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兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)i-mode版
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2008-11-17
1月17日(火)未明、兵庫県神戸市長田区を震源地とする大地震が起こって3週間。五千数百人の死者をはじめ多数の犠牲者を出し、住宅・水道・ガスなどの人々の暮しの諸問題、不安・絶望感などの心の問題、学校や交通機関の再開・復旧の問題、さらには倒壊家屋・ビル・ゴミの撤去からガス管・水道管・道路の補修や街の復興計画上の問題、外国人差別・部落差別・「エイズ」差別等の問題など、多くの課題が山積しています。みなさんも、マスコミ報道などでいろいろ見聞きしていると思いますし、実際に被災地に足を運んだ人もいるでしょう。
黒ちゃんも、今のところ2回神戸へ行ってきました。奈良でじっとしていることが耐えられなくて、気ままな生活をしている黒ちゃんは都合つけやすかったのです。ご存じのように、毎週金曜日はたいがいどっかへ出張している黒ちゃんは金曜日は授業がないんです。ところが27日(金)は出張がなかったので、土曜日の2時間分を時間割変更してもらえば、木曜日の晩からだって神戸へ行けることになるわけです。ただし、思い立ってまる1日悩みました。俺のすべき事は生徒の前に立っていることです。授業がなくても学級担任として教室にいかねばならないし、いきたいです。でも、神戸へ行ってできることはあるだろうし、その体験を君たちに伝えていくことができる。
木曜日の早朝、橿原に住んでいる母親から電話がありました。神戸の板波(いたなみ)くんから葉書が来たとのこと。大地震のあった日、神戸市北区の板波に電話したのです。高2以来の親友で、(当時)保育園の保父さんをしている奴です。「兎の眼」「太陽の子」などで有名な児童文学作家・灰谷健次郎のつくった保育園です。その電話への礼状が橿原の実家に来て、地震後彼もいろいろ活動していると書いてあるとのことでした。早速、神戸の板波に電話し、神戸市役所に問い合わせて、どこに「ボランティア」が不足しているか聞こうと思っているというと、役所はパニック状態で待機のまま終わってしまうので、もしよければ太陽の子保育園に来ないかと言ってくれました。いろいろな救援活動家が出入りして情報交換しているので、ここへ来れば自分の判断でいくらでもすることが見つかるということでした。実は、この段階でやっと神戸へ行く決心をしたのでした。「ともかく行けば何とかなるだろう」というのは、乱暴な話で、休暇中に自分勝手な旅行をするのならともかく、みなさんを放っておいて神戸へ救援活動に行くのですから、神戸市役所に電話した段階でそれなりの見通しが立たなければ、行くのはよそうと思っていたのでした。
26日(木)授業が終わった段階で、神戸へ向かいました。梅田から福知山線で三田(さんだ)まで行って、神戸へ回り込むルートで約3〜4時間かかります。北区鈴蘭台の太陽の子保育園には、俺のように個人的なつてでやってきた「ボランティア」や、自宅が住めない状態になってしまったりで保育所に泊り込んでいる保母・保父やその家族、そこに有機野菜を入れている野菜屋さんで救援活動に飛び回っている人などが集まり、各地からの救援物資も積まれていました。そのなかに、日頃から神戸で活動をしているNGO(非政府組織:社会問題に取り組む市民の組織)が急きょ結成した「NGO連絡協議会」のスタッフもいました。一種の情報連絡センターのようになっていて、どこの避難所には何が足りない、どんな条件でボランティア活動をしたいと言っている人がどこに何人いる、避難所以外の公園やプレハブなどがどういった状態になっている、各救援活動団体がどういう動きをしているといった情報が飛び交います。そういった情報はとても重要なのに十分に流れていない神戸では、このような情報交換は非常に重要なのです。
