空が濁っている。
四民を難儀させる季節の風も、この澱みを飛ばすことができないほど。
人間の存在など、大自然の前に果てしなく小さい−とは使い古された言葉。だが、眼前の光景を見れば、人の力も捨てたものでないと思えよう。
おびただしい生者の放つ汗腺と腋臭、軍獣の垂れ流した大小便と体臭。
大地を踏み荒らす地響き。
蛮勇を昂らせる雄叫びと断末魔の悲鳴の阿鼻叫喚。
全てが相まって奔流となり、清浄な平原を穢し尽くす津波と化す。
そして、その津波に乗る一人の偉丈夫。
「我が天命を障碍せんとする凡愚の輩よ、しかと見よ!」
充血した金壷(かなつぼ)眼がぎょろりと四囲の敵を睨め付ける。
敵味方に関係なく他を圧する存在感。
太い顎がぐわっと開き喉仏が震える。
獅子吼が放たれ、有象無象を圧倒した。
「やあやあ我こそはっ!」
重厚な板金鎧をものともせず腕を振り上げ、長大な武器を掲げる。
日本の薙刀に似たそれは、物を知った者なら「関羽の青竜刀」と呼んだろう。
「我こそは東方の軍神! ミナモトのソンシ・アレキサンダー・シーザー・ショカツリョー・ナポレオン・ケンシン・テッカンじゃーっ!」
朱に染まった刃が唸り、苦痛と死が振りまかれた。
・・・・・・・・・・・・・・。
まあ−
血に飢えたキ○ガイどもの徒労は放っといて。
黒銀のファルマ |
「ふー・ちん・さく・ち・げん・きん・・・」
樹下を流れる声は小さい。
声の合間に聞こえるのは、草葉を掻き分け、腐葉土に革靴を沈ませる湿った音。
「かつ・しょく・だい・こう・ふく」
「一つ抜けた」
「・・・・・・・・ふー・ちん・さく・ち・げん・きん・かつ・しょう・だい・けつ」
「飛ばすな」
「ふえ〜い」
空が見えないほど深い緑。
思うまま枝を伸ばす無数の木々。
地を埋める枯葉と膝を越える下生えの雑草。
時おり聞こえる忙しない足音は、獣のものだろう。
陽が見えず、四囲の方角も定かでない。
空気に漂うのは、無言の圧迫感と疎外感。
ただ立っているだけなのに、腹の底から場違いという気持ちが沸いてくる。
人の手が入らない空間とは、かくも排他的なのか。
浮腫のような苔を張り付かせた木に寄りかかり、彼女はそう思う。
しかし目の前の二人に、そんな心情は無縁らしい。
この、野暮ったい三十男とチビ助には。
「桔梗湯」
「ききょーとーは〜、ショム二と〜ディアが二」
「半夏散」
「はんげさんは〜、ラクナウ五と、チャフー五と・・・・・・ディアが五?」
「・・・・大柴胡湯」
「だいさいことうは〜、エンデイア六、シュギリが四、バラヒーが・・・・四?で、あと」
たどたどしい返事が詰まった。
「あと・・・・あと・・・・あと〜、何かテキトー」
「お前は患者を殺す気か」
「あう〜」
「くくっ・・・」
大小二人のやり取りに、女の口元から笑いが漏れた。師弟から向けられた視線に俯いて、ひらひらと手を振る。
「続けとくれ、テッカン」
「ふむ」
男は自分の手元に顔を戻すと、雑草から選り分けた苗を引き抜き、腰の籠に落とした。
「大柴胡湯は腹の実証に対する幅広い処方だ。変化と応用も多い。必ず覚えろ」
「だってだって師匠〜・・・・材料が多すぎるよお」
「未熟者」
眉根を寄せた不肖の弟子を斬って捨て、男はかがめていた腰を伸ばした。
「大柴胡湯くらいで音を上げていては、奔豚湯(ほんとんとう)も女神散(にょしんさん)も調製できまい。ましてや防風通聖散(ぼうふうつうせいさん)など夢のまた夢」
瓜形の編み上げ籠が揺れる。あやうい重心を抑えるように、男は左右に振れる籠に手を当てた。
「それと」
籠から細長い茎を取り出し、ダーツを投げる姿勢で放る。
尖った茎が子供の側頭に突き立った。
「はぅっ」
「それは偽アーブだ。何の薬効もないぞ」
「ひあ・・・ご、ごめんなさい〜」
ただでさえ背の低い小妖種の、それも子供が、へこへこと頭を下げる。テッカンは見下ろしたまま鼻を鳴らした。
と、子供のこめかみをぬるりとした感触が這った。思わず触れると、指先に真っ赤な液体が移る。
「あーっ、師匠ヒドイよ! 刺さったよ!? 血が出てる、血がーっ」
「落ち着け、未熟者」
男は下草を分けて歩み寄ると、子供の髪に刺さったままの茎を抜いた。細い草の両端をつまみ、軽く折る。すると割られた茎から、赤い汁が染み出してきた。
「これが本物のアーブだ。偽アーブはこの赤い汁を出さん」
「うー・・・」
子供は、恨みがましそうな目で自分の師を見たあと、手に握り締めた細長い草を見た。茎を二つ折りにするが、透明な汁が滲むだけだ。口をへの字に曲げる子供に、再び鼻を鳴らす師匠。
「二度と間違うな」
「わかりましたあ」
いくぶん不満を残して返事する小さな弟子。手に付いた赤い汁を、服の裾にこすりつける。
「それと、その赤い汁は糸を弱らせる。拭かないで洗い流すようにな」
「言うの遅いよ! 師匠ーっ!?」
師弟のやり取りを黙って見ていた女が、堪えきれなくなった哄笑を樹林に響かせた。
一つの世界を、同じ名を持つ二人の男が生きている。
一人は栄光を求めて羽ばたき、一人は森を這い回る。
全く別の道を進む二人が邂逅するのはいつの日か。
それは作者にもわからない(ヲイ)。