「教育学」を読む、学ぶ、考える (→戻る)
(1−6)『いま教育を考えるための8章』(松浦良充・編著、川島書店)
・・・今回のアップまで諸事情によって時間がかかってしまったが、その間に読んでいただいたかたからご意見をいくつか賜った。「厳しいのではないか」ということと「批評だけではなくて自分もテキストなりをつくるようにしていくべきでは」というご意見があった。いや、繰り返しになるがこのテキスト自体が“これまでの教科書には欠けていた「わかりやすさ」”を標榜するのだから、そこを受け取る側としても(少なくともそれを使用して教える以上は)吟味しておきたいというだけなのだ。「教科書を教える/教科書で教える」のどちらかということで考えていって、そういう内容なりは問わないということでもいいのだが、しかしこのテキストはそういう“欠けていた「わかりやすさ」”を目指すのであろう。だからそれに触発されて考えていくことは重要だと思う。タイトルからして基礎的・初歩的な書籍であろうに、そこから(いちおう教育学を専門とする世界のはしくれにいる者が)「教育学」を学んでいこうと(する時に)私が意図するのは、「そういう『わかる』ということをちゃんと前提として教育学を考えていく」ことなのである。<試金石>ではないが、そういう大事なものとして学ばせていただくスタンスなのでご理解をいただきたい。そしてそれは自分が「テキスト」なりを書くときの、構想につないでいけるとも考える。当然、私が何かしても厳しい評価・批評なりを受けることは自覚しているし、そういう「読まれ方」や「わかりやすさ」を含んで「教育学を伝える」ということを考えていきたいと思う。
今回の<5章>は編者である松浦氏の担当部分である。1章に続いておそらくもっともこの「テキスト」の意図が反映されているであろうと予想しながら(先入観で決めつけるのはいいことではないが、しかし複数人の企画であることや「集団・チームの連繋・意識」などを考えればもっとも意識が集約される部分であろうと考えて)読ませていただいた。
5章 「掃除」や「給食」から学校教育をみつめ直す
この部分は「教科外教育活動・生活指導・特別活動」にあたる。執筆者松浦氏は、1章で教育実習を担当して“学校現場でおこる実際的なことの心得”のようなものを見事に書き記していたと思うのだが、ここではさらに“授業以外に学校で行なわれていること”を扱っている。他の章で哲学や法制、あるいは授業方法論が説かれるのに対して実はもっとも<読者=教員志望の学生を想定>の興味がある部分――つまり“現場の実態に近い”と感じとられて受け入れられやすい(興味をひきやすい)分野ではないだろうか。そういう「有利」がありそうだが、実はそこは逆に描きにくさもあり、たしかに「テキスト」としてはどうしても無味乾燥な「つまらない」(ような)ものが多かったという分野でもあろう。そういう臨床的な、あるいはそもそも「わかりやすい例え」などは啓蒙書や体験論、評論・ルポ的なものがあったのみであり、「テキスト」というものの「イメージ」なり「重さ」なりといったものがあってか結果的に(テキストとしては)つまらないものが多かったというのが実状ではなかったかと推察している。その意味で、松浦氏担当分は総合的に教育学を学ぶためのテキストにする上で、やはり「目玉」と位置づけられるのであろうか。おそらくご本人にはそういう自覚や(いい意味での)戦略もあると思われる。そしてそれが反映されて「興味に応えるべく」構成されていると読後感をもった。
この章の「ねらい」は、「授業」以外の教師の仕事として「生活指導」や「特別活動」とよばれる活動があるが、それが生徒の成長・発達にどのように関わるのかみていきたいとして、具体的に「掃除」「給食」から考えてみようと記されている。明快であるし、具体的な内容が期待される。何のために何を学ぶのかが示されている(もちろん唐突であるとかシンプルすぎないかとか思われるかたもいるかもしれないが、私は短いなかにも「はっきり」示された部分が読み取れた)。この授業以外の部分は“隠れたカリキュラム”の部分とでもいっていだろうか。あるいは“二本柱”としての「学習指導」と「生活指導」という説明もありえる。あくまでも私の場合、授業でこれらも説明してしまうが、たしかに煩雑になりかねない。その意味でこの「ねらい」はシンプルではある。刊行(編集)当時は「生徒指導」「特別活動」が必修としてとりいれられる時期であったかと思うが、その意味でも本章には期待が集まっていると思われる。
内容としては、@「『掃除』に教育的意味はあるのか」、A「生活指導」と「生徒指導」、B「生活指導をどうすすめるか」、C「教科外教育のこれから」の四つの節で構成されている。@で「掃除」を、Cで「給食」を取り上げているが、具体的な事例・事項から入ってAで概念・理念とBで方法論を学ぶように「ひきつけ」ていって、また具体的な事項に戻っていくという描き方は“読ませる”ものであると思う。実践例から理論をという方向は、私も授業でとっている手法だが、たしかに「テキスト」でもこの方法があればより身近に感じて、また個人でも学んでいきやすいと思う。この<構成の工夫>は勉強になった。
