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【243】出題日 2006年11月28日(火) カントが主張した「実践理性による自律」とは何でしょうか? あ 道徳法則や他人の支配から解放され、自然法則に従って生きること い 自然法則や他人の支配から解放され、道徳法則に従って生きること う 自然法則や道徳法則、他人の支配から解放されて生きること え 自然法則や道徳法則から解放され、他人に支配されて生きること |
応募締切 2006/12/5(火)午前6時 難易度・・・・★★★ |
多忙と体調不良で正解発表が9日間も遅れてしまったことをお詫びいたします。
『純粋理性批判』で、認識論上のコペルニクス的転回を提示したカントでしたが、そのカントがルソーの『エミール』に読みふけり、日課の散歩を忘れたという話はあまりにも有名ですね。人間の魅力とは、純粋理性によって獲得した知識量ではないのだと衝撃を受けたわけです。
「認識論上におけるコペルニクス的転回」については、別の機会にふれることにしますが、ここでは、五感・空間・時間という7つの入口から無数のデータ(素材)が経験され、それを選別して組み合わせて意味を見いだすという作業(形式)を経て、認識(知識)が成立すると、簡単に整理しておきましょう。
カントが『エミール』をきっかけに提起した、人間の魅力は、実践理性を持つ人格ということです。カントは、人間は自然的存在であると同時に理性的存在だと定義します。自然的存在とは、眠いとか空腹だとかという生物としての欲望にふりまわされる存在だということです。
また、理性的存在には2面があるとしますが、その一つである純粋理性は、自然法則を認識する理性ということで、なぜ眠くなるかとか、なぜ空腹になるかとかといったことを理解する力ということになります。
さて、『エミール』のエミール少年は、そうした純粋理性によって豊富な知識を蓄えた存在ではないにもかかわらず魅力的なんですね。カントはそれは、実践理性によるものだと考えたんです。純粋理性は、自然の法則を見抜きはしますが、自然法則に縛られた人間を解放しはしません。例えば、目の前の川で溺れている我が子を見たとき、自然法則を認識するだけなら、「我が子はやがて死ぬだろう」「助けようと川に飛び込んだら、自分も死ぬかもしれないし、死ななくても風邪を引いたりするかもしれない」というふうに、自然法則に従った解釈しかできないというわけです。しかし、人間の理性には実践理性というもう一つの側面があり、それは「良心の声」という内なる指示に従おうとする意志だというわけです。その「良心の声」は、他人から指示であったり、また条件付きの指示であったりしてはいけません。自分自身の意志であり、他の目的(下心)が隠れていてはいけないとカントはいいます。そんな「良心の声」を道徳法則と呼び、道徳法則に従おうとするのが実践理性だと考えたのです。道徳法則は、他人からの指示でもなければ、他の目的のための手段としての指示(褒められたいからお手伝いをするetc.)でもなく、さらには時として自然法則に逆らうことさえあるというわけです。「溺れるかもしれないけど、私は我が子を助けたい」という一心で目の前の川に飛び込むとき、それは「良心の声」に従った生き方であり、他人の支配にも、他の目的にも、自然法則にさえ支配されない自由な生き方(自律)だとしたのです。
というわけで、実践理性による自律とは「い」ということになります。