27日(金)は、太陽の子保育園の職員でおかゆの炊出しをするというので、まずそこに参加しました。家屋倒壊や火災が特に多かった長田区の避難所の一つ神楽小学校の横です。途中、全国からの救援物資の集積センターのひとつになっている「しあわせの村」という総合福祉施設でバンに炊出しの材料や衣類・下着・使い捨てカイロ・保存食品・果物などさまざまなものを詰め込みかまどづくりから始めました。ここにはとても書ききれませんが、おかゆを食べていく人々といろんな話をしました。あの日どうやって家を飛び出したかわからないというおばあさん、「こわかったでー」としみじみ繰り返すおばさん、子どもがお腹をこわしていておにぎりなどの固いものを受け付けなくて困っていたというおばさん、やっと温かいものが食べられたと喜んでくれたおばさん、新築の家で倒壊を免れたのに火の手が回ってきて焼けてしまったというおじいさん、夕方になってやっと食べ物にありついたというおじいさん、ただ黙ってそこら辺に腰を下ろして食べていくおじいさん。鳩でさえ腹をすかしているのか、飛び立っても2mも飛び上がれずすぐにストンと落ちるありさま。太陽の子保育園にアトピー性皮膚炎児用の食料があるというポスターを被災地に貼って回る仕事もしました。TVが映し続けた菅原町の火災現場は、もう言葉を失うものでした。
28日(土)は、まずNGO連絡協議会事務局に出向いて、中山手カトリック教会が人手不足だときいて駆けつけたり、若菜小学校が人手不足だと聞いて訪れたりしましたが、自前の風呂づくりの予定延長等の情報伝達をするにとどまりました。今度は、被災地をずっと歩いて倒壊家屋の片付けや、使えそうな物などを探している被災者の飛び入り手伝いをしてみるということで、新神戸・三宮・神戸港・湊川公園などをたどって被災地を歩きました。家屋の倒壊なんてどこにでもあって、街が破壊されたさまは決してテレビでは想像がつかないと思います。傾いたビルや崩れ落ちた壁・ぶら下がる電線・道に広がるガラスの破片・ゆがんだ道路・立入禁止や頭上注意の表示。あれは口では言えない。
夕刻からは、野菜屋さんの大村グループに合流して、まず小物の洗濯物の回収に回りました。その時の話もいろいろあるんですが、その一つをしたの記事に書きましたので、あとは省略します。29日(日)は朝から大村グループで、救援物資を長田区の被災現場に運び、自転車やバイクで(車は渋滞のためかえって不便)登山用のリュックサックを担いで、避難所以外で見落とされそうなテントや駐車場や小さな建物などを回って救援物資の配布や不足品の聞き取りなどをしました。
救援物資を車で運んできて、公園に積み上げて配っていたとき、何度も取りに来ているおばさんがいました。
“なんやこいつ、あつかましいなあ”
と思っていると、声をかけられました。
「ちょっと兄ちゃん、そのタンクに水入ってるんやろ、タンクごと持ってきてよ」
“なんでこんなあつかましいおばはんに貴重な水をごそっとあげやんなあかんねん”
と思いつつも、両手にタンクを持っておばさんのあとを着いていってびっくり、
大きなテントには、大勢の人が疲れて寝ころんでいました。
そのおばさんは、一人で、その大勢の人の分を運んでいたのです。
無料の炊き出しをしているすぐそばで、有料の青空カレー屋さんがありました。どさくさ商売ならともかく、倒壊した店を立て直そうとしているんだったら、ボランティアなんて、自立のさまたげに他ならない。それでも、その有料のカレー屋さんだけでは、みんな腹が減る。
下の記事には実は新聞社がカットした部分があります。大阪から会社を休んできたというサラリーマンの兄ちゃんと須磨の短大生2人と俺との5人グループで回っていたときです。ある小さな公園のテントの避難者に米などを渡したとき、でてきたおばさんが、紙コップに熱いお茶を入れてくださり、パンをくれたのです。せっかくの配給のパンだからと、みんな最初は遠慮したのですが、そのおばさんの眼を見て、俺は「喜んで食べよう」と思いました。人と人が初対面で出会って、一方が一方に物を与えるなんて、やっぱり不自然だし、お互いつらいんです。あちこち回っていながら黒ちゃんも心の中にそういう部分がつかえていました。
保育園では、毎晩が、ボランティアはどこまですべきかの議論でした。自立のさまたげになっていないか、自分たちの自己満足になっていないか、組織の都合や視野がズレを生じていないか。山口組のベンツが救援物資を置いていったり、待機中の自衛隊の大型車がむちゃくちゃじゃまだったり、おしめがないと嘆いているテント生活のおばあさんがいて、ちょうど目の前の避難所におしめが山と積まれているのに、役所から派遣されてきていた職員が、全然融通がきかなかったりしました。差し迫った状況で、自分の目で見、自分の頭で考え、判断し、行動する意志と、同時にその判断や行動を批判する視点を、常に自分に問わざるをえなかったのです。
そんな状況で、的確な判断と行動をするために見失ってはならないものとは何か、と考え続けていました。
あのパンをくれたおばさんの目が、それを教えてくれました。どうも、うまくは言えませんが、大切な何かを学んだと思います。
そのパンの袋はまだ大事に持ち歩いています。
(1995年2月7日、学級通信「笑顔38」、2000年12月19日加筆)
新聞記事(1995年2月7日毎日新聞)
写真によるプレゼンテーション(46.7M)→軽量化版(改造中)