子ども達の成長と僕ら側の変容
LAST UPDATE  2002-08-21

◆行きつけの飲み屋のカウンターで、顔見知りの若いサラリーマンが、「同和教育なんか学校でするから差別がなくならへんのや」と言い出した。ほら来た。今夜はどんな話をしようかな?生徒の前だけでキレイ事を言うようなキョーシにはなりたくないし、ここで黙っていたら、それこそ批判されて当然の口先の同和教育になってしまうじゃないか。酔って本音が出ている相手だからこそ、難しくはあるが胸にストンと落ちる話で返したい。毎夜のように飲み歩いていたその当時、あちこちの飲み屋で、時には口喧嘩になりながらも、「夜の人権ホームルーム」を時たま展開していたものだった。例のごとく、右隣のその若いサラリーマンに、話をし始めようとすると、その晩は左隣の常連のおじさんにとられてしまった。いつもひょうきんな「土方」のおじさんだ。
「俺はな、鹿児島から出てきてな、部落てなんか何にも知らんかった。そしたらいろいろ教えてくれるんや。それはな、ひどいことばっかりやった。俺も、部落の人間てそんなんかと思てた。せやけど、何年か奈良におるうちにな、それはえらいひどい偏見やて気ぃついてきた。ホンマの事を知らんかったら何でも信じてしまうんや。せやから学校のセンセは差別のこと教えてんねやろ。ちゃんと知らんかったら、間違ごうたこと信じてしまうで。」
 こりゃ、ますます中途半端な同和教育はでけへんで、と心したものだった。

◆学級担任に付き添って、「新渡日」の中国籍生徒の家庭訪問をしたが、担任はなかなか在日であることに触れようとしない。初対面の父親に遠慮していたようだ。で、僕から切り出した。母親よりは日本語が上手だが、それでもたどたどしい発音の父親は、来日してから苦労なく暮らせる日本はすばらしいと繰り返した。「では何故、表札は日本名なんですか?」との僕の問いかけに、しばらく言葉を詰まらせた父親は一転して、来日してから転職を繰り返して、辛い日々を過ごしたことを語ってくれた。黙って正座して父親の話を聞いていた娘は、自分の本名の文字は知っていても、発音は知らなかった。発音を教えてやってくれと告げたときの父親の顔が忘れられない。自分の名前も発音できないのか、という悲しみと、おまえの名前はこう発音するんだよ、という誇らしげな表情が入り交じっていた。そしてそれまでのたどたどしい日本語と対照的な美しく自信にみちた中国語。

◆まだ教員になりたての頃、金井英樹さんに日朝関係史の講演をしてもらった時、「この人は実にいろんなことを知ってるようだから一つ聞いてみよう、と質問したことがある。少し前に、プロ野球の張本選手に関わる「ある手紙の問いかけ」という教材を扱ったのだが、「いやなら帰れ」という感想文が多かったことをぶつけてみた。さぞやたくさんの対応策を教えてくれることだろうと思っていたのに、全く違う答えが返ってきた。「ほんであんたは何してん?」知る人ぞ知る金井氏の切り返しである。一瞬、ムカッとしたのだが、次の瞬間には感動してしまった。実践という次元で受け止めてはいなかったことを、その一言が指弾してくれた。豊富な知識よりも、もっと大切なものを、この時知らしめていただいたと思っている。

◆バブルがはじけた頃、ある解放塾に来ていた生徒の親の顔がどんどん白くなった。仕事が無くなったのだ。すぐに小学生の妹に酒を買いに行かせるので、一升瓶を持って泊まり込みで家庭訪問をしたりもしたものだ。青年部でどんなに頑張ったかが自慢話だったその父親は、身体を壊して亡くなってしまった。「人間解放」が父親の願いだった。

◆教員4年目。在日韓国人の生徒になかなか声がかけられなかった。僕自身が、帝塚山学園のハングル講座に通ってから、「ハングルを知ってたら教えてくれ」と、やっと声をかけることができた。断られたが、その後、指紋押捺拒否をしたいと相談された。

◆まずは、「どうしたん?」と声をかける。子どもたちの言葉を取り戻すために、僕自身が解放されるために。いまだ中途半端な実践途上だけど。


奈良 人権・部落解放研究所(なら ヒューライツステーション)から依頼を受け、同所発行の「ならヒューライツニュース61(2002年8月号)」[2002/8/1発行]のリレー連載「いのちかがやけ」に拙文が掲載されました。タイトルは研究所でつけていただきました。1600字という字数制限があったため、話題を数点に絞ったのですが、最後の方は、詳しく書けなかったのが心残りです。2002/7/22執筆。