「教育学」を読む、学ぶ、考える (→戻る)

 

(1−7)『いま教育を考えるための8章』(松浦良充・編著、川島書店)

 

・・・6章・7章は高橋寛人氏の執筆である。6章が「教育制度・行政・政策」についてであり、7章が「学級経営・学校経営」に関する記述である。さきに感想をいえば、本書の中で編集代表者(松浦氏)の担当部分(教育実習や生活指導について)につづいて、その編集意図(わかりやすく、面白い)があらわれているのではないかとも私は読んだ。面白い記述や事例などがあるのではないし、かわった資料が用いられているというのではなく、けっして単純ではない内容が“わかりやすさ”を配慮して論述されていると思えた。あくまでも私個人の読み(感想)であるが、その内容を以下に概説しながら確認していきたい。

 

6章 社会のなかの学校

この章のねらいは、「この章では、学校制度、義務教育制度、教育行政について、まずその原理を考察し、次に日本における歴史と現状を考える。さらに教育の国際化や21世紀へ向けての教育改革の動向について検討する。」と明確である。その順序どおりに各節内の論述が展開されていく。この“構図”のシンプルさ(あるいは的確さ)が“わかりやすさ”の理由の一つであろう。

1、学校制度

 「受験体制」という問題から制度を考えていくこととして、そのため「高校=後期中等教育」に焦点をあてるとしている。まず学校制度・体系の類型の説明に入る。複線型、分岐型、単線型の説明も「下構」や「上構」も含めて文章であるのにわかりやすいと感じる(もちろん図示があってもいいし、巻末の系統図を指示してもいいかとも思う)。続いて日本における歴史と現状という順序どおりに進む。第二次世界大戦後の制度を中心としているので“戦前”についての記述がないともいえるが、そもそも全体の進学普及の実態もあるし、さらに後節で義務教育制度については歴史的に論述されるのでここでは不満はもつべきではないかと納得しておく。高校3原則からマンパワー政策、あるいは多様化の方針まで一般的な流れはつかみやすいし、また「臨教審以降」の政策についても対象に含められている。もちろんこの節では民活導入や「自由化」路線という指摘にはとどまっている。さいごの部分に答申についての論述があり、それにゆずったかたちとなる。

2、義務教育制度 

  国家が教育に関与するようになったのがなぜなのかというところから説明をはじめている。課程主義と年齢主義の2つの型の経緯を説明する。もちろんボトムアップとしての、いわば人権としての教育という方向性も指摘している。ここでもまた順序どおりに日本の歴史と現状の解説にうつり、ここでは戦前の教育制度の説明も含んでいる。もちろん紙数的に必ずしも十分とはいえないが、できのいい辞書のごとく短い中で長期間の対象の記述がうまくまとめられているように思った。「教育史」本ではないのでどこで満足を感じるかが問題となるし、短い方が“歴史嫌い”に有効かあるいは鮮明に伝わるといった皮肉な結果があるかもしれないが、これらは受け取り側による程度の問題である。しかしたしかに“このぐらいの分量の方が入門的にはわかりやすいかも”と思えるバランスを感じた(あくまでも私の感想である)。そういう授業用の参考にさせていただきたい。

3、教育行政

 教育行政のアンビバレンスを指摘している点は共感できる。おそらく執筆者は現代の教育改革まで含めて、歴史的にも今後の展開や影響などの可能性についても自覚されていると思うし(ここにもっとも共感をもつ)、それは本章末で臨時教育審議会の改革についてまで検討を試みているところからもみてとれる。教育学者がその時の政策なりをできうるかぎり客観的に把握できるかはもっとも重要(基本)と考えているが、この改革導入期にそれをもちえていたかは後から責任が検証されるし、そういう危機意識なりが必要だと考えている。その点でこの執筆者は当時それらをおさえているということで安心して読める気持ちになった。これは私は大きいことと考えている。

 また「教育行政」もひじょうに多様多大な問題であり、それこそ一冊の大著でないと詳細に論じきれるものではないかもしれない。そのわがままさえ除けば、行政組織管轄の問題、地方行政(教育委員会制度)の問題、教科書制度(検定制)の問題という重要なものをなるべくわかりやすく説明し、またさらに問題点の指摘も含んでいるところは例えば「教育制度論」や「教育行政論」の授業でまず総論的枠組み(大枠)として教える時などに有効であるとも思える。そういう情報の整理という点では参考になる。

4、新しい時代と教育(目次に「120」と付されているのは誤謬か)

 このさいごの節は「未来に向け」たものである。時代(当時)に対応して「国際化」について検討することを提起している。外国語教育、海外帰国子女、留学生の問題点をあげ、プログラムの実態について究明していく。次に「国際理解教育」ということについて概念や見解を整理していく。あくまでも「整理」中心であるから、これが現在(2002年)の問題と照らしてどのようなものであるか検討していくのが読者の課題でもあろう。

