クイズ【240】 五箇条の誓文は宣伝工作?
LAST UPDATE 2006-11-14
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【240】出題日 2006年11月
6日(月) 五箇条の誓文は、まだまだ少数派だった薩長を中心とする武力討幕派が、翌日に予定されていたある作戦を前に、幅広い支持を取り付け、翌日の作戦の大義名分も意図した宣伝工作だっという見方があります。さて、翌日に予定されていた作戦とは何だったのでしょうか? A 会津若松城攻め B
江戸城総攻撃 C 鳥羽伏見の戦い D 箱館五稜郭の戦い |
応募締切 2006/11/14(火)午前6時 難易度・・・・★★★★ |
正解者・・・・フーセンの羊さん、ケムンパスさん→4ptゲット
(得点表)
解説と解答
1867年の大政奉還・王政復古の大号令の後も徳川慶喜を支持する公議政体派が勢力をもっていました。慶喜自身は水戸家の育ちでもあり、天皇に敵対することはなく、新政府で新たな立場を得るべくおとなしくしていたのですが、薩摩・長州はこれを許さず、慶喜追討令を天皇に出させます。薩摩藩の浪人が江戸市中で乱暴狼藉を働いたため旧幕臣たちが薩摩藩邸を襲撃したのも、西郷隆盛が黒幕だったのではないかといわれていますが、新政府が慶喜支持派を挑発したために、1868年初めに起こったのが戊辰戦争です。
さて、この戦争の最中、1868年3月14日に発せられたのが、「五箇条の誓文」なんですが、天皇が神に五項目を誓うという形式で発表され、薩長を中心とする新政府の基本方針を示したものでした。元は由利公正がまとめた議会運用規則で、福岡孝弟による修正、木戸孝允による加筆を経て完成しました。
「議会重視・経済重視・外交重視・天皇親政」といった大まかな内容だったのですが、幅広い合意を得るためのキャッチフレーズだったためとみられています。というのは、翌日の3月15日に江戸城総攻撃が予定されていて、新政府側の指示を広げ、大義名分を示す必要があったからです。実際は、3月13日に幕臣勝海舟と西郷隆盛が会談し、無血開城(厳密には一時延期)が合意されていたのですが、その知らせがまだ京都には届いていなかったようです。また、その3月15日には「五榜の掲示」が示されますが、「五箇条の誓文」と正反対の内容であり、ここからも、「五箇条の誓文」が宣伝に過ぎなかったと判断されています。正解は「B」です。
ところで、かつては「五箇条の御誓文」と呼ばれていましたが、最近の教科書では「五箇条の誓文」と表記されています。奈良県橿原市に「畝傍御陵前」という近鉄の駅があり、なぜ「御」がいるんだ?という議論がありましたが、これなども「畝傍陵前」でいいんでしょうね。