もう少し丁寧にみていけば、@では先ず「生活指導」というもののイメージを読者の体験から思い出させ、連想させていこうとすることからはじめている。予想される連想をあげているのだがバーチャルな授業のようにストーリー性があっているときには効果が高いと思う。そして答え(イメージ)をまとめた後にもっと先生にとって現場で日常的なものからみていこうじゃないかと「掃除」の問題(サボリ)に引き込んでいく。「サボル」という問題もよりよく理解するために、そして指導していくために「教師」「生徒」それぞれの視点から考えていくとしているのも見事であると思う。実践記録を紹介して生徒に効果的な指導法から入っていくというのも比較的に具体的である。次にそもそも「サボル」という行為を考えるについては「(掃除を)させるべきか」「させないべきか」という部分からも考えていかねばならないとして、沖原豊、佐藤秀夫、家本芳郎の三者をあげて三つの見解を紹介している。「人間形成に役立つ(から必要である)」という意見と、強制的であるし「健康上の理由からも(させないべき)」という意見、その二つを踏まえてか「自分たちの学校(という意識を前提に)」として主体的にするなら意味があるというとらえなおしの意見である。また、このように掃除一つをとっても教育・学校の意味を問えるとして、また家庭や地域との関係も「生活」という視点から考えていくべきだと指摘されている。この部分だけでも著者の「ねらい」・“こだわり”が感じられる。もちろんすでに新聞紙面等でつくられた構成ではある。しかしそれもできるだけわかりやすくという方向だとは感じとれた。一つだけ疑問に思ったのは「生徒の視点」はあまり読み取れないような気がしたが、それは「気をつけるべきこと」という指摘なのだろうか。「それぞれから考えてみよう」としているが、どうも私には関連する記述が読み取れなかった。
Aでは「歴史」的変遷からふりかえり「生活指導」の原理を説明していく。「しつけ」という観点があったことと、また現在も(1)ガイダンス的生徒指導と、(2)集団づくり、の二つの流れになっているという。例えば「掃除」でいえば強制して、あるいは罰をちらつかせることにより「叱られる」「規則があるから」と行動するようにしていくのは「管理主義型」といえるし、逆に「劇化」(サイコドラマ)によって気づかせ、自主性・自発性をめばえさせるという方法もあるというように、二つの方向があるという。後者が生活指導の原理となるべきという。これは「管理主義」が(2)で、「自主性」が(1)のタイプともいえようか。個人的にはもう少し歴史については戦前の「教育観」の問題や、あるいは「劇化」にしても具体的な方法などを載せていただきたい気もする(あくまでも私の関心である)。もちろん分量の問題があるのでこの程度の記述にとどめるしかない制約があったのであろうことは理解している。すると本書自体、章ごとの記述をもう少し増やすということも必要ではないか。これは出版事情であろうから個人への意見なりではないのだが(それを言ってはおしまい的ではあるが)“分厚い教科書は面白くない”と決めつけられないのも事実である。実は“面白いならば分厚い教科書でも問題はない”という方向もありえると思っている。これがいちばん難しい問題かもしれない。
Bでは方法として、(1)子ども理解、(2)集団指導、(3)個別指導があるとしている。(1)の方法としてデータ収集のための観察、面接、質問紙法、作文判断、ソシオメトリックテストなどがあり、それらをもとに把握していくべきとしている。もちろんそれらのデータは「あくまでも一部」であることも理解しておくべきとしている。(3)の方法としてカウンセリングの手法をいくつか紹介している。(2)として班づくり、討議づくりなどをあげる。また、校内指導体制や家庭や地域との関係・連繋を忘れるべきではないとしている。“もう少し説明を”というのは全体を通しての私の飢えであるからここでは横に置く。章末に参考文献で紹介しているように「生徒指導」関係のテキストは多くあるが、それを短く一章にまとめるというのには限界はある。しかも実際には一つの「節」に縮小しているのである。もちろん“短い”ゆえにうまくまとめられたなと思う部分もある。著者が学習された成果であろうと敬意を表する。ここから他の専門書なりにステップしていくものとしては意義があると読んだ。この書全体がそういう「入門書」という性格なのであろう。しかし、するとどの「科目」のテキストとして使うのが最適なのだろうか。
Cでは、今後の問題を論じている。「特別活動」(ホームルーム、生徒会、クラブ、行事など)を「自主的・自治的集団活動」に組み換えていくことが課題になるとしている。ここで具体的な例として「給食」をあげている。人間関係と生活習慣についても学べる(効果がある)としている。給食の問題として「自校方式」と「センター方式」というものをとりあげているのには個人的に興味をもった。両者の長所・短所を紹介している。そして「給食」指導に関する賛成・反対の双方の意見もとりあげている。考えさせるという意味でもバランスよく配慮されているといえよう。この意見が偏っていないというところが実は松浦氏の記述のもっとも好感がもてる部分である。ここまでの他の章への感想で書いたように実際に「偏った」「決めつけ」は多くある。「あやふや」「曖昧」「抽象的」ではなく、ニュートラルな位置とでもいおうか、「バランス」感覚がある部分と、そして「実践から立論」という部分とがもっとも心地好くよめたところである。
さいごに、「これから」として、「実践的な指導の方法を考える前に、その『指導』自体がもつ意味を、大きな文脈の中で考えてほしい」としている。「問題の根本的な解決」をめざすには「押さえ込む」だけではなくて、それらをとらえていくために行動の背景を考える姿勢ということが大切という。松浦氏のこの章はやはり本書の中でも構成が際立っていると感想をもった。ただし、「生徒指導論」なり「カウンセリング論」なりの授業の立場でいえばもちろんもっと求めたい部分はある。しかし「いま教育を考えるために」という意味からすれば、分量制限の中でかなりのレベルでまとめられたものと思った。大きく学ばせていただいた。具体的な部分の記述は簡略化しすぎて、例えば相談の技法などは「理解」にまではいたるのが難しいのではないかとも思う。しかし、それはこの「構図」をつかってどう教えるかということでもあり、そういう「骨組み」としてはしっかりとしているのではないかと思えた。参考にさせていただきたい。ここで興味をひきつけて、より専門的に学んでいきたいという「興味」や「モチベーション」をもたせることこそが「教育学」理解の第一歩(目標)と考えて書かれたのではないかとかってに解釈させていただきたい。厳しい評価はあまりできていないが、本書内でもなかなか興味深く読めた部分であった。
(以上、松浦氏の執筆部分)
(・・・2002年2月7日のメモ)