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クイズ【187】
須恵器
LAST UPDATE 2005-07-18

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【187】出題日 2005年 7月 7日(木)
 古墳時代の日本列島では、土師器と須恵器という土器が広く使われていました。さて、須恵器の須恵(すえ)という音はある金属名を意味しているといわれます。さてそれは何でしょうか?
 A 銀 B 錫 C 鉄 D 銅
応募締切 2005/ 7/14(木)午前6時 難易度・・・・★★★

正解者・・・・neko.さん、ケムンパスさん、ようちゃん→3ptゲット
(得点表)

解説と解答

 須恵器とは、5世紀後から平安時代までの間に製作され使われていた、とても硬い土器です。ろくろを使い、階段状の「のぼり窯」で1000度以上の高温を作り出して焼かれるため、非常に硬くなります。同時期に使われていた土師器に比べ、堅さや防水力がはるかに強いので、液体類の長期貯蔵用に向いていました。

 弥生人が作り出した弥生土器は、朝鮮半島渡来の人々が創出したものですが、その製法を受け継いだものが土師器です。
 ところが、須恵器もまた、渡来人によってもたらされた製法で作られた、最新式の土器でした。須恵器を作るのには手間がかかるため、祭祀用は須恵器、日常生活は須恵器と土師器という使い分けがなされていたようです。

 後漢王朝は2世紀後半には崩れだし、3世紀初めに滅亡します。そして中国は、ゲームやマンガでも人気の「三国志」の時代に入りますね。その中国の混乱は7世紀末の隋の統一まで実質400年ほど続くわけです。周辺諸国へのにらみが鈍ったこの時期に各地で新しい勢力が台頭していきますが、中国東北地方から朝鮮半島に勢力を広げたのが高句麗[こうくり・コグリョ]です。

 4世紀〜5世紀の朝鮮半島は、軍事大国高句麗と倭[わ]国(まだ日本という名称はありません)に挟まれる形で百済[くだら・ペクチェ]や新羅[しらぎ・シルラ]や伽耶[かや・カヤ]諸国(朝鮮半島南端地域)の人々が、多数日本列島へ移住してきた時期です。それらの人々は渡来人と呼ばれ、7世紀までに100万人規模の人々がやってきて飛鳥文化の成立を支えました。ただでさえ先進文化地域の住民なんですが、百済などは、軍事大国高句麗を牽制するため倭国に軍事支援を要請した見返りに、各界一流の知識人や技術者を送り込んでもきたのです。

 渡来人の列島への大量移住は、政治レベルの変革をもたらす一方、庶民の生活の隅々にまで新しい技術や文化をもたらしたんですね。例を挙げればきりがありません。この辺はまた別のクイズにしましょう。

 こうした構図は、秀吉の朝鮮侵略という汚点はありますが、江戸時代の朝鮮通信使に至るまで、脈々と続いてきた「朝鮮半島の人々に対する敬意と憧れ」という民衆意識に直結しています。

 実は須恵器のスエの語源はよく分かっていませんが、「鉄」は朝鮮語で「スェ」と発音するので、「まさに鉄のように硬い」から須恵器と呼ばれたという説があります。瀬戸物の瀬戸はこの須恵からきていると言われますから、大阪平野を中心に倭王権によって居住地を指定された多くの渡来人が住み着いた地域一帯を瀬戸内と呼ぶのもうなづけますね。小海峡を瀬戸と呼ぶのもここからきているのかもしれまません。そうすると、瀬戸際の何とかという言い回しを僕たちはよく使いますが、これまた須恵器や渡来人との関わりをたどることができる言葉なのかも知れませんね。正解は「C」です。

 尚、「渡来人」と「帰化人」という表現に関しては、kurochanは、次に引用する文章の趣旨に賛同するものです。尚、渡来人のやってきた時期には「天皇」という言葉がまだなかったことを付記しておきます。


 古くは中国の史書等に、王朝の徳を慕って他国から臣民となりにきた者という意味で使われていた。日本でも『続日本紀』天平二年の記事に、登言興らが帰化したとあるのが初見で、天皇の徳が海外に知られ慕われているというPR的意味で使われている。しかし「帰化」したとされた人に、天皇の徳が意識されているはずもなく、自分の技術等に自信をもって自主的に渡来してきた点から、「帰化」人は渡来人と改められるようになり、現在では、教科書の記述もすべて渡来人となっている。
 「帰化」には、「同化」という意味も含まれているので、国籍選択の自由を保障する国際的な人権の視点から、現行国籍法の「帰化」制度は名称も含めて検討されなければならない。
(「季刊Sai1991 WINTER」KMJ(社)大阪国際理解教育研究センター)