 さいごが臨教審答申と、その教育改革の可能性と危険性についての記述である。「日本経済の発展のための個性であって、私たちの求めるものとはズレがある」などの危険性は意識されているし、委員に任命されたメンバーについても指摘されている点が私(一読者)が最大の好感をもてた部分である。少なくともこの執筆者(高橋氏)は無自覚にこのテキストなりを書いていないし(このように評すること自体がたいへん失礼かと恐縮もするが)教育学研究者・教育者の責任感というのが示されていると思えるのである(感じられるのである)。この本は「教育学」をわかりやすく面白く学んでもらうための入門書を意図している。それは図やイラスト数や語句の整理だけでなく、やはり現実の教育へのスタンスやそこから生じる納得(説得力)というのが重要ではないかと思うのである。面白くないテキストというのはわかりにくいのもあるが、そういう疑わしさがもたれることもあるのではないか。そう考えている私にとって語句や概念の整理とバランス、そしてパターンで安定した論述方法に加えてこのスタンスが明確に感じられるところに好感をもてたのである(あくまでも「好感」は「感覚」であり私個人の読みであることは重ねておことわりしておきたい)。 

 

7章 学級を組織する・学校を経営する

 ここでは、活動単位たる「学級」の意義や問題点を歴史をふまえて考え、学校という組織について地域との関わりもふまえながら考察することをねらいとするという。

1 学級経営」と「2 学校経営」というそのとおりの2本立ての構成になっている。教育制度・行政の前章とは違い本章は教師の指導の単位(であり生徒の学習の単位でもある)「学級」や「学校」の組織・しくみを教えるための部分である。採用試験や知識としてはおそらく6章の方が過去は重視の傾向があったようにも感じるし、「学級経営」や「学校経営」なりというのはある程度「実践」的部分も含むといおうか、“こういうものがクラスというものだよ”とイメージさせるという面もあるわけである。もちろん概念や様々な歴史的変遷や方法原理(編成原理)もあるのだがどうしても比較的にイメージしやすい部分は(比較的に)具体視が必要と考える。そのためかイラスト・絵図での比較が多くとりいれられ、わかりやすく試みられている。「学級編成」のイメージ、「学級教授」のイメージはかなりわかりやすくなっている。より求めるならば記述にはあるオープン・スクールやティーム・ティーチングなども写真・画像などがあればいいかとも思う。本書全体の編集技術上(用紙も含め)の問題なのか「写真」が採用されていない点が残念に思う箇所がいくつかあった(全体的に)。写真で示される資料、新しい授業形態や建築が視覚的にみせることができればとも思う。「新しい教科書」問題ではないが、たしかに「視覚」にうったえる努力もできうる方策の一つではある。その意味では本書全体の一つの限界点ではある。もちろん何がいい資料・写真かも検討は必要ではあるが。

 さて、1では「学級経営」とはどういうことで、どのような経緯を経てできてきて、どういう思考があったのかということに力点がおかれているとみた。もちろん「マニュアル」ではないのでこのようにすれば学級が経営できるというハウツー的な記述はない。「ねらい」で設定したとおりにその意義や問題点を把握しておくという「教育学」的知識の問題をあえて明確に意識されているのかもしれない。その中でイメージも利用してより導入しやすくしたのか、あるいはやはり現場(実践)に即席のものはないのか、どちらも含むと(その体現であると)理解していいだろうか。2では「学校経営」、「学校」というもののしくみを分解してみていくという形式で、こういう要素が維持・運営のためにあるということが教えられるよう意図されている。校務分掌や職員会議や校長などの職階が「ある」というだけでなくそれを「組織」論としてみた場合どのようなものと考えていけるか、ここは実践にとても近接するものとして教えることが可能なのではないか。地域やPTAという「学校」内のみではない校「外」との関わりという、もう一つの関係性を課題としてあげている点も、問題点がよく整理されていると思った。 

  おそらく執筆者自信の専門のところなのか、授業で実際に担当されていてこなれた部分なのか、あるいは相当の博識で(当然求められるべき資質だが)「教育学」を広く把握されているのか、そのような余裕が感じられたゆえに評価を高く書いてしまっているのかもしれない。他章も私は低くみようとも思わないし、わかりやすいのか、面白いのか、あるいは自分が学ぶ立場で考えたとき、またこれを使って教えるとき、ということから考えていこうというのであって、“わたしの”読みではある。しかし真の問題はもっと大きく考えるべきかもしれない。共著の意識といおうか、分野もあるが、しかし読み手の感想がばらつくという中に、どうしても解決されえない個人の“読みの差”という問題に対して、“編集の意図(意識)の統一”という部分でかえていける部分もあるのではないかとも思うのである。臨教審の改革のとらえかたにしても、同じテキストの中で少し差があるのではないかとは指摘してきた。“違い”“可能性”はあってもいいが、それならば全体として何かまとめておく必要があるのではないだろうか。・・・しかし“このレベルの記述をめざしたい”と思えたことがこの章から最大に学んだことであったかもしれない。

(以上、高橋氏の執筆部分)

         (・・・2002年4月10日のメモ)