付いてびっくりした、なんてことを意味する言葉なのね。でその状態というのは今まで続いて来たんだから、時間的に言うと過去だから、過去の意味もあるんだということにはなったけど、それはたまたま使われている文脈の中で過去のような意味を表わしちゃったんであって、過去を表わすというのが本来の意味ではない。

 まして「き」も「けり」も今はない。昔完了の助動詞だった「た」一つを、日本人は過去にも援用しているというのが現状なので、要するに西洋語の文法理論を単純にあてはめてしまった結果今の日本人達が「た」で過去を表わしてんだと錯覚しているに過ぎない。

 数学の世界でも、江戸時代の関孝和という人は相当高度な理論を築いたんでしょ?よく知らないけど。

 でもそういうものもひっくるめて、明治時代に日本が西洋から受け入れた理論で評価出来ないものは、古臭い価値のないものだと考えて捨てちゃったわけね。

 だいぶ話が横道に逸れましたが、連句が近代に入って否定されたのはこういう事情があったから。

 それが最近事情が色々と変化して来た。明治このかたの日本人の勤勉な努力で、日本はいろんな世界で西洋に追い付き追い越してしまった。今度は日本が外国からお手本にされていいはずだけど、今の日本にあるものは、要するに西洋の真似をしたものばっかりで、日本独自のものがない。

 と思ったら、しかし日本人は忘れていたけど、表面に見えないところで実は日本的なものというのはしっかりと日本人の中に残っていたのね。たとば工業の世界で、新しい品質のいい製品を作り出すには、全く日本的な農耕時代以来の共同作業の伝統があったわけでしょ?それがあったから、個人ばかりを尊重する西洋の工場では出来ないような品質の製品を作れたわけよね。

 そういう日本の中に実はしっかりと根を張っていた日本的なものは、しばしば日本人よりも外国人によって発見されて来た。

 連句もその一つで、いつだったか忘れちゃったけど、遅くとも1950年前後には「連歌の研究」というぶ厚い研究書を書いたアメリカ人がいたんです。まだそれほど普及しているわけじゃないだろうけど、今アメリカの俳句雑誌には連句も載っているんだという。

 その情報は日本の国文学雑誌から仕入れたもので、まだアメリカの俳句雑誌というのは見たことがないけど、アメリカで連句をやっている人達は多分、連句の中に自分達とは違う文化を感じると同時に、日本の工業の発展の原動力をも感じているのかもしれない。

 連句に限らず、表面的には極めて西洋的になっちゃった日本の中には、実はかなりしっかりと過去の日本人が作り上げて来た文化が根付いていて、それに気付いた今の所余り多くはない人々が、かつて正確な価値判断も出来ない中でかなり乱暴に価値なきものと決め付けて捨ててしまったものの中に、実は大事な価値があったことを発見し拾い集め始めているのです。

 でほかの分野は知らず、文学の世界で今拾い上げなきゃならないものが、これは連句には限らないんだけど、中でも一番今注目しなきゃいけないんじゃないかと私が考えているのが連句なんですね。

 ではなぜ連句は価値あるものなのか、今日はもう疲れちゃったので、残りはまた後で。

キョン太
「そういうわけで」という出だしは何か前のメッセージを受けているのでしょう。

 「質問は自由」云々はPC-VANのSIGの中での約束事。でも勿論ここの掲示板で質問してくださっても構いません。

 今読み返すと表現も内容も恥ずかしいところがありま
すが、ま、しょうがないですね。改訂版はそのうち書くと
して、この記事はPC-VANに書いたまんまにしておきます。

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