メキシコ放浪記
LAST UPDATE 2001-02-22 18:11

忘れられない人


 旅先で出会い言葉を交わした人を、折りにふれ思い出す時がよくある。その後連絡を取り合う事になる人もいるけど、二度と逢うこともないだろうと思うのにその人と出会ったことの意味を自分自身に問い返さずにはおれない人もある。旅の途中で出会う人々には、後者の人が多い。

 マヤ遺跡を見て歩きたいと思い立ち、メキシコシティをある程度歩き倒してから空港へ戻り国内線でユカタン半島のメリダまでの往復チケットを買う。空港職員でさえ英語が通じなかったりするから、うまく買えるか、買ってもちゃんと乗れるか不安だった。何しろヒコーキにはいつもヒヤヒヤさせられてるもので....。

 1泊約700円の安ホテルを見つけて泊まる。共同風呂・便所で、まさにコロニアル建築。高い天井のプロペラとベッドと古びた机だけの部屋。韓国で値切って約800円のジャン(荘)に泊まったのが最安値記録だったから、こりゃ安い!メキシコでは、大統領執務室のある国立宮殿向いの国賓レベルのホテルにも後日泊まったので、極端に条件の違うホテルを経験したことになる。

 レストランについても同じような経験をした。日本で言えば赤坂になるかな?メキシコシティのソナロッサと言われる地区の高級レストランで子羊の肉と本場テキーラをぐいぐい飲んだ。上品な店で上品な老給士がついてくれていたのだが、やっぱり忘れられないのは、メリダの地元の人しか絶対来ないようなゴミゴミしたメルカドル(市場)のなかの簡易食堂でセルベサ(ビール)を飲んでた時のことだ。おばあさんの「乞食」がやって来た。

 この国の貧困ぶりというか福祉無策には目に余るものがある。円高と経済大国の日本からの旅行者が、その国の貧困に追いやられている人達にカネをあげるということで何が解決するのだろうか、つまらぬ優越感が俺の心に潜んでいるのではないだろうか、と考えずにはおれない。本当は社会問題の構造を理解して、行動すべきなんだろうが、現に目の前で苦しんでいる人に対して、「施し」の純粋さにこだわりを持つのは人間として当然としても、それでは目先の苦しみは救えないのだ。

 その葛藤は、1995年1月の阪神淡路大震災の時、リュックに救援物資を詰め込んで被災地の避難所やテントを回ってる時も考えないわけにはおれないことだった。多くの現地活動家とも話し(打ち合せ)したが、たいがいの人が「ボランティア」が「精神的優位」になってないか、被災者の自立をじゃましてないか、に深く悩みながら活動してた。テント暮しをしてるあるおばさんが、配給でもらったパンをくれたことがある。そのときは地元の女子大生2人と大阪のサラリーマンと4人チームで巡回してたのだが、ためらう彼(彼女)らに俺は「食べよう!」と言った。そのおばさんの目が「施されるばかりのつらさ」を訴えているように思ったからだ。必要に迫られているとはいえ、人が人にモノを与え・与えらることはやはりつらい関係だ。その苦しさを越える水平の人間の絆と、そのおばさんの誇りと、ボクたちへのねぎらいが、その貴重なパンの味だった。そのパンの袋は今だに捨てずにおいてある。(これについては「阪神淡路大震災」参照)

 ところでメリダ・メルカドルのそのおばあさんは俺の20ペソ(約250円=これで4〜5日は食えるだろう)を受け取ると、感激のあまり俺の手を強く握り締め興奮したスペイン語で感謝の言葉を叫んでいたのだが、今だにその「施し」の苦しみから解放されない俺である。

【1996年度添上高校生徒会通信に連載】1996-10-1執筆、2001-2-13加筆