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 外から届く陽光は、夏を感じるには少し柔らかい。

 窓を開けられば、空調の必要もないさわやかな風を味わうことができるだろう。

 ここは梅雨のない北の国。

 見下ろせば、北区と中央区を分ける大通りを、無数の人々と車が往来している。

 きびきびした足運びは、遅い夏の訪れを待ちきれずにいるかのようだ。



 通りより少し高い位置に設けられた、オフィスビルの入り口。

 一人の若者が今、夏を待たずに巣立ちの時を迎えていた。

 美男子である。

 自信と力に満ちた瞳が印象的だ。

 すっきり整った目鼻立ちを、光沢のあるストレートの黒髪が控えめに引き立てている。

 猫背と無縁に真っ直ぐ伸びた姿勢は、高い身長とあいまって嫌でも人目を引く。

 すらりとした体にまとった、センスの良さを感じさせるダークスーツ。

 糊の効いたブルーストライプのワイシャツに、ネクタイだけが自己主張して複雑な模様を金糸で描いている。

 青年の口元が緩んだ。

 胸のうちから溢れる想いを堪えきれずにいるように、薄い唇から言葉が漏れる。


「長かった・・・・・・」


 過ぎてしまえば二年の歳月など、あっという間のこと。

 しかし身の内からほとばしる情熱を押さえ込むには、二年は長すぎる。

 才覚に秀でた者なら尚の事だ。

 基礎知識の蓄積と基本修練を繰り返す毎日。

 人里離れた修行場で送った不便で単調な数百日。

 白い手を汚し、塵埃にまみれた自給自足の日々−

 今やそれらは過去のものとなった。

 ついに・・・・ついに、青年の力を世に活かす時が来たのだ。



 平和な暮らしを送る民草に、足音も密かに忍び寄る災厄がある。

 そのような災いを未然に食い止め、闇に葬る・・・・

 それが青年の使命だった。


「ふっ」


 走馬灯のように瞼の裏を流れる過去。しかし瞳を開けば、真っ白な陽の光りが降り注ぐ。

 青年は心の隅に修行の日々を追いやった。


「そうだ。私はこれから、この光のように真っ白な道を歩いてゆくのだ」


 胸をはり、堂々と−


「たとえ人に知られてはならぬ任務であろうと・・・・・・闇より暗い闇に潜もうと。

 たとえ我が手を血で汚そうと、我が身を血にまみれさせようと。

 何ものであっても、私の心から光を取り去ることはできない」


 青年が短く笑った。


「世界は民衆の与り知らぬ脅威に満ち溢れている。

 だが想像を超えた驚くべき真実にたどり着けるのは、限られた者、選ばれし者だけだ。

 ・・・・そう、私のように心に光を抱く者のみ。ふっふっふっふ」




「この地の人々はみな、私に感謝せねばな。この私がお前達の幸せを守るのだから。

 と言っても私が完璧な仕事をしてしまうせいで、お前達は災厄の存在すら気付かないわけだが。

 ふふふふふふふふふふふふふふふふ」




「この世の暗黒に潜み、愚民を搾取し血肉をむさぼる邪悪な者共よ。

 私がいる以上、これまでのような横暴勝手は許さぬぞ。

 ふははははははははははははは!

 いかに巧みに隠れようと、鷹の如く鋭い我が眼差しから逃げおおせることはできない!」




「くっくっくっくっくっくっくっくっくっ。

 おお、何という喜劇! 何という悲劇であろうか!

 世界はただ一人の人間によって保たれながら、誰一人として平和の根源たる存在を知覚しない!」




「くはははははははははははははは!

 しかし私は知っている! 知っているぞ! 誰あろう私こそが−

 この世界の救世主! 英雄! 言うなれば神に他ならないと!!

 この自覚こそが私の使命の源! 誇りの根源!」




「ひゃーははははははははははははははははははは!!

 さあ行くぞ! 私の世界、私を待ち焦がれる世界へ!

 我が全てを賭してこの世界を邪悪から守りぬくのだ!!

 くひゃーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!」




「きひゃーひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃーっ!!!」




「いひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃーっ!」




「ぐぎゃははははははははははははははははははははは!!!!!」




 ビルを出入りする者達ができる限り近寄るまいと、ガラスと壁に背中を擦りつけながら通っていく。

 大通りを歩く者は目をそむけ、ある者たちはこっそりと目配せし、ビルを大きく迂回して過ぎていく。

 青空に時ならぬ黒雲が沸き起こった。

 救急車のサイレンが響きわたる。

 そして青年の頭上十数メートルでは−


「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」」


 青年の上司と同僚が肩を並べて窓から見下ろし−


 全員揃って頭を抱えていた